第37話:光希の過去のエピソード

「俺は、高卒で就職をしたんだ。家庭に金が無いとか、頭が悪いとか、特にやりたいこともないとか――そういうよくある事情でな」

「意外……光希くん、頭が回る人だから、良い大学に出ていると思ってた」

「まさか……もし、そう見えるなら、俺はずる賢く生ききれているだけだよ」


 光希は苦笑いしながら言う。


「俺が新卒で入った会社は、渋谷にある大手のIT企業だったんだ。広告とかゲームとか、電話とか、ITのことなら何でもやっていたところだな」

「へぇ、すごい。そんないい会社に入っていたんだ」

「何で高卒の俺が入社できたのか謎だけど……まあ、その当時は会社ができたばかりだったし、若手を受け入れる良い会社アピールでもしたかったんじゃないのか?」


 肩を竦めて光希は言う。


「……でもな、そこは残念ながら、一年で辞めてしまったんだ」

「えっ……たった一年で!? どうして?」


 楓は驚いた様子で訊く。


「理由は様々にあるけれど……しいて言うなら、社会の闇を拒否してしまいたくなったから……かな?」

「社会の、闇……?」


 光希の言う単語に、疑問を抱く楓。


「人というか、残業というか、業務というか、世間体というか……いろいろ。俺にはこの気持ちをなんて表したらいいのか、よくわからないんだけど……世間で言う、社会人というのは、人生を投じる犠牲によって、初めて社会に貢献できるやり方っていうの? そういうのが、ある日突然、すごく馬鹿らしく感じちゃって……」

「…………」


 光希が語る言葉を、楓は聞き入る。


「ぼんやりとした表現で分かりにくいだろうけど――人が歩んだ道がたとえ誤りであっても、人が歩んだ道なのだから、黙ってその道を進みなさいっていうことに、俺だけは理解出来なかったのかもしれない」


 そう呟く光希に対して楓は、


「……社会という環境で働くことに意義を感じなかったとか?」


 と質問すると、


「……いや、やりがいはそれなりにあったことは覚えているから、働く意欲はあったと思うんだ。だから、社会自体を嫌いではないと思うんだけど……なんて言うのかなぁ……」


 光希は頭を雑に掻きむしりながら、頭の中で思い浮かべている否定的幻想に言葉を付けようとするも、中々思いつかず、頭を悩ませている。

 その様子を見た楓は――


「えっと、光希くん。無理に言葉として表現をしなくても大丈夫だよ。何となく伝わってきているから……」


 ――と光希に言い、悩ます種を光希から取り除く。


「……そ、そうか? 悪いな。変な風になっちゃって……」

「ううん、いいの――私も変なことを訊いちゃってごめんね」


 謝る光希に対して、楓は両手を振って気にしていないことをアピールする。

 本当は光希が何を言いたかったのか、非常に気になってはいるが、今はその時ではないのだろうと判断した楓は、流して続きの経緯いきさつを光希に問う。


「それで、仕事を辞めた後はどうしたの? そこからフリーランス?」

「……いや、そこから半年は泥沼時代。バイトしてたり、ニートしてたり、創作活動をしてたり――どれも楽しいとは感じなかったけどな」


 少し寂しそうな表情で光希は言う。

 そこには、いつものノリの良いイケイケドンドンの光希の姿はなく、小さくて頼りない雰囲気を変える光希がいた。


「何というか……本当に意外。今の堂々とした光希くんからは想像もつかない出来事ばっかり……」

「ははっ、意外だろ? 自由にのし上がる前の俺は、未来すら見えてこないようなフラフラした人間だったなんて」


 光希は、楓に笑ってみせようとするが、気力が足らずに「はは……」という空笑いを楓に見せてしまう。


「きっと光希くんも、フリーランスという自由を手に入れて、一つの正解を手に入れたのかもしれないけれど、自分にとって、働くとは何かって言う点では『答え』をまだ出せていないんじゃないかなって思うんだ」

「答えを出せていない……」


 楓の言葉を聞き、光希はあごに手を当てて考える。


「だってさ、光希くんはとても機転が利く人だけど、まだ二十三歳だよ。本来なら、まだまだ大人の人達に教えてもらいながら、いろいろと失敗したり、悩んだり、苦しんだり――そういう……まだ社会という世界で無理に大人になりきろうとしなくても良いんじゃないかなって思うんだ!」


 楓は両手を握り、光希に対して励ますように言う。


「突然、社会という場に放り出されてしまって、残り四十年以上の人生という道を、迷いなく進まなくてはいけないだなんて、きっと私でも途中で迷うと思う」


 楓は自らの気持ちをトレースしながら、発生する声を強くして言う。


「だけど、菊池さんとか、進さん、咲さんとか、いろいろな大人の人達が、光希くんが頑張っているっているっていうことを認めているからこそ、良くしてくれているんじゃないかな」

「そうかなぁ……? いっつも引っ張りまわされている気がするけど……」


 光希が頭を掻きながら言う。


「そう? 私は光希くんのことを気にしてくれているんじゃないかなって、外から見たら感じたよ」

「……うーん、よく分からないけど、そうなのかな?」


 光希は今ひとつピンとこない表情をしている。

 その表情を見た楓は、


「ふふ……分からないっていう顔をしているね」

「何だよ……俺の心の中を読み解くんじゃないよ」


 と、光希の顔をのぞき込みながら、ニヤニヤとした表情で言う。

 そして光希も、楓の表情につられて「はは……」と小さく笑った。


「……あれ? そういえば、俺たちって何の話をしていたんだっけ?」

「ん? え、えーっと……光希くんがフリーランスになった経緯を訊いていて、それがいつの間にか、光希くんの相談をなんか私が勝手にしちゃって……ってあれ? 本当に、この話ってなんなんだろう……?」


 楓は右手の人差指を頭の上に当てながら、どのようにして話が二転三転としてしまったのか思い出そうとするが……


「それよりも……ふぁ……眠い……何だろう。口の中がまだカフェインで痛いのに、睡魔だけが襲ってくる……」


 と、先程あれだけカフェインを凝縮させたコーヒーを飲んだにも関わらず、燃費が悪かったのか、既に燃料が切れたようで、楓は突然、再来した睡魔に襲われる。

 その様子を見た光希は――


「やっぱり、本当に眠いときにはカフェインは効果無かったようだな」


 と、あくびをかく楓を見ながら言う。


「ううん……らいじょうぶ。ちょっとあくびしちゃったら……ふわぁ……」

「明らかに眠そうで、ほっといたら寝ちゃいそうな感じだぞ」


 ゆっくりと舟を漕ぎ始めている楓の姿を見て、光希はこれ以上はもうダメだろうと判断する。

 そして――


「楓、仮眠室に連れて行くから、手を貸せ」

「ふぁっ……?」


 光希は睡眠の世界へと向かっている楓の手をグイッと引っ張りながら、ふらふらとよたついている楓を仮眠室の方へと連れて行く。

 コーヒーを飲んでもダメなら、健康を考慮して寝たほうが良いという光希の判断だ。


「らいじょうぶらからぁ……」

「いいから来いっ!」


 楓はふらふらとよわよわしく抵抗するも、光希の引っ張られる力には勝てず、そのまま給湯室から移動させられる。


 ………

 ……

 …


 廊下を通り、ふらつく楓をなんとか仮眠室まで連れてくると、光希は楓をお姫様抱っこして、そのままゆっくりとベッドの上へ寝かせる。


「……すぅ……すぅ」


 楓は柔らかなベッドで横になると、数秒とかからずに、その身は深い眠りへと楓を誘っていった。


「ほらな、やっぱりダメだったじゃねえか」


 楓のベッドに座りながら、光希は肩を竦めて言う。

 泥のように眠る姿を見て、徹夜なんてしない子なのだろうと光希は推測する。


「……ったく、生活スタイルが適当な俺に付き合うからこうなるんだ……何か、俺が逆に申し訳ない気分になるわ」


 光希は頭を掻きながらそういうものの――どこか一人でなかったことに、落ち着くような安心感を感じている。

 楓が勝手に光希の徹夜に付き合ったとはいえ、自らの怠け癖が楓を巻き込んでしまったということに、多少なりとも罪悪感を抱いている光希は――


「ありがとうな……」


 と、楓の耳元で小さな声で御礼の言葉を呟く。

 そして、一瞬だけ安心したような表情で楓の寝顔をもう一度見直して――


「……さて、もう少しだけがんばりますか」


 と、両腕をぐい〜っとストレッチで伸ばしながら、仮眠室を後にする。

 そうして立ち去った光希の表情は、どこか気持ちが晴れたように少しだけ明るい表情をしていた。


 ………

 ……

 …

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