三二

 問題を抱えながら、季節を超えるのは簡単じゃない。私たちは実感しながら、毎月、毎日を懸命に歩んでいる。

 貴子のお祖母さんは戸塚の一軒家を売りに出し、ここに近い築十数年のこぢんまりした賃貸マンションへ引っ越した。

 近所だから貴子も通いやすい。ただ住み慣れた家を離れるのは、お祖母さんにしても貴子にしても切なく感慨深いものがあった。過去との決別は、失恋のような痛みさえ伴う。

 しかし人生において苦渋の決断はきっと誰にでもあるし、考え方次第で未来はいい方向へ変わるはず。

 

 過去は変えられない……って、昔聞いたことがあった。

 でも本当にそうだろうか。過去、現在、未来……。

 それらは本当は繋がっているんだ。

 私たちの日常は目には見えない速度で日々変化していて、地球はやがて一周する。

 ここは上か下か。

 あの瞬く光は星なのか……蛍なのか。

 過去を生きた、あの足跡が切なくにじむ。

 自分の足音が響いて、名残惜しげに追いかけてきても迷わないでいいの。私たちが前を向いて歩む先に未来はある。

 そして頑張った人にだけわかること。あなたがいつか輝く未来に降り立った時、後ろを振り返ってみて――。

 どんなにつらかった過去でさえ、かけがえのない思い出に変化してるから。



「しきたりとは、古くからののことを言います」

 私はマイクに向かい言った。

 今日はラジオ収録で都内のスタジオにいる。某女子アナウンサーの三十分番組で、礼儀作法について四週間分の収録をしてる最中だ。

 四週といっても歌やCMなどのコーナーもあるから、一回十分ほど。実質、四十分のトークだった。

「日本には伝統文化、通過儀礼、年中行事というものがございます。日本の歴史において、冠婚葬祭などの儀式がその代表的なものです。わたくしたちが生活していくうえで、これらの儀式にまつわる日常のマナーはとても重要であり――」 


 

 今日も沙織がアシスタントとして、私について来てくれた。

 最近ではお稽古だけでなく、カルチャースクールはもちろん、テレビやラジオなどメディアの仕事にもふたりで行動していた。

 以前私が、母親のアシスタントとしてどこにでも同行していたように。

 ある日のドラマの仕事では面白いことがあった。

 主演女優のマナー指導の仕事でふたりでスタジオに入ると、沙織が芸能事務所の社長に呼び止められたのだ。


「モデルの仕事に興味はありませんか」

 スカウトだった。

 背が高く九等身、スリムで小顔の沙織はその場にいるだけで人々の目を引く。普段は凜としている沙織も突然のことに驚き、はにかむ表情を浮かべた。

 人は行動することで、未来どこかに続く道が表れる事例。そして沙織は緊張しながらも名刺を受け取った。

 この一枚の小さな紙がどんな遥かな場所に繋がるパスポートになるか、今はまだわからない。だけど、私たちの世界はいつからでも始めることが出来るんだ。

 




 ―― 一年後。


「お疲れ様でございます。果耶先生」

「あ、宮前店長。本日はありがとうございました」

 私はお稽古が終わり、後片付けをしているところだった。教室に宮前店長が朗らかな様子で入って来る。

「果耶先生、いつもカルチャースクールを宣伝して頂いてありがとうございます。メディアでのご活躍がすごいので、果耶先生のお問い合わせが本当に多くて。お忙しいとは思いますが、出来れば違う曜日で、先生のマナー教室を増やせないかご相談したかったんですよ。もし夕方のお時間がよろしければ、キッズクラスもいいかもしれません」


 教室増設のお話に、私は思わず笑みがこぼれる。マナー教室開講から一年、私自身、本気で仕事に取り組んできたから。私だけでなく、貴子や洲もそうだ。

 シェアハウス存続の危機というトラブルがあり、私たちは団結し目の前のことに向かって進んできた。

 貴子たちは今、弁護士とともに保険会社と戦っている。やっと、いくつかの保険金が戻ってくることになった。それだけでもかなり有り難い。見通しが明るくなったのだから。

 そして今まで会社に頼んでいたシェアハウスの管理を自分たちでやることに決め、その準備に追われている。少しでも目に見えない出費を減らすためだ。そういうお金は馬鹿にならないらしい。


 貴子のお祖母さんは戸塚の土地が思いのほか高値で売れ、鎌倉の介護付き老人ホームへの入居が決定した。設備も人も良心的で、ひとまず安心みたいだ。

 それからこの秋、晴れて貴子と洲の結婚が決まった。

 まさかのトラブルは私たちに様々なことを経験させてくれた。良いこと、悪いことって誰が決めるの?

 本当にそう。私たちはピンチをチャンスに変えてきたんだ。


「宮前店長、もしよろしければ、キッズクラスの講師を沙織さんと一緒におこなってもよろしいですか」

 私は微笑んで言った。店長も頷いている。

「磯乃館さん、見違えるように明るく大人っぽくなりましたよね。どんな講師になられるか今から楽しみです。講師登録いたしましょう。ご住所は……果耶先生と同じところに住まわれているんですか?」

 はい。あの女子高生は今やファッションモデルとしても活動しながら、都内の老舗百貨店で受付の仕事をしている。もちろん、立ち居振る舞いや敬語はお墨付き。


 実は沙織は家を出て、鼓歌のアトリエだった部屋を借りてくれたのだ。

 当時は厄介払いのような一人暮らしを感じさせたが、最近では母親や義父は沙織の華々しい可能性に気づいたようで、今までの恥知らずな言動を慎んでるという。

 シェアハウスの窮地を救ってくれた恩人、美しくて強い私の一番弟子さん。必ず沙織を一人前のマナー講師にすると、私は心に決めている。


「果耶先生、それと、もうひとつご相談があるんです」 

 宮前店長が私の顔を伺うように見る。少し言いにくそうだ。

「どうかされました?」

「ええ、実はですね。……私どもカルチャースクールでは定期的に海外に先生を派遣して、お稽古を行っているんです。日本文化を広めるという趣旨もありまして。そして、今回はヨーロッパなんですが……もしも果耶先生のご都合がよろしければ、今年の夏、フランスやイタリアなどの主要都市で、外国の方にお稽古をお願い出来ないかと思いまして……」

「えっ」


「そうですよねぇ。先生、いつも突然で申し訳ないです。うちの会社も急にいろいろ決まるんで、こっちが大変なんですよ。海外となりますとどうしても、二、三週間は日本を空けることになります。なので、講師をお願いするのもなかなか大変で。お子さんのいる先生はちょっと難しいですし。それに、和文化の先生となりますと……」

 宮前店長は最後まで言わなくてよかった。なぜなら、私がすでに頷いたからだ。

「果耶先生、本当にご参加下さるんですか!?」

「はい。わたくしでよろしければ。ぜひ、お願い致します」

 私は軽く頭を下げ、笑顔で答えた。

「果耶先生、ありがとうございます! 早速本社へ伝えますね。日程などはわかり次第すぐに。フランスはパリ、リヨン、カンヌ。イタリアは、ローマ、ミラノ……」


 『縁があれば、これからも何度でも出逢えるよ』


 宮前店長の声はもう聞こえなかった。私は鼓歌を思い出していたから。大好きなまま別れた鼓歌。失恋は日々の忙しさで忘れたはずなのに。でも……。

 鼓歌の暮らす街に私は導かれた。

 ――フランス、パリ。

 今、私の羽ばたきが世界の裏側に届いた。

 人生には何度も転機があるという。私はこの先どこへ向かうのだろう。 

 それは、これからのお楽しみだ。

 私たちは自分のなりたい人になり、行きたい場所へ行ける。

 同じ時代。

 夜空を仰げば、同じ月が見られる私たち。だから、過去ばかり振り返らないで。


 ね? いつかまた、あなたとどこかで逢えますように。

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十六夜を飛び越えて 片瀬智子 @merci-tiara

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