第20話:よし、頑張ろう……!

「はいはい〜光希! そろそろあたしと代わってくんないかな。契約の話も決まったことやし、その話をちょろっと話しといてあげたいわ」

「あっ……ひゃっ、菊池さん……無理やり奪わな――や、やめっ……」


 菊池は光希の背後にぬるりと這い寄ると、そこから一気に脇を全力でくすぐり始め、光希の体力を削り出した。

 菊池のたくみな指使いは、光希の体力を削りきるのに十秒も必要はなかった。

 ふらりと体制を崩したところで、手からするりと滑り落ちそうな光希のスマホをタイミング良くキャッチして、それを菊池は自分の耳元へとあて、楓に電話をかける。


「……さて、蒼空さん。契約決まったことやし、これから仲良くするってことで『楓ちゃん』って名前を呼んでもええかな?」

「え……あ、はい。大丈夫です……」


 菊池が楓に訊く。


「おーけーよろしゅうな、楓ちゃん。これからよろしくっ!」

「よ、よろしくお願いします」


 楓が電話越しに頭を下げて挨拶をする。


「みんなー! うちのチームに若くてかわええ女の子が入るで~、嬉しいか〜?」

「「「YEAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」」」

「……えっ、菊池さん?」


 楓の電話越しから、野太い男性たちの歓声が聞こえてくる。

 楓という新たなる仲間が出来たことを皆が心より喜んでいるのだ。


「はいはい、声がでかい声がでかい。他のプロジェクトの人がうらやましがるから静かにせなあかんよ」

「「「は〜い」」」


 プロジェクトのメンバーたちは、楓のアサインを歓声を上げて喜んだ。

 電話越しからだと、物凄い音割れとともにその喜びが伝わってきたが、菊池からの注意があると、その音が一瞬にして無音と化した。

 それはまるで、指揮者が指揮しているような一体感がある連携行動だ。


「え、えっと……菊池さん……?」


 そんな現象を電話越しで聞かされてしまった楓は、一体何が起きたのだろうかという状況把握が追いついておらず、ただただ呆然としていたのだった。


「ああ、ごめんな楓ちゃん。楓ちゃんがうちのプロジェクトに来るゆうたら、プロジェクトの野郎どもが感極まって大声を張り上げてしもうてのぅ……」

「は、はぁ……」


 人が来るだけで喜べるのか……と心の中で思った楓。


「ほら、この業界って男ばっかりやから、若い女の子が来るってだけで皆喜んでしまうんよ」

「あ、ああ……そういうことでしたか」


 菊池から事情を聞いて、ようやく楓は理解する。

 初めはびっくりしていた楓ではあったが、純粋に歓迎されているという事を聞くと、ほっと一安心しつつ、心の中で自分が歓迎されているという事実を喜んだ。


「まったく、あたしというプロジェクトのディレクターであり、紅一点の菊池 湖乃美このみ姉さんがいるとゆうのに、あいつらは若い女の子に興味津々になるなんてなぁ……」

「大丈夫でーす! 俺ら姉さん大好きですよ!」

「育ママになっても、姉さんは皆のアイドルに変わりないっす!」


 プロジェクトの男性陣が声を上げて菊池に言う。


「よーし、今あたしの事をたたえた磯っちとヒロキは、今度の会社の飲み会であたしの奢りでワイン飲んでええぞー!」

「「あざーす!」」


 あまりにもラフといえるようなやり取りが、電話越しで行われる。

 ここは本当に会社なのだろうかと、楓が一瞬疑ってしまうほどだ。


「……うるさくしてごめんな楓ちゃん。前のめりな奴らばっかだけど、一応あたしがプロジェクトに入って良いと認めたメンバーばかりだから、一応それだけは言っとく」

「は、はい……分かりました」


 菊池は楓にそう弁明する。


「ほんじゃ、契約書類とかは光希に持たせるから、そこに住所とか名前サラサラ~って書いて、ハンコポ~ンって押して送り返してな」

「分かりました」

「契約開始はどうする? 今月からなら再来週から大丈夫やし、来月の頭からでも調整つくけど、いつにする?」

「えっと……そうですね……」


 菊池は楓に就業開始時期を訊く。


 この場でまさかプロジェクトの参加が決定するという結果を全くしていなかった楓は、どの時期から開始しようかというスケジュールを、全く考えていなかった。

 その為、質問に対してどのように返答しようかと、楓は今、迷っている。


 楓がうーんと十秒ほど迷っていると――


「さっきも話したとおり、あたしがさっき話に出した『一ヶ月休みを取る』とかしても全然ええ立場なんやし、そこは楓ちゃんの自由に決めてな」


 と、菊池が補足を入れた。


「(そ、そっか……私は今、フリーランスだから休暇の調整も自分で決めて良いんだっけ……)」


 菊池の言葉を聞いて、楓ははっと思い出す。

 そして、楓は光希から聞いたフリーランスの利点についてを思い返す。


 フリーランスは会社に依存しないで仕事をする人間であること。

 スケジュールは自分で決める権利があり、それを咎める人間は居ないということ。


 今行っているのは『面接』ではなく、互いが同じ立場に立ち仕事の話をする『商談』であるということ。


 菊池が好きなタイミングで入っても良いと言って、主導権を楓に渡した。

 ならばと楓は自分にとっての最良の時期はいつだろうかというのを、頭の中で考える。


「…………」


 現在の収入はどうだろうか、スケジュールは合うだろうか、そして自らの今後のキャリア、やる気を重ね合わせると、いつアサインすれば良いだろうか……。

 様々なことを考慮して、楓は考えた。


 熟考に熟考を重ねて出した結論、それは――


「菊池さん。私、みなさんと仕事をするのが楽しみですから、再来週から早速お伺いしたいです」


 最短の日時でアサインをするということだった。

 

 楓にとっては、一ヶ月の休みを取るよりも、早く仕事を楽しみたいという欲求のほうが強かったというわけだ。

 それを聞いた菊池は――


「……そう、早く来てくれるなら助かるから、早速お願いしようかな」


 と、楓の意見を尊重するように返事をした。


「ふふ……私、仕事が始まるのが楽しみって感じたの初めてです」

「なら良かった。じゃ、近々会えるのを楽しみにしてるんで、よろしゅうです」

「よろしくお願いします!」

「そないなら、失礼します」


 菊池はそう言うと、光希のスマートフォンを耳から離して『通話終了』のボタンを押した。


「…………」


 楓は、電話が切れてツーツーと鳴る電話を耳からゆっくりと離す。

 そして――


「私、これでフリーランスになれたんだ……光希くんと同じ、自由を求める第一歩に立つことが出来たんだ……!」


 楓は、心臓をバクバクと鳴らしながら、夢ではないだろうかとほっぺをつねって確認する。


「いて……」


 しかし、夢であるわけでもなく、つねった右頬がじんじんと赤くなる。

 これが夢ではないという証拠だ。


「すごい……頑張りたいっていう気持ちが抑えられない……こんなの、初めてかもしれない……」


 自らの喜びを抑えきれずに、身体が素直になっていることに痛感する楓。


「今日は木曜日で、会社に行くにはまだ一週間以上ある……それまで私、絵を描こう……今すっごく『描きたい』という欲求に満ち溢れている気がする」


 楓はそう言うと、パソコンの前へと座り込み、イラストソフトを起動して、ペンタブでイラストを描き始めた。


「…………ふふ、頑張るぞ……」


 楓は、まるで子供が絵を初めて書いたときのような純粋無垢な表情をしていた。

 社会という闇の中から光を見つけた楓は、キラキラと美しく輝いていた。


第二部 完

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