三十

 

 もう三月なのに外の空気はまだ冷たかった。

 私は洲とふたりきりの空間に居たたまれず、窓に何度も視線をやる。時々トイレに立ったり、玄関ドアを開けてタクシーが来てないか確認してる様子をして見せた。

 それから泡風呂を用意しようかとも考えたが、洲がびっくりしそうなのでやめた。

 私が鼓歌と別れたばかりの頃、貴子と一緒に湘南のサーフショップで色違いのビキニを買って泡風呂に入ったのだ。バカみたいに笑って、ベルギーチョコレートのアイスを食べ、私のベッドで仔猫みたいにくっついて眠った。

 女の子たちはそういうことをするの。でもその時、貴子は何も聞かなかった。今思えば、もしかしたら洲から聞いて全部知ってたのかもしれない。


 やっとタクシーから降りてきた貴子は、マスクで泣き顔を隠していた。大きなアパレルのショップ袋を抱えている。

 もちろんそのショップ袋の中には、服など入っていない。大量の証書が入ってるのだ。

 洲はタクシーが着くとすぐさま、表に出て行って貴子の荷物を持ち寄り添った。

 玄関に入り、マスクを取った貴子はほぼ素顔。鮮やかなショッキングピンクのロングセーターがやけにケバケバしく見えた。オフホワイトの柔らかなカシミアニットで貴子を優しく包みたかった。


「大丈夫か、貴子」

「洲……果耶、ほんとごめん。こんなことに、なっちゃって……ごめん」

 貴子は目の縁を真っ赤にさせて、私たちに頭を下げた。濡れた長い睫毛が酷く頼りなくて、抱きしめて一緒に泣きたい気持ちになる。

 そっと洲が貴子の肩を抱いた。

「まだ、果耶ちゃんには全部伝えてない。俺らは、貴子の口から詳しく聞きたいんだ。俺はまだ何も納得してねぇから」

 洲は貴子を気遣いダイニングテーブルに促しながらも、男らしく振る舞った。貴子がいつ頼ってきても受け止められるように。


 私は冷めた珈琲を捨て、新たに熱いダージリンティーを淹れ直す。紅茶にはリラックス効果があるし、身体が温まると人は笑顔を見せることが出来る。

「……洲、何から話したらいい?」

 貴子はティッシュペーパーを洲に手渡されている。

「ああ、もちろん最初からだ。最初から最後まで、全部」

 私と洲の顔を見ると、貴子がぽつりぽつりと喋りだした。

「うん……そうだよね。あのね、……私最近、お休みの日はいつも実家に帰って、おばあちゃんの面倒を見てたの。認知症を発症したって、前言ったでしょ。薬は飲んでるんだけど、なかなか効くのが見つからなくて……実は、病状が、ずっと進行してた」

 急に手のひらをこちらに向け『待って』をし、一度可愛らしく鼻をかんだ。


「ごめ……ん。で、今日も戸塚の、実家に帰ったのね。おばあちゃんとお昼ご飯食べて、たわいもない話して……。おばあちゃん、それまで何ともなかったのに。それなのに、私が帰る支度し出したら急におかしくなって……。なんか子供みたいに、駄々こねて泣き出したの。帰らないでって! 私、びっくりして、どうしたの?って聞いたら、支離滅裂なこと言い始めて。なんか……お金がもうないとか、友達に騙されたとか……」

 私は真剣に聞いていた。貴子の言葉、一言一句聞き逃さないように。

 そこで洲が口を挟んだ。


「で、お祖母さん、今は大丈夫なのか。おじさんを呼んだんだろ?」

 男は話をすぐにワープしたがる。過程はひとっ飛びだ。

「あ、うん。今、病院に行ってる。パパがついててくれてるの。パパだって自分の母親なんだから、それくらいしなきゃ」

 貴子はちょっと口を尖らかせ、洲をチラリと見た。

 父と娘の確執がここにも。

 詳しい理由は知らないが、貴子はずっと父親のことを嫌っていた。怠け者でだらしがないと。母親が出て行ったのは父のせいとまで言っていたから。


 普段明るくて強い(洲は虚勢という言葉を使ったけれど)、貴子の心を暗くしたのは父親だった。存在感のない、家庭内において権力のない父親。

 パワーバランスの逆転に子供は戸惑った。家庭を放棄した手応えのない親の表情は、子供の未来を失望させる。世の中の何もかもを知り尽くすような絶望感を、子供に植えつける効果さえあった。

 だからこそ、きっと大人は真剣に生きなきゃいけないんだ。冷めた瞳の子供を増やさないために。……これはまあ、私がここで声を大にして言うことじゃないけど。


「それでね。さっきの続きだけど、おばあちゃんが……取り乱しちゃったでしょ。よく話を聞いてると、親友の徳山とくやまさんに騙されたっていうのよ。その徳山さんっていうのは、おばあちゃんのたった一人の友達なの。今、六十歳くらいで、保険の外交員さん……」

 洲が頷く。考え込む表情は変わらなかった。


「それで、おばあちゃんを問い詰めたらね。銀行の預金通帳を持ってきて……。信じらんない……何冊もある通帳全部、そのほとんどにお金が入ってなかったの! 何百円しか入ってないのもあって、貯金、保険代で全部引かれちゃったなんて言うのよ。意味わかんないでしょ。でも、通帳見たら、保険代だけで毎月百万円以上引かれてて。それをたぶん五、六年くらい。しかもいろいろ訳わかんない支出もあるの。おばあちゃん、ずっと、いいカモにされてたんだわ。私、何にも知らなくて。突然だったからビックリして、どうしようってパニクっちゃった。ごめん……。もうこのシェアハウス維持出来ないって……一番に思った」


「……貴子、保険証券、持ってきたんだろ。ちょっと見せてみろ」

 苛立った声で洲は言った。その声から洲はまだ何も諦めてはいないことを私と貴子は悟る。先程のアパレルのショップ袋から、どれだけあるの!という証書を貴子はテーブルにぶちまけた。

「洲んとこの会社じゃないけど、見てもらえる? ……ごめんね」

 貴子がまた謝った。

「すげーな。……普通ありえないぞ、これ」

 うんざりした表情の洲が貴子を見る。これから戦おうとする無謀な相手を見極めるために。激怒と同時に面倒くさそうに。

「全部で何件だ」

 貴子は敵視するような瞳で保険証券の山を見つめた。

「全部でね、……三二よ」


「くそっ、一体なんなんだよ。全くよぉ」

 ダイニングテーブルの椅子に片膝をつけ、お行儀お構いなしの洲が保険証書をめくっていく。うん、こんな時にお行儀なんていらないから!

「貴子、……やられたな。大体、保険なんて一気に大量は掛けられねぇから、五年くらいの間に徐々に増やしていったんだ。マジでありえない。くそっ、何だよ、この死亡保障額はよ。バカみたいにふっかけやがって」

 貴子は唇を噛んで、申し訳なさそうに下を向いた。

「私、ここで暮らしだしてから仕事忙しくなったりして、おばあちゃんのことちゃんと見てあげられてなかった……。おばあちゃん、その親友としかほどんど交流がなくて。ふたりの密度が濃くなって、おかしくなっていっちゃったんだ。だって、実家に帰るといつも徳山さんいるんだよ。居間でふたりで、ずっとこそこそ話してるの」


「おい、貴子。言っておくけどそいつ、親友なんかじゃないからな。……鬼だよ、ある意味。こんなに無駄な保険掛けさせやがって。人間じゃねぇ、お前んちを食い潰そうとしてる鬼だよ!」

 洲は慣れた手つきで素早く証書を流し見ている。

 そして、悪態をつきながらも真剣な表情で仕分けをしていた。

 頼りになる洲の男らしい骨張った手元に、鼓歌が重なった。女を魅了する、理性では抑えられないあの感覚。一時の感情に流されたくなる、あの……。

 私はぶるると頭を振った。


「これも、これも、これも、全部必要ねえ保険だよ! いいか、貴子。そっちのはそのままでも問題ないが、こっちにある分は全部解約しろ。わかったか。……それから弁護士にも相談する。無駄に払った保険金を返金させるんだ」

 洲は不機嫌どころか、心底怒っていた。弁護士なんて言うから、貴子は驚いて絶句している。

「保険金の返金なんて出来るの?」

 これは私のセリフ。洲は会社相手に話をつけるつもりだ。

「それを弁護士に相談するんだ。お祖母さんの認知症を利用されたと考えたら、もしかしたら……」


「でも、弁護士に払うお金なんてないわよ。もう何にもないんだから」

 貴子は泣きそうになりながら言う。

「成功報酬の弁護士に相談しよう。相談無料とかってよくコマーシャルやってるだろ。まあ、初期費用とかは多少かかるだろうけど、それは俺が払っておくよ」

 貴子は泣きだした。

 洲は有言実行の人間だった。天地を変えるほどの熱量で勝ち負けにこだわり、そして勝負するなら堂々と勝ちに行く男だ。

「貴子、泣くな。そんなの、お前らしくないだろ。時間はかかるかもしれない。どうなるか、まだ見当もつかない。だけどいいか、戦わずして死のうなんか絶対に思うなよ! ……俺がついてるから」

 こういう時、女は絶対男にはかなわない。私は泣いてる貴子の手を握ることしか出来なかった。 

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