二八

 

 鼓歌がやっと名古屋から帰って来た日、私はすでに彼のアトリエにいた。

 いつもみたいに裸で抱き合って、ラグを敷いた床やソファで愛し合いたわむれる。

 今、私は自由で意気揚々としていて、陽光に反射したきめ細かな質感の手足を伸ばす。髪をほどいて揺らすと、素肌の背中にあたってくすぐったい。

 鼓歌といると、不思議と幸福感が充満する。何でも出来る気がするし、私はその開放感に自分じゃなくなってる気がする。

 そう言えば、貴子が言っていた。女の子もセックスの得意技を持つべきだって。好きな男の人に喜んでもらう技。

 得意技はちょっとわからないけど、好きな人が出来ると喜んでもらいたくなる気持ちはわかる。手料理だったり、マフラーだったり、お金では買えない私だけの愛情をあげたくなるってこと。


「鼓歌さん、私に何かしてもらいたいことある?」

 スマホをいじる手を止め、鼓歌が私を見た。SNSの確認に忙しいらしく、すぐに視線を戻したけど。

「何かって?」

「何でもいいの。例えば、……私の手料理が食べたいとか」

 今度は表情を変えず、少し首を傾げるだけ。

「別に……」

 別にって素っ気ないなぁ。いくら行為が終わった後だからってもう少しイチャイチャな余韻を楽しんでもいいんじゃない。

 私は頬を膨らませ、鼓歌に背中を向けた。

「果耶」

 男は女の機嫌に敏感だ。それが、家庭を過ごしやすくするすべだから。

「なんで?」

 鼓歌が腕をのばし、私のウエストを引き寄せた。自分の身体に密着させておけば、私の機嫌が直るって思ってるに違いない。


「鼓歌さん、ね、聞いて!」

 私はちょっとだけ大きな声で鼓歌を呼ぶ。

「ん、何?」

 やっとこちらを向いた。その顔は少し不機嫌。でも、仕方ない。二人の親密な時間は有限だもの。

「ねぇ、鼓歌さん。今日の、私の下着の色、覚えてますか!」

「えっ?」

 当惑気味の声。やっぱりだ。そんなことだろうと思ってた。

「どうせ覚えてないんでしょ? もういいですっ! ずっとスマホしてて下さい。私、自分の部屋に戻る!」

 今度は本気で怒ってるふりして、私は鼓歌から離れる。

 服を着ようと椅子の背もたれに掛けてあった、白い綿のミニスカートと黒のキャミソールに手を伸ばした。


「果耶、おいで。服はまだいいから」

 鼓歌が私の手から、キャミソールを奪い取った。私はまだふくれっ面。だって一週間ぶりに会えたのに、セックスが終わった途端黙り込んでスマホっておかしくない?

「下着の色がなんだって?」

「もういいです。……どうせ、私とのことなんて興味ないんでしょ」

「下着の色とそれが、どう関係あるんだ?」

 鼓歌は眉間にしわを寄せ、悩み多き男のふりをした。でも頭の中では必死になって、さっき慌てて脱がせてしまった下着の色を思いだそうとしてるはず。


 色は人間にとって、この世に生まれ落ちたその時から性別分けにも使用されるほど重要なもの。子供の時期までは男女同じくらい、色を大事に思っている。

 男の子はそれが男らしさの象徴というほど青でなければいけないし、女の子はもちろんピンク。プリンセスの色。

 それが成長し、段々と大人になるにつれ、男は色にさほど構わなくなっていくのだ。男は女ほど色を重要視しなくなる。もちろん同じように見えているし、視野の幅も同じ。だが、色が最重要項目ではなくなってしまう。

 それは画家を目指していた鼓歌だって例外ではない。なぜなら今回は特に、その(下着)の先(中?)に目的があったのだから。


「ブラジャーの色は……黒だろ」

 鼓歌が息をひそめ言った。私はまだ答えを言わない。

 どうやら握りしめた黒のキャミソールから推理して、答えを導き出そうとしてる。ブラのヒモがずれても黒なら目立たないだろうと。

 私は無言のまばたき。

「じゃあ、合ってるんだな……」

 深く息を吐く鼓歌。なぜだかピリピリの空気感が漂っている。

「答えはまだよ。ショーツの色は?」

「え?」

 ショーツという言葉を口から発したことのない人間らしい。別にパンツでもいいけど。さあ、何色だ?

「黒……じゃないのか?」

 ブラとショーツ、ペアだと思ってるのね。まあ、付き合い始めの男女がセックスするってわかってる場合、女性はペアの下着を着ける確率が高い。


 私は彼の瞳を哀れむようにじっと見つめた。

「鼓歌さん、……残念、でした」

「ああっ」

 鼓歌は唸って、髪をかき乱す。

 確かに、推理の導入部分は間違っていなかった。むしろキャミソールから正解を導くなんて褒めてあげてもいい。だが、ブラの黒に彼はこだわりすぎた。

 私が何色のスカートを着ていたかを思い出してほしかった。

「……私、白の綿のスカートを履いてたの。忘れちゃった?」

 彼は椅子に掛けてある、私の可愛い白のミニスカートを凝視した。


「あっ、あれか。わかった……ベージュだろ」

 すごい、白の綿は透けやすい。黒いショーツでは絶対にダメ。鼓歌は私にまだ一度も見せたことのない集中の顔つきで回答をたぐり寄せる。でも……。

「鼓歌さん、惜しい! 答えは、……ピンクベージュで・し・た」

 私はにっこりと彼を見る。彼は一瞬当惑の表情をしたが、「ベージュが正解でもいいじゃないか!」と吠えた。

 ほらね、男にとってベージュとピンクベージュは同じ。

 信じられる? 

 ピンクが混じってるだけで断然可愛いのに。


 少しの沈黙の後、また鼓歌は仏頂面でスマホに指を滑らせていた。

 そして、その時は突然やって来る。不穏の足音はいつも前触れもなく、静かに近づくのだ。

 偶然が重なり必然になるように、それは待ち構えていた。いいことか悪いことか、まだ私にはわかっていない。いや、その前にいい・悪いって誰が決めるの? 

 昔、母が言っていた言葉は因果応報。過去の行いによって、その報いを受けること。私の行いは善だった? それとも悪?

 鼓歌が眉間にしわを寄せ、長いため息をつく――。

 それが何を意味しているのか。

 だけど女は……いや、恋人の私には、それがとても意味深な仕草だと瞬時でわかる。その仕草を目の前に立ち尽くし、ひるんだ。

 鼓歌は依然スマホの画面を見続け、素っ気ない態度を崩さずゆっくりと口を開いた。


「なあ、果耶。……もし俺がいなくなったら……そうしたら、果耶はどうする?」

「え、」

 どういうこと……。

 私は視線を天井にやった。私の恋人が鼓歌じゃなかったら、芸術家じゃなかったら、そんな戯言たわごとは一笑にしてやる。でも……。

 いきなりそんなこと言うなんて。私の心は、壊れた振り子のように激しく乱れた。予測なく不連続に。


「……いなくなるんですか」

 鼓歌の指が、そっと私の唇に触れた。声の震えと私の混乱を抑えようとして。

「誰だって、いつかはいなくなるだろ?」

 ばかみたい。大げさなことを言って煙に巻こうとする、男の常套句。

「ばかみたい……」

 鼓歌は生まれ変わったように身体を起こした。私は彼に背中を向ける。

「ああ、そうだな。悪い。果耶、話がある……今、フランスからメールが届いたんだ」

 私は返事をしなかった。話があるって急に言われて、いい話だなんて思えない。しかも海外からとか、もう最悪にしか聞こえない。鼓歌は私の返事を待たずに話を続ける。


「パリの顧客からだ。……俺のレースを、ハイブランドのアパレルメーカーが欲しがってる。ロンドン・パリ・ミラノのファッションショーで使いたいそうだ」


 ――鼓歌の夢。

 あれだけ願っていた、鼓歌の夢が叶う。

 画家の夢を一度は諦め手放し、でも失意の中、歩みを止めなかった鼓歌。

 必死で手を伸ばした先にあった別の未来を今、たぐり寄せた。

 それは、まるでバタフライエフェクトのよう。

 孤独の中、彼が砂を噛むような思いで始めたレースを編むという波動が地球の反対側に到達し、やがて事象を変えた。

 いくつもの選択肢は、最初から鼓歌の手の中にあった。ひとりの人間の夢が叶う時、ただの点だったものが煌めき、瞬く間にそれはちゅうを駆ける線となった。


「俺は過去の自分に必ずリベンジする」

 静かに、そうつぶやく鼓歌。

 目の前にいる裸で抱きしめ合っていたはずの恋人は、悲しいほど知らない人に見えた。

「……たぶん、独りで向こうで暮らすことになると思う、何年か。今まで以上に必死にならないといけないから。こんなチャンスはもう二度とない。……未亜は実家に預けるよ、かわいそうだけど仕方ない」

 鼓歌の独り言のような言葉は、私の耳元を通り過ぎた。

 私の頭の中は、昨日までの過去の鼓歌でいっぱいだった。しかし、チャンスを手にした鼓歌は独り動き出す。愛さえ置き去りにして。

 どうせ、私だけでは満足出来ない男。今の私では、到底鼓歌は我慢できない。

 ――そう、この言葉の真意はひとつ。


「……いいよ」

「えっ?」

「いいよ。鼓歌さん……別れてあげる。こうなるって……私、どこかでわかってたし。でも、最後に、忘れられなくなるぐらい……」

 天井を向いたかすれた自分の声が、くうを切り私の耳に戻ってきた。知らない声。すでに私の言葉じゃないみたいに。

 そう、ずっと覚悟していた時が来ただけ。

 私は顔を向ける。

 鼓歌のたった一言が私の人生を変えた。

 愛だけを信じたかったのは、すでに過去。過去の行い。因果応報。

 私の報いは……心と身体が引きちぎられるように痛かった。


「いいよ」なんて、物わかりが良すぎて都合のいい女みたい。そう思ってるなら、誰かはっきり言ってよ。

 でも、誰が私のこと非難できる?

 彼のお荷物になりたくないから。だから、そう言うしかない。

 だけどあれだけ愛しあったんだから、傷つかないなんて無理なの。わかってる。わかってる、わかってる。

 でも、もうひとりの私が言う……彼の夢を思いきり羽ばたかせたい。そのためにしてきた覚悟を知っているから。

「いいよ……鼓歌さん。でも最後に、もう一度、果耶を抱いて――」


「果耶……」

 鼓歌が小声で名前を呼んだ。私は裸のまま、なまめかしく鼓歌の上に跨がり瞼を閉じた。

 ファム・ファタール。

 男にとって、運命の女。

 男を狂わす、運命の女。人生を狂わせた、運命の絵画。

 狂った先に見えたものは何だったのか。

 私の心はまだその先に辿り着けない。狂おしい想い。成就しなかった恋。

 迷子になった未来。

 狂った方がましだと思えるほどの痛みが、心をえぐる。

 本当は終わらすなんてことしたくなかった……耐えられるかわからない。

 でも、だからこそ、この想いを断ち切って、自分から去らなきゃいけないんだ。

 

 私の長い髪が鼓歌の顔に落ちた。

 唇と唇。

 震える私の指先が、鼓歌の頬に優しく触れる。

 だって鼓歌が泣いていたから。私より先に泣いていたから。

 最後までずるいひと

 鼓歌の夢のために別れを告げたのに……。

 泣きたいのは私。

 もっと嫌な人ならよかった。それなら我が儘も酷い言葉も言えたのにと思う。

 私のことを残酷に振ってくれたら、すぐにでも嫌いになれるのにと。


「いい女になったな、果耶……」

 最後、名残惜しそうに鼓歌はそう言うと、私を折れるほど抱きしめた。

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