【外伝】第2.5章:その夜、光希は楓に会いに来た模様です

補足EP02:その夜

 楓のプロジェクトへのアサインが決定した、その日の夜――

 普段、配達員以外やってこない楓の自宅に、一人の客人がやってきた。


 こんこん……こんこん……


 その客人は、楓の自宅の前に立つと、右手で軽く扉を叩き始める。


 こんこん……こんこん……と、リズミカルに、そして丁寧に。


「はーい」


 楓はノックの音に気づくと、その客人を待ちわびていたように、小走りで部屋から玄関まで移動する。


 こんこん……こんこん……

 扉を叩く音は、リズミカルで心地の良い音で、楓に到着を伝えている。



「待っててね。今開けるから……」


 楓は、その客人を招き入れるために、扉にかかっているチェーンと二重構造の鍵をするりするりと解除する。

 待ちわびていた客を、部屋の中に招き入れるためだ。


 こんこん……こんこん……


 扉のノックは続いている。

 とても心地の良い音ではあるが、お客様を外で待たせる訳にはいかないだろうと、楓は扉をぎぎぎ……と開け、そして――


「よう、楓。昼間ぶり」

「あ、光希くん。こんばんわ」


 外で待つ、光希のことを、部屋の中へと迎え入れたのだ。


 ………

 ……

 …


 ここは楓の部屋。

 中へと案内された光希は、楓の部屋の中にあった丸椅子へと座っている。

 一方楓は、自らのベッドの上でくつろぐように座っている。

 端から見たら、まるでカップルのようだと言われるかもしれないが、今日は違う。


「やあ楓。まずはプロジェクトの参加、本当におめでとう」

「ありがとう、光希くん。これも光希くんのおかけだよ!」

「いやいや、俺はあくまで紹介したに過ぎない。最終的に魅力があると判断された楓の人間性というのがキーだったんだよ」


 楓は光希に礼を言うが、光希はそれを自分のおかげとは思ってはいない。

 フリーランスというのは、様々な人との交流により成り立つ仕事ではあるが、最終的には個人の魅力や才能に左右される完全実力主義の世界の為、結果的には楓という存在が自らの運命を変えたと光希は考えているためだ。


「楓に書類を持ってきている。菊池さんから預かった契約に関する書類だよ」

「わぁ、ありがとう光希くん」


 光希は、封筒の中身から複数枚の書類を取り出してから、楓に手渡す。

 受け取った楓は中も見ていないのに、その書類という概念自体に喜びを感じている。

 楓にとって、新たな一歩となる契約の書類であり、新しい世界への扉を開く鍵となるものだからだ。


「……光希くん、見てもいいかな……?」

「それは楓の書類だから、俺が許可を出すまでもないよ」

「うん、分かったよ……」


 楓は小さく呟くと、手に取った書類を一枚一枚丁寧に確認していき、その内容を把握する。


「契約書類と、その控えの書類――支払先の記載と、機密情報の契約書――」


 その内容は、派遣社員時代とは少し違うけれども、雇用に関する契約情報へのサインであることを楓は把握する。


「……ん、あと一枚、別の書類が入っているようだけど……これはなんだろう」


 ぱらぱらと紙をめくっているうちに、何処かに挟まっていであろう書類がはらりと床に落ち、その存在を楓に知らしめる。

 楓は、その落ちた紙を屈みながら手に取ると、そこには、このように書かれていた。


『就業に係るガイドライン』と――


「ガイドライン……?」


 楓は言葉の内容を把握できずに、頭の中で一瞬迷う。

 すると、その表情に気づいたのか、光希が――


「ガイドラインというのは、そのプロジェクトでの働き方についてのルールが書かれたものだよ」


 ――と、楓に向かって説明をした。


「へぇ、そうなんだ……どんなことが書かれているんだろう」


 初めて見る書類に対し、楓はドキドキとワクワクの両方を抱きながら、書かれている文章に目を通す。

 すると、そこには楓の知らないような特殊なルールのガイドラインが示されていた。

 『わいるどふぁーむ』プロジェクトのガイドライン


 <概要>

 このガイドラインは『わいるどふぁーむ』の開発従事者に対し、ルールとして制定している内容である。

 ルールに準じ、業務に精通してください。


 <出勤時間について>

 九時から二十三時まで会社が入っているビルが開いているので、その時間内で出勤をお願いします。

 他の社員やフリーランスの方の出勤例としては、十一時から二十時派の方や、十三時から二十二時の午後型の方がいらっしゃいます。

 月に百四十時間の出勤ラインがありますので、それを下回らなければ特に問題ありません。

 時間を超えれば以降の業務は不要ですが、終日不在される場合には、予めご連絡をお願いします。


<出勤日数>

 日数で指定する事はありませんが、作成した成果物に対しての修正依頼や、方向性について周知する為の全体定例については、極力直接お顔あわせするお時間をいただきたく思います。

 また、自宅勤務に関しましては非公開のゲームを開発している都合上、控えていただいておりますが、プレスリリース後の作業につきましては、個々に要相談とさせていただきます。


<機密情報について>

 当プロジェクトはプレスリリースを控えた作品です。

 業務で知り得た情報をSNS等で漏らした場合は、厳重な処罰となりますので、ご注意ください。


<その他>

 不明点に関しましてはディレクターにお申し付けください。


 以上


………

……


「……さて、ずいぶんと熟考しているようだけど、菊池さんのところのプロジェクトのガイドラインは理解できた?」


 光希は楓に質問をする。


「は、はい……大体はわかったのですが……」

「ですが……?」

「フリーランスのルールって、思った以上にラフじゃないですか?」


 楓は光希に質問をする。


「ラフって……例えば、どんなことが書いてあったの?」


 気になり光希も楓に質問を返す。


「例えば就業ですけど、朝が十一時とか十三時とか、そんなに遅い出勤をしているのかなぁ……って思いまして」

「ああ、別に珍しいことではないよ。ゲーム会社は夜遅くまで働いている人が多いから、せめて朝は遅くしようというルールが業界内であるようで、どこの企業も大体は十時とか十一時に就業開始としているようだよ」

「そ、そうなんだ……」


 朝の八時とか八時半が就業開始時刻だった楓にとっては、遅く働き始めるというライフスタイルは、ある意味未知の領域だったといえる。


「それに、出勤日数を管理されず、時間管理だって書いてあるけど――」

「フリーランスは出勤自体が評価されているわけじゃないからね。成果物を出すのが俺らの仕事だ……だから出勤日数で制約することが出来ない」

「じゃあ、時間は……?」

「それは流石にある程度制約しないと、物凄いラフな人が出てきてしまうから、その時間以上は最低限居てくださいねっていうのはどこも設けているんだ」

「成る程……そうなんだ」


 楓は納得したように言う。


「あと、随分と機密情報について厳重に管理しているんだなぁ……って感じた」

「そりゃあ、作品ごとに会社の命運を担う商品だからな……一個人が勝手にバラして良いもんじゃないよ」

「まあ、確かに漏らしちゃいけない情報だからね……」

「特にゲームというメディアに憧れて入ってきた人は、自分が誰よりも先に作品に触れることが出来たという興奮からか、不特定多数の人に対してそのことを自慢したいという欲求が生まれてしまい、はずみでSNSで公開してしまう傾向があるんだ」


 光希は言う。


「へぇ、色んな人がいるんだね……」

「まあ、そういう自制ができない人には向いていない仕事ってやつかもね。寡黙でストイックに物を作る人間が残っている業界とも言える」

「成る程、気をつけなきゃね」

「ああ、場合によっては数百から数千万円の賠償金請求も辞さないというケースもあるから、そこは注意しておかないと」

「す、数千万円……」


 楓は聞いたことも無いような、莫大ばくだいな金額に驚愕する。

 頭の中で莫大な金額の賠償金を背負い、取り立て屋からお金をせびられるシーンを思わず想像してしまった楓。


「ねぇ、光希くん……数千万ってもやし何年分にあたるんだろう……」

「……その計算方法って、割り出して意味あるのか?」


 顔を青くして貧乏な質問をする楓に、光希は冷めた返事をする。


「まあ、慣れりゃあ笑い話の一つになるよ。ちゃんとした業界人なら、自らの経歴を完全に無碍にしてしまうような愚かな事は、まずしないだろうし」

「経歴を無碍むげに……?」


 気になり、楓は質問をする。


「この業界は広いようで、意外と狭いんだ。どこかで悪さをしたものなら、その噂は業界の人から人へと通じて流れていく」

「つまり、次の仕事を貰おうとしても、その評判のせいで白紙になってしまう可能性も……」

「ああ、あり得るな。特に情報漏洩なんてしてしまうと、どこの企業も仕事なんて渡してくれなくなる。この人は我慢ができない人なんだなって思われて」

「うーん……厳しいというか、本当にタブーな行為なんだね」


 楓はガイドラインを見直しながら言う。


「それで、他に気になったところとかはある?」


 光希は楓に質問があるか確認をする。


「ううん、大丈夫だけど……」

「だけど……?」


 楓は少しだけ険しい表情をしながら、


「……なんというか、一人で行くのがちょっと緊張しちゃって……」


 と、溜めていた不安を光希に告白した。

 その言葉を聞くと、光希はプッと息を吹き出して――


「なんだ、そんなことか。案外可愛いところがあるんだなぁ……」

「か、可愛っ……」


 楓の顔が赤くなる。

 そのことに気づいた光希は――


「あ、照れてる。かーわいー!」

「もー!」


 真っ赤な顔で光希の背中を叩く楓は、まるで駄々をこねている子供のようだ。

 ポカポカと叩かれている光希も、笑いながら楓の駄々を楽しんでいる。

 光希はある程度、楓で楽しんだ後、楓に対して両手でまぁまぁ……と押さえつけて、話を続ける。


「……ったく、悪かったって。別に、一人で不安なことは、決して珍しいことじゃないから」

「……本当?」

「ホントホント!」


 拗ねながら訊いてくる楓の言葉に、二つ返事で返す光希。


「ちなみにその日は俺もライクプログラムワークスに行く用があるから、一緒に行こうかと思ってね」

「えっ、良いの!?」

「ああ、それで不安が解消されるなら、安いもんだろ?」

「そっかぁ……ありがとう、光希くん」


 楓はホッとした表情をして、ベッドの上に座り込む。


「時間もあることだろうし、アサインするまでに絵の練習でもしておいたらどうだ?」

「う、うん。そうだね。プロジェクトに迷惑をかけちゃいけないもんね……」

「そこまで気をはらなくてもいいよ。書き慣れておけばいいってレベルだし」

「そ、そう……分かった」


 力む楓を抑える光希。


「じゃあ、俺はもう帰っちゃうから、もし書類でわからないことがあれば、SNSかなんかで投げてくれれば反応するよ」

「うん、ありがとう光希くん」


 光希はそう言いながら玄関の方へと歩いていき、そのまま「次の仕事があるから」と、足早に楓の家を出ていった。


 そして――


「よ、よし……あと十日間、フリーランスデビューまでに、絵の勉強、頑張るぞ……」


 楓は不安と期待を抱きながら、両手に力を込めて、そう自分に宣言をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る