二九

 冬の太陽の下、古いモノクロ映画を観ているように私の生活は一変した。陽光は目を細めるほど眩しいのに、心の中はどこもかしこも色彩が抜け落ちている。

 居もしない鼓歌を捜し、海辺でさざ波を眺めてみたり、泣きながら冬の星座を指で繋げてみたりもした。

 鼓歌のいない喪失感は何物にも代えがたい。失恋は新しい恋で忘れるのが一番!なんていう雑誌を鵜呑みにし、合コンに参加したりもした。だが結局、鼓歌への愛情を再確認しただけだった。


 庭の枯れた草木は春を待ち、今を乗り越えようと沈黙している。見習わないといけない。悩んだときは、歴史と自然を参考にしなさいと母に教わった。

 冬こそ美しい真っ赤に燃えるポインセチアを見ながら、私もいつかきっとまた輝ける……これが最善の方法なのだと悟る。

 そう言えば少し痩せた私を見て、貴子がクリスマス・パーティーを企画してくれた。今、私は仕事に遊びに忙しくして毎日を頑張ってる。街の雑踏に紛れ、自分を忘れて、日々をこなして。


 それでも鼓歌のことを想い、無性に苦しくなる日は震える指でSNSを覗いた。華々しいニュースが画面を飾っている。

 そこにはそれこそ、美ののような海外のファッションモデルたちと笑顔で映ってる鼓歌がいた。

 彼は本格始動で世界を飛び回っているのだ。パリ、ローマ、NY、LA……。


 失恋は贖罪と少し似てる。

 私が苦しみ何かを償えば、鼓歌は救われ前に進めるのかもしれない。

 そう思うと、なぜか苦しみを受け入れることが出来た。苦しむ正当な理由がある気がしたのだ。私は鼓歌に成功してほしい。名声を世界中に轟かせてほしい。

 鼓歌のアトリエだった部屋の扉を見る度、胸の痛みは疼く。

 でもあの尽きることのない、満ち足りた思い出を消したいとは絶対に思わなかった。それは永遠にふたりのものだから。


 無くしたものは数えるな。

 大丈夫。忘れた頃に、きっと優しい思い出となって表れる。形のない無くし物は、旅の写真のようにいつでも心から取り出して自分だけの誇りにすればいい。

「縁があれば、これからも何度でも出逢えるよ――」

 鼓歌は引っ越しの朝、なぜか未来を感じさせる言い方をした。まるでそれが、彼特有の『別れを乗り切る方法』のように。

 私の恋は誰の噂にも上らぬまま、ひっそり海の藻屑と消えた。



 睦月、初春の朝。

 如月、積雪の夜。

 弥生、春の午後。


 新年を迎えてから、もう三ヶ月。あっという間に春の訪れを感じ出した。

 その日もいつも通り過ぎて行くはずだった。貴子からの着信が入るまでは。


 川緑先生の教室でアシスタント業務を済ませ帰って来た私は、ちょうどリビングにいた洲とかち合った。

「洲くん、珈琲飲む? 貴ちゃんが誰かに頂いたドリップコーヒーがあるんだけど」

「おう、じゃあ貰う。ブラックで」

「りょうかい~」

 洲がブラック好きなのはもちろん知っている。私たちはシェアハウスで生活し出して、家族みたいになっていた。互いの趣味嗜好も把握してきた。他人同士なのにお互いを気遣う、こんな何気ない時間が愛おしく感じる。


 私はそれぞれのマグカップにコーヒーのバッグを引っ掛け、熱湯を注ぐ。

 私が去年使っていた、底にファム・ファタールの文字が浮き出るカップは捨てた。どうもあれは不吉な気がする。

 今年は内側が水色、テディベアのマグカップ。善良で可愛らしかった。

「私ね、……今度テレビの仕事が決まったんだ」

 両手でマグカップを覆い、私は厳かに言った。洲が驚いた表情でこちらを見る。


「果耶ちゃん、すげーじゃん。何のテレビ?」

「うん。先生のアシスタントなんだけど、マナーの教養番組なんだって。大先生が解説する時のアシスタント。ちょっとしか映らないと思うけど……」

 当日は着物を着て出演することになっているが、本当に映ったらラッキーくらいの程度だろう。でも私が自分の名前で、初めて出演する番組。

 誰かの影ではなく、私の名前で……。


「へぇ、ホント、すごいよ。録画して貴子と観るからさ。マジで頑張って!」

 洲はいかにも好青年風の爽やかな笑顔で言った。彼は、私と鼓歌とのことを知っている唯一の人。たぶん、それらも含めての『頑張って』なのだろう。口には出さなかったけど。

 心のどこかで、出来れば鼓歌が私のことを忘れられなくて、小笹果耶のSNSをチェックしてくれてればいいのにと思った。私だって、前を向いて頑張って歩んでいるのを知って欲しくて。


 珈琲のおかわりで洲と相談していたら、突然、私の携帯が鳴り響き『神楽坂貴子』の文字が表れた。

「もしもし、貴ちゃん?」

 私と洲はまだ少し笑っていた。だって私たちはプチ幸福の中にいたから。そうこの時までは。

「……果耶、果耶? どうしよう……、果耶! ねぇ。どうしたらいいか……私、わからないの!」

 電話口の貴子は激しく戸惑い、泣きながら喋っていた。


 こんなに取り乱した貴子の声を聞いたのは初めてだった。

「貴ちゃん、どうしたの。ねぇ、落ち着いて!」

 向かいに座っていた洲が、眉をひそめ私を見た。不穏な空気にすぐに気付いたのだろう。手を伸ばし、携帯をよこせという仕草をする。そのまま私は洲に電話を替わった。

「おい、貴子。俺だ、洲。どうした……落ち着けよ。いいからゆっくり話せ」


 洲は頷いたり、相槌を打ったりしながら貴子と話していた。私はその場に立ち尽くしている。何か酷いことが起こったとわかる。今まで、あんなに取り乱した貴子は知らない。私は自分の身体が震えていることに気付いた。

「ああ、わかった。じゃあ、今からこっちに戻ってくるんだな。……ああ。いいか、契約証を全部ここに持ってこい。そうだ、全部。タクシーを使えよ。……大丈夫だから、泣くな。待ってるから」


 電話を私に返してくれた洲が真顔で何か考えている。それを遮ってはいけない気がして、どうしたのってすぐに聞けなかった。私が見てるのに気付いて、洲はやっと口を開いた。

「果耶ちゃん……貴子んちがまずいことになった」

「えっ、どういうこと?」

 何から説明したらいいのかと思い巡らしているようだ。洲の回転のいい頭でさえ、一分はかかってる。きっと並行でいろいろと整理し策を練っているから。

「大体でいいから教えて!」

 私は待てずに言ってしまった。


「……このシェアハウスには、みんなもう住めなくなるかもしれない」

 洲は大抵の男がそうするように、結論から先に言った。そしてそれは、女の私を酷く混乱させる。

「ここに住めなくなるって……洲くん、なんで? どういうこと? 貴ちゃんに何があったの!」

 矢継ぎ早に私は洲を責め苛立たせた。


「くそっ、果耶ちゃん、ちょっと黙っててくれ!」

 そう言われて、私は口をつぐむ。心臓の鼓動が早い。

「……ごめん。貴子がもう少ししたら戻ってくる。そしたら、詳しく話を聞こう。……今わかってることは、貴子がすごく動揺していて、俺らが路頭に迷うかもしれないってことだ」

 洲は何があったかをもっと知っているくせに、今ここで全部言おうとしなかった。そんな危険は犯さなかった。私が不安に押しつぶされてわめいて、手に負えなくなると考えたからなのかもしれない。


「貴ちゃんが、あんなに、取り乱してるの初めてだったの……」

 黙っていると静かすぎて怖くて、小声で言った。洲に言ってるのか、独り言なのか自分でもわからない。でもあまりにも不安で、泣くか喋るかして心を解放出来るならしたかった。

「本当の貴子は、あんな感じだよ。小心者で怖がりで……。いつもは虚勢を張ってるだけだ」

「えっ……」


 洲が私を見据えた。頭の中は、違うことを高速で考えているとしても。

「貴子は母親が家を出て行ったときに、お祖母さんのことを自分が守ろうと決めたって言ってた。そうじゃなきゃ、自分ひとりでは生きていけない。父親はだらしなくて頼れないからって。あいつはそこら辺のチャラチャラした女じゃない。……果耶ちゃんは貴子のこと、ちゃんと見てあげてたことあるか? あいつは……自分を守るために虚勢を張ってただけだ」


 私は……貴子のことを理解出来ていなかった。

 私は……。

 いつも身近にいてお姉さんみたいに頼らせてくれて、笑わせて、大丈夫って言ってくれた貴子のことを何にもわかっていなかった。

 誰もが何かの犠牲の上に立っているなら、いっそ犠牲として潰されて死んでしまいたい。バカな私は、結局慈悲や祈りさえ誰にも与えない。

 自分勝手で、冷たい瞳をしたまま雨に打たれる死体を眺めてる女なのだ。自分のおごりが、今、自分の首を絞める。


「……ごめんなさい」

 消え入りそうな声で洲に言った。洲には裏表がない。

「えっ?」

「ううん。……私も一緒に貴ちゃんを助けるから」

 さらに小さな声で言った。泣きたくて喉が痛い。私に何が出来るのかわからないけど……でもそんなのは関係ない。洲は、深刻な表情を崩さなかった。

 貴子を待ちながら、それぞれの覚悟と沈黙に縛られ、私たちは不安に立ち向かおうとしていた。

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