二六

 ここで小さなノックの後、菜々美が制服姿のまま入って来た。一緒に体験を受けてくれるのだ。 

 はい。では、まずは緑茶(日本茶)についての座学を始めましょう。

 座学では、日本茶の種類から緑茶を入れるにあたってのコツを。私はすでにお配りした用紙の文章を口に出して読んだ。


 一、おいしいお水

『お水は水道水でも問題ありませんが、カルキ臭を抑えるために一度沸騰させたお湯を使用しましょう。ミネラルウォーターなら、日本の軟水を選んで』


 二、煎茶、玉露の温度

『煎茶は八十度程度、渋みと旨味を楽しむために。玉露は五十度程度が適温です。低温で甘みまで頂くのが玉露』


 三、最後の一滴まで

『最後の一滴にお茶の旨味や渋みが残っています。ぜひ、一滴まで注いで。それは紅茶も同じで、イギリスでは紅茶の最後の一滴をゴールデンドロップと呼んでいます』


 今さら聞けないお茶の種類・紅茶やハーブティーにも少し触れ、それらのことを体験談も交えて私は喋った。ところどころ笑いもあって、徐々に和やかにレッスンは進んでいく。


 次は実技のお稽古。

 教室の奥には靴を脱いで座れるようにジョイントマットを敷いている。そこに生徒さんたちと移動し、これからお茶の入れ方を披露。

 そして、皆様に同じように体験して頂くのだ。

 私は靴を脱ぎ、マットの上で正座をした。さあ、呼吸を整え、静かに流れるような動きで美しくお茶を入れよう。

 その時だった。ノックの後、扉が開く。スタッフに連れられ、最後の生徒さんが登場した。


「遅れてすみません。あの、私……磯乃館沙織いそのだてさおりといいます。よろしくお願いします」

 首に掛かった名札と顔を私は見つめる。

 長い髪にモデルのような姿態。瞳が印象的な小顔、ほんのり化粧をした表情は大人っぽくてとても女子高生に見えない。

 肌色にあったオフホワイトのニットに、同色の膝上スカートが清楚な雰囲気を醸し出している。しかしなぜかそれは、冷めた瞳の無慈悲な美しさにも感じた。


「さおり……さん?」

「はい。先生」

 先生……。私のことを先生と呼んだ。

 そう呼んだ彼女は、紛れもなくだった。あの日万引きを疑われ、憐れなバンビのように私を見つめた……あの。

 私は胸に迫るものを感じ、心が震える。今まで沙織とわした瞬間がいくつも思い浮かぶ。私の思いが通じたんだ……そう思った。

 私は深く深呼吸し、丁寧に一礼する。そして生徒の皆さんが見てる前で、心を込めお茶入れの所作を始めた。



 生徒全員でのお茶入れのお稽古が終わり、あとは質問の時間となった。

 この後、宮前店長によるスクールの説明に入る予定。

「……あの、すみません。ちょっとお伺いしたいのですが」

 後ろのテーブルを陣取る、親子連れの母親のほうが声を出した。自尊心が強そうなゴールドの縁の眼鏡をかけている。

「はい、木村さん。どうぞ」

「すみません、木村昌代と申します。今回……娘にちゃんとしたマナーを身に付けてもらいたくて体験に来たんですが、先生はまだお若くていらして驚きました。出来れば一流の講師から学びたいと思っているのですが、……先生の経歴などを伺ってもよろしいでしょうか」

 若干、棘のある声。穏やかだった空気が少し張りつめた。


「あ、はい。あの、私は……川緑流の礼儀作法教室でずっと学んでおりました。川緑弥生子先生に……師事しております。経歴、ですか。えっと、あの」

 圧のある声に緊張して、たどたどしく応じてしまう。経歴と言われても、私にはまだ何もない。

 出来ればここで母の名前は出したくなかった。別に出したからって何ということでもないのだが、自分の力でこの道を進んで行きたいって決めたから。変なプライドが自分を窮地に立たせる。


 シーンと静まった教室が息苦しい。まるでちょっとした拷問? 

 胸の鼓動が聞こえてくる。しかも早まってる。何だか本当に苦しくなった。

 パニックが始まったらどうしよう……。私は思わず、鼓歌の黒いチョーカーに手をやった。

「あの、」

「先生」

 その時、宮前店長と沙織が同時に声を上げる。私はきっと、すがるような目を向けていたのだろう。菜々美の心配そうな顔も見えた。

 店長が、発言権を沙織に譲った。

 沙織は意外にも堂々とした物腰と意志のある表情で立ち上がる。木村という女性も、凜とした沙織に見入っていた。


「先生……小笹先生。私、今日の体験会を楽しみにしてました。……先生は、私のことを二度も助けてくれましたよね。見ず知らずの私のことをどうして助けてくれるのか、いつも不思議に思ってたんです。でも、マナーのことを知って、少しずつですがそれが分かってきた気がします。……先生は私を見過ごせなかったんだって。川緑先生も、私に話して下さいました。『マナーを学んで役に立たないことは何もない。使用しなかったとしても、確実に自分の自信に繋がる。そうしたマナーの習得者は、生き迷う人がいたら手を伸ばし、何としてでも助けようとする』と。……私も、出来ればそういう人間になりたいと思いました。ぜひ、小笹先生の元で学ばせて下さい。お願いします。……あの、そういえば、市議会議員の父が言ってました。先生のお母様の小笹鏡子先生には、以前テレビ番組で大変お世話になったとか」


 沙織が喋り終わる直前から、話をじっと聞いていた生徒さんらが突然ざわつき始めた。このざわつきは私と沙織の関係ではなく、市議会議員の沙織の父と私の母についてだとすぐに気付いたけれど。

「磯乃館……って、やっぱりそうよ。特徴のある名前だもの。磯乃館議員のお嬢さんだったのね!」

「先生って、小笹鏡子の娘なの。じゃあ、有名マナー講師の娘ってことじゃん。えー、すごくない?」

「皆さんが入会するなら、私もしようかしら。せっかくだし……」

 私は静まらない教室の雑音の中で、まだぼんやり突っ立っていた。沙織の気持ちが信じられないほど嬉しくて、ただその温かい気持ちに浸っていた。

 沙織は私を助けるためだけに、立ち上がってくれたのだ。

 胸の鼓動は、いつの間にか影をひそめていた。代わりにジーンと胸が熱い。私は幸せ者。人前じゃなかったら、思い切り嬉し涙を流したに違いない。


「皆さん、お静かに。……さあ、それではスクールについてと入会のご説明をしていきたいと思います。その前に、こちらのマナー講座を受講してもいいなと思われる方がいましたら、手を上げて頂けますか」

 宮前店長が声を大きくして言った。

 すぐに沙織が手を上げた。それから菜々美も。可愛らしい丸顔のあの笑顔で。

 他の生徒さんたちはまだ顔を見合わせていた。ふたりが受講してくれるので、一応開講は決まったけれど。でも実際こんなにも頼りなげな私には、誰もレッスンを受けたいなんて思わないのかもしれない。

 母の教室と比べてしまう。活気のある教室。笑いの絶えない母のまわり。

 堂々としたカリスマ性と安心感に満ちた、あの手腕は到底真似できない。

 やっぱり、こんな駆け出しの私じゃダメなのかな。沙織や菜々美、そして宮前店長に申し訳ない気持ちになる。


「……お願いします」

 その時、一番前の右端に座っている二十代後半の女性が手を上げた。

「ぜひ受講したいです」

「中谷……さん?」

 私はネームに書かれてある名前を言う。

「はい、中谷加奈絵と申します。小笹先生の丁寧な所作と、優しい指導が私に合ってる気がして。実はいくつかマナー教室を体験してみたんですが……他は、わりと怖い先生のところも多くって」

 長い睫毛、パッチリとした二重瞼の女性が、周りを見渡し含み笑いをしながら言った。


「あ、ありがとうございます! こちらこそ、よろしくお願い致します」

 もう、泣きそう。こんなに嬉しい気持ちになるなんて。私を選んで下さる方がいる。私がいいって言って下さる方がいる。

「……これから精一杯、私の持てるもの全てをお教えしたいと思います。どうぞ、よろしくお願い致します」

 深くの立礼をした。嬉しすぎて、両手の指先が震えていたのはここだけの秘密で。


 途端に教室内がざわつき始めた。皆さんが喋りだしたからだ。そして、それは耳を疑うような展開。

「私も小笹先生に習ってみるわ」

「まずは三ヶ月からでもいいのかしら」

「店長さん、今日はお金持ってきてないんですが、何日までにお支払いしたら受講大丈夫ですか」

「今日は時間がないので、予約だけして帰ります。すみません!」

 宮前店長も菜々美も、バタバタと教室と受付を往復し出した。入会申込書、受講申込書とボールペンを皆様に配っている。教室内に幾つもの笑いが広がった。

 それは私が見慣れていた、母の教室によく似ていた。

 

 蓋を開けてみるとなんと十名の生徒が、私のマナー講座に申し込みをしてくれていた。宮前店長もものすごく喜んでいる。実際二、三名から始める講座もあるんですよと。菜々美も「果耶、すごい!」と言って、私の手を取った。

 私は静かになった教室の片付けを終え、スクールを後にしている。沙織と一緒に。

 沙織にはきちんとお礼を言わなければ。そして、ちゃんと話をしてみたかった。これから同じ道を歩む同志としても。

「沙織さん、今日は来てくれて、本当にありがとうございます。まさか、私の教室に受講してくれるなんて。私、沙織さんのこと……いつも引っかき回すだけで、何の助けにもなっていなかったのに。えっと、あの時はごめんなさい。本当にありがと……」


 結局私はきちんとしたお礼も言えず、曖昧な言葉を繋いだ。私より背の高い沙織がうなずく。

「そんなの、大丈夫です。それより先生、言ってもいいですか。あの……先生はもっとずる賢くてもいいと思います。私が言うのもなんですけど。今日の生徒募集だって、私が何も言わなくてもお母様の名前を出せばみんなすぐに受講を決めたと思います。……大人なんて、どうせそんなものでしょ。長いものに巻かれたい人たちばっかり。思い通りにしたいなら、使えるものは使えばいいと思います」

 沙織は私の顔を見ず、驚くほど辛辣に言った。

「えっ? あ、だからさっき……お父様の名前も使ったの?」

 私は沙織の義父のことを思い出して言う。沙織は市議会議員という父親の肩書きを利用して、私の窮地を救ったのだ。


「……はい。あんな人、それくらいしか取り柄ないから」

「沙織さんったら……」

 私は言葉が続かなかった。沙織の義父に対する闇は深い。私が簡単にその深淵を覗けるような距離ではなかった。

「あっ、そうだ。……沙織さんにずっと聞きたかったことがあるの。もしよかったら、教えてもらえますか」

 私はわざと笑顔を作り、沙織に問いかける。沙織はちらっとだけ私を見た。

「真結美堂さんで初めて会った時にね。私、学生カバンを拾って渡したでしょ。そのときに見えてしまったんだけど。……どうして、カバンの中に何にも入ってなかったの?」


 沙織は思いがけず驚いた表情を見せた。そして更に突っかかる態度になる。

「中を見たんですか」

「あ、ごめんなさい。見ようと思って見たんじゃなくて、たまたま。あの……言いたくないならいいの。気に触ったなら、ごめんなさい」

「別に……いいです」

 そっけない沙織。

 そして、口元を歪ませて不機嫌そうな顔を見せ言った。

「カバンの中身が空だったのは……もちろん、私があの時、波サブレを万引きしようとしてたからですよ」

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