第28話:いらっしゃい、ご挨拶
「楓ちゃん。ここから土足厳禁なんや。だから、そのパンプスは脱いで、下駄箱に入れておいてほしいんや」
「えっ……靴を脱ぐんですか?」
「うちの会社はそういう制度なんや。社長が靴履きっぱで仕事になんて集中できんわって言って、ここのビルに会社が移転した際に、全フロアを土足厳禁にしたっちゅう経緯で」
「あはは……なんというラフさ加減……」
社長もきっと光希のような自由が好きな人なのだろうかと想像しつつ、言われたとおりに楓はパンプスを脱ぎ、カントリー調の木目がある下駄箱へと入れる。
「スリッパ派と素足派がおるけど、楓ちゃんはどっち派? もしスリッパが欲しいなら、今日はお客さん用のやつ用意するけど……」
「えっと、そうですね……私は素足の方が好きですね。家でも普段はそうですので……」
「そりゃ意外やな。そこら辺はきっちりタイプかと思ったけど」
「ふふ……意外とがさつなんですよ、私」
そう言って、履いていた黒いレースソックスを「えいっ!」と脱ぎ捨てる楓。
「なんやもう、既に実家にいるような感じやん」
「実家よりも居心地が良さそうです」
楓はヒノキで出来た床をぺたりぺたりと歩きながら言う。
「ほな、こっちや。まずはあたしのデスクのところまで来て欲しい」
「はいっ!」
楓はうきうきとした表情で返事をする。
広くスペースを確保されたデスク間の通路を歩き、菊池は自らのデスクまで楓を案内する。
そして、ズボンのポケットにしまっていた残り少ないタバコの箱をデスクの上にぽいっと投げて起きながら、こほんと一つ咳払いをする。
そして――
「はい、ちゅ〜〜〜〜〜もぉぉぉぉ〜〜く!」
と、菊池は部屋中に響き渡るような大声で、周りの人間の注目を集める。
「ん……、何々? びっくりした……」
「菊池さん、声でかいなぁ……何の招集だろう?」
菊池の声が耳に入ったクリエイターたちは、一瞬ビクッと驚きつつ、菊池のデスクの方へと身体を向ける。
「(す、凄い……バウンドボイス……。あの時の電話の声って、こんなに大きかったんだ……)」
菊池の隣で立っていた楓は苦笑いをしながら、耳を両手で塞いでいる。
耳ガードは成功しているものの、鼓膜がビリビリと震えており、手を貫通してボイスが届いたのだろうと楓は痛感する。
「よ〜し、皆揃ってるか〜? トイレ行っていってるやついないか〜? コンビニ行っているやつはいないか〜?」
菊池は右手を眉の上にあて、デスクに座っていない人がいるか目を凝らして確認する。
「菊池さ〜ん、レイちゃんが今日は遅出勤なのでまだいませ〜ん」
菊池の正面十メートル先のデスクで座っている女性が言う。
「レイは昨日遅くまで頑張ってくれたからなぁ〜仕方ないか。許〜す!」
まるで小学生の学級裁判をしているかのように軽いノリで話が進んでいる。
そんな姿を見て、楓は大丈夫なのだろうかと苦笑いをしている。
「んじゃあ、いる人だけな。今日からうちのチームに新しく参加することになった『蒼空 楓』ちゃん! デザイナーとして、わいるどふぁーむの開発に携わってもらおうと思っています。はい拍手〜!」
菊池が言うと、周りの人たちがパチパチパチと大きめな音で拍手をする。
「楓ちゃん。かる〜くでええから、自己紹介とか出来る?」
「あ、はい。大丈夫ですよ」
菊池が楓の背中をポンポンと軽く叩きながら言う。
その言葉に答えるように、半歩前に出て、楓は大きく息を吸い、そして――
「改めまして……本日よりこちらでお世話になります、蒼空 楓と申します。デザイナーとして入らせて頂きます」
楓がそう言うと、また拍手が小さく響く。
「えっと……私は前の職種が全く別の業界で仕事をしていたんですが、とあるきっかけで菊池さんからのご縁の連絡をいただきました」
楓は、菊池の顔をちらりと見て、話を続ける。
「絵は元々独学で書いていましたが、皆さんのようにプロの仕事というのはまだまだ出来ないだろうと自覚をしております。それでも、皆さんに追いついて一緒に仕事ができるようにという気持ちはありますので、至らぬ点が多いかもしれませんが、宜しくお付き合いい頂けますとうれしいです。よろしくお願いしますっ!」
楓は、自らが未熟であることを大勢の前で告白した上で、それでも頑張りたいという意志を伝え、言い切った表情で頭を下げる。
少し表現が固くなかっただろうか、言い間違いや、早口で言っていなかっただろうかという心配を抱いていたものの――
パチパチパチ
パチパチパチ
パチパチパチ
楓の言葉は周りの人たちに通じていたようで、部屋の中から大きな拍手が飛び交った。
それを見た楓は、ニコリと満面の笑みを浮かべて、また改めて頭を下げた。
楓にとって、新たな環境での勇気ある第一歩だ――
………
……
…
「よし、ここが楓ちゃんの席や。好きに使ってええからね」
「はい、ありがとうございます」
楓は菊池に礼を言う。
デスクは他の人と同じように、カントリー調の木製デスクに、最新式パソコンと、液晶付きペンタブがあり、そして――
「菊池さん、このチェアって……」
「お、楓ちゃん知ってる? クリエイター御用たちといわれる八時間座っても疲れない『カーバンディラン』っていう椅子。一脚十五万円もするんや。凄いやろ!」
菊池が自慢するカーバンディランの椅子は、編み込み式で椅子の生地が作られており、体重を適度に分散し、熱をこもらせない性能を持っている。
ギアのチェンジで背中の角度を自由に変えることもでき、休憩したいときにはリラックスがし易い構造。
人間工学に基づいた設計をしており、何よりクリエイターたちが心地よく働けるようにと言う設計を極めた作りをしている。
菊池は、そんな高級椅子の頭を両手で持ち、楓に対して「座ってみ?」と促す。
楓は言葉に甘えるままに、高級チェアのカーバンディランに体重をかける。
すると――
「……っ! こ、これは……!」
席に座った途端に、楓の脳内の世界に、突然光が訪れた。
「(すごいっ……! 全ての体重をこの椅子に委ねたというのに、軽々と全てを包み込まれたような感覚に襲われるっ……肩が、背中が、そして腰が――ありとあらゆる部位を優しくフィットして、それでいて優しい当たりで疲れを癒やしてくれる……)」
楓は満面の笑みを浮かべながら、その開放感に浸っている。
「(それに、この椅子は腕を置く場所があって、ペンタブを操作するのにちょうどいい高さに調整できる……この体勢ならば、何時間でも集中して絵が描けそう……まさに、クリエイターの為の超高級椅子っ……!)」
ぬくぬくと身体を動かしながら、楓は高級椅子の良さを堪能していると――
「はいはい、夢の世界はそこまでね。ここで仕事してもらうんやから、リラックスしすぎて寝たらあかんで」
「あっ……すみません。つい……」
菊池の言葉でようやく意識が現実に戻ってきた楓。
そのまま、菊池に向かい、謝罪の言葉を言う。
「あとな楓ちゃん。このデスクの左右の席に座っている人たちが、これから楓ちゃんと一緒に仕事をするデザイナーさんやから、今ここでお互いに自己紹介をしてしまおうか?」
菊池はそう言うと、右隣に座る若い二十代の女の子と、左隣に座る五十代の男性に「じゃあちょっと、ええかな?」と言って、楓への挨拶をお願いする。
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