十九

「果耶先生……小笹鏡子先生のお嬢さんだったんですね」

 私が伏し目がちにいろいろ考えていると、不意に店長が目を細め私を見た。いや、私を見ながら母の面影を探していた。

「……母のこと、ご存じなんですか」

 店長が優しく微笑む。

「私がここに勤め始めた頃、都内の店舗にお手伝いに行ってまして。その時に鏡子先生のお稽古を拝見させて頂きました。……生徒さんたちがとても熱心に、瞳をキラキラさせて先生のお授業を聞いていらしたのを覚えています。先生はカリスマ性に恵まれていましたものね。私も人生において、先生のお言葉を今も心にめております」


 母のお稽古に感化される生徒さんは多い。母はそれこそ沈まぬ太陽のように情熱的なエネルギーと指導力を兼ね備え、誰にでも温かい利益を分け与えた。だから母の名は知れ渡った。母がどんな人の心にも強い愛情を与え続けたからだ。

 店長が胸に刻んだそれは、どんな言葉なんだろう。私は声に出さず、店長の顔を見つめる。その表情は過去にさかのぼるようにして、ゆっくり言葉を口にした。


『いかにいい仕事をしたかよりも、どれだけ心を込めたかです』


「……マザーテレサのお言葉らしいのですが。私の手を取り、鏡子先生は教えてくれました。本当の意味で仕事で成功なさっている方々は、きっとそうされていると。それからずっと自分の仕事に不満を持った時は、必ず思い出すようにしています。自分の心を立て直すために。今では、人生の指針になっているかもしれません」


 店長の心に響いたその言葉は、今まさに私の胸にも届く。

 これから仕事をしていく私に、母が遠くから店長の言葉を借りて教えてくれたのかもしれないと思った。エールを送ってくれていると。

 思わず溢れた涙を隠せなかった。店長が優しく言った。

「出来る限りのお手伝いをさせて頂きます。頑張って、開講させましょう」

 私は泣き笑いみたいになって、何度も頷いた。


 真実の言葉は巡り巡って、当てはまるパズルピースのように必要とする誰かが受け取るものだ。心を柔軟にして、感情のひだを増やして、私もいつか誰かに伝えられる言葉を持ちたい。その言葉で、誰かに優しい涙を流してもらえるように。愛で包まれるように。

 開講を約束し、厳しい顔で部屋を出ようとする私に、店長が最後に一言付け足した。

「……そう言えばもうひとつ、マザーテレサの名言を教わりました。ちょうど、今の果耶先生にぴったりのお言葉じゃないでしょうか」

 私が振り向くと店長が微笑んでいた。


『神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけです』


 ああ、すぐに挫けそうになる私を、母は遠い空から確かに見守っている。

 弱気と緊張を繰り返す私を心配してる。もし失敗しても挑戦していったら、し続けたら、いつか母の目線に届く日が来るのかな。母の輝くような笑顔をどうしてもまた見たくなった。

 私がこれから幾つもの試練を乗り越えて、今はゴールなんて全然見えないけど、でもその旅の途中でその景色の中で無邪気に笑うことが出来たなら。

 ――きっと。きっと、私の笑顔はあの空まで届くのかもしれない。



 バスで鎌倉まで戻る。

 日暮れにはまだ少し早いが、どうせすぐに日は落ちるだろう。バスの窓からぼんやり外を見ていた私は、ふいに見覚えのある横顔と制服のシルエットを見つけた。思わず腕を伸ばし、降車ボタンを押す。

 あのだ。

 膝の上に置いてたバッグを掴むと、私は彼女を見落とすことのないように目で追いながら駆け出した。

 以前、真結美堂で万引きの疑いをかけられた女子高生。

 ストレートの艶のある黒髪をなびかせ、端正な小顔と短いチェックのスカートから伸びる細く長い脚が印象的。痩せすぎなところが少し貧弱に見えるが、モデルなのと言われれば納得の容姿だ。


 道路の反対側にいるため、なかなか追いつけなかった。こんな日に限って、信号が青に変わらない。名前を呼ぼうにも、肝心の名前を知らないことに気付いた。

 細い横道に入り込まないことを願う。路地に入り込まれたら、どこかの戸建て住宅の塀に邪魔されてもう二度と見つけられないだろう。

 あ、次の信号がちょうど青に変わった。ラッキー!

 私はこんなに走ったことないっていうくらい頑張って走った。どうしても、もう一度会って話をしたかった。一体、何の話を……?

 それは実際会ってから考えよう。苦しい、息が上がる。……もう体力の限界。最近、運動不足だったな。反省。

 ちょっとお願いだから、待って。


「待って……」

 三十メートルほど先を行く彼女に向かって、何とか弱々しい声を振り絞った。しかし聞こえなかったようで、ある立派な門構えの頑丈な扉の中にするりと消えてしまう。

 嘘、ここまで来て……。

 ピンポンを押そうかとも考えたが、彼女が私のことを覚えていなかったらどうしよう。呼吸の荒い、あやしい女ストーカーじゃん。

 私は門の前に立ったまま、呆然としてしまった。夕日が陰り、湿り気をおびた闇が徐々に空を覆おうとしている。

 しばしその場に立ち尽くしていたが、どうしようもないので諦めて帰ろうと背を向けた瞬間、門の奥から人の言い争うような声が聞こえてきた。

 中は見えないが、争うというか男の荒ぶる声が聞こえる。


「出て行くんだ、今日は夜まで帰ってくるなと言っただろ!」

「痛い、離して。……お母さんに会わせて」

 ……何だか物騒な会話みたい。背の高い威圧感のある門に耳を傾け、私はじっと佇んだ。

 それがよくなかった。いきなり門の扉がこちら側に開いたので、私の顔に扉が激突する形になったのだ。


「いったーい」

 目の奥で火花が散る。星が見えるとはこのことか。おでこを押さえ、うつむく私に男性の苛立った声が響いた。

「誰だ、君は! こんなところで一体何をしてるんだ?」

 ごもっともです。私は頭を押さえ、ゆっくり顔を上げた。先日の女子高生がハッとした顔をするのがわかった。よかった、私のことは一応覚えてくれてたみたいだ。

「あ、あの……すみません。私、小笹と、いいます。えっと、こちらの……お嬢さんに、御用がありまして……」

 かっこ悪く、たどたどしい言葉を繋げる私。それを聞き、父親と思われる長身でエリートサラリーマンのような男がさらに怒りを膨らませ怒鳴った。


「一体、何の用だ! さおり! この家にお前の居場所はない! 友達を呼ぶとはどういうつもりだ?」

 さおりと呼ばれた女子高生はさっと顔色を変え、身を固くした。

 この言葉だけで、父親として単に機嫌が悪いのではないと私にさえわかった。この男には……愛情がない。嫌なタイミング、すごくまずい状況を作ってしまったと感じる。

「この人は、友達ではありません。……お父さん、すみませんが、お母さんに……会わせて下さい。お祝いを言いたいだけなんです」

 さおりは私を無視したまま、下を向き懇願するように言った。

 その男はにやりと意地悪な笑みを浮かべ腕を組むと、娘を見ず私へ興味の対象を向けてきた。


「ねぇ、あなた。さおりに友達ではないと言われてますよ。一体、どこのどなたですか。このままだと警察を呼びますよ」

 警察!? ちょっと待って。怖い。権威の象徴で私を脅そうとしてる?

 情け容赦のない視線に気持ちが縮む。でも裏を返せば、この人が権威を恐れているということだよね。私は何とか呼吸を整える。

「……あの、申し訳ありません。説明させて下さい。私、小笹果耶と申しまして。あの、マナー講師をしております。えっと……こちらのお嬢さんとは、先日お目に掛かったばかりなのですが……ご縁がある気がして、私の講座にご参加頂けないかな、と思いまして、今日は伺いました」

 たどたどしく言葉をまとめ私は言った。こんな漠然とした理由でだいの大人が納得してくれるのかとも思ったが、他に思いつかない。私はじっと返事を待った。 

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