『侵蝕』

小語

序章

「今日も相変わらず、曇ってやがる」

 記憶から拭い去れないあの日をきっかけにして、曇天以外の表情を見せなくなった空を仰ぎながら、その青年は呟いた。やや黒に近い灰色の頭髪と琥珀の瞳を有し、覇気に溢れる精悍な面をしているが、今その若々しい風貌に宿っているのは無感動だけだった。

 青年が路を歩きつつ発した言葉は、誰かに向けたものではない独り言だったのを、隣に並ぶ男が目敏く反応する。

「またかよ、アグレイ。毎日同じこと言ってやがるな」

「ん? ああ……」

 アグレイと呼ばれた青年は、いきなり現実に戻されたような間の抜けた返事をして、一緒に歩を進める同僚を見返した。

「曇ってんのは当然だろう。この街は侵蝕しんしょく地帯でも指折りの侵蝕度を誇る、通称〈曇天区どんてんく〉だぜ。いつでも曇り空なんだ」

「分かってら」

「そうじゃないから教えてやってんだよ、親切にな」

 アグレイの同僚であるフリッツには、バカにしているようでいてアグレイを軽んじている様子はない。二十歳になったばかりのアグレイと同年であり、長年仕事を共にしてきたフリッツは、軽口を叩くのが好きなのだ。

「親切心はありがたいがよ、巡回中くらいは真面目にできねえのか、フリッツ」

 アグレイは口元に締まりのない同僚から目を逸らし、前方の景色を視野に収めた。

 二人が歩いているのは、イフリヤという街の街路だった。石畳で舗装された路面は放置されて久しいのか手入れが行き届かずに傷んでいる。随所に亀裂が生じ、場所によっては地面が露出して雑草が顔を見せている。道路の両側に連なる建築物もほとんどが壁面に損壊が認められ、壁や天井が崩れ落ちて瓦礫の山と化しているものも少なくない。

 街全体が廃墟の様相を帯びるなか、アグレイとフリッツの他に人影はなかった。

「そうは言っても、お前の無駄口も暇潰しの役には立つか」

 殺風景な周辺を見渡してアグレイが言い放つと、フリッツがわざとらしく笑ってみせる。その拍子に、フリッツの腰に吊るされた剣が軽やかに揺れた。

「ははッ、俺のありがたさは分かってるようだな。じゃあ、とっておきの話をだな……」

 そのとき、唐突に空気を裂くような悲鳴が二人の耳朶を打った。間髪を置かずにアグレイが声のした方へ走り出す。

「フリッツ、その先は今度だ! 早く来い!」

「お、おい、ちょっと待てって……」

 アグレイの脚力は凄まじく、フリッツは彼の後を追って駆け出すも、あっという間にその距離は開いていき、アグレイが角を曲がってからはその背を見失ってしまう。背後の同僚のことなど気に留めず、アグレイは速度を緩めることなく走り続けた。そのうちに道路を抜けて広場に出ていた。首を巡らすと、すぐに声の主らしき人物が眼に映る。

「あの子、か?」

 その姿が小さいのは遠くにいるためだけでなく、子どもだからだ。髪型と服装で遠目でも男の子だと分かる。一見、近辺に何ら異変は確認できず切迫した状況とは思えない。だが、少年は目に見えない存在に怯えるように身を震わせている。

「おーい、どうかしたのか? 子どもが一人で来るようなとこじゃ……」

 訝しさに眉根を寄せるアグレイが少年に近づいていき、急にその顔色が変わった。少年との距離が縮まったことで、ようやく異常を感知できたのだ。

界面活性かいめんかっせいかッ!?」

 少年の周囲の空間が揺らめいている。水面が波打つように空間が揺れており、その範囲内では遠方の建造物や街路樹などの背景も輪郭を失って形が歪んでいた。

 アグレイの大声で、恐怖で立ち尽くしたまま虚脱状態に陥っていた少年がやっと彼に気づいたらしい。助けを求めて両手を突き出すが、指先が空間の揺らぎに触れた途端に、溶けるように虚空と混ぜ合わさっていく。その光景を少年は呆然と見ているだけだった。

「動くなよ! じっとしてろ!」

 少年に指示して地を蹴ると、後方から遅れて到着したフリッツの困惑した声が上がる。

「何だ、どうなってんだ、アグレイ?」

「つっ立ってる場合じゃねえ、フリッツ! 界面活性だよ!」

 走りながら言い返し、アグレイは少年のもとへと向かうと、その右手を振りかぶった。

 その拳が、蒼く発光する。

 間合いに踏みこみざま、アグレイは淡い光を放つ右拳を不安定な空間、界面活性に打ちこんだ。無抵抗に侵蝕されるままだった少年と違い、拳は逆に界面活性を押し退けていく。

「おりゃあ!」

 気合をこめた拳が少年に纏わりつく界面活性を振り払い、その隙に左手で少年の身を抱き寄せた。しかし蜘蛛の糸が獲物を放さないように、空間の歪みが少年の腕に吸着したまま伸張してくる。彼は冷静に燐光を放つ右手で少年の腕をなぞって、それを引き剥がした。

 短い袖から伸びている細い腕が無事なのを確かめて、アグレイが表情を緩める。

「よし。ボウズ、大丈夫か?」

「あ、うん……」

 まだ放心から抜けきっていない少年が無意識に返答する。

「じゃ、ちょっと離れててもらう、ぜ!」

「ッ……!」

少年の息を飲む気配が一気に遠ざかる。アグレイが後ろも見ずに、少年を放り投げたのだ。軽い身体は放物線を描いて宙を飛び、頂点を超えると落下に転じた。

「おっとお」

 着地点にはフリッツが待機しており、少年の身体を受け止める。息の合った連繋だった。

 陽炎にも似た揺らめきの現象は、少年を助け出す間に広場一帯を飲みこんでいた。周辺の建物は区別するのが困難なほど混然と一体化している。灰色を帯びる空と地表も絡み合い、境界も定かでない。逃げ道は限られていて、残された道も徐々に塞がれつつあった。

「おいおいおい、今回の界面活性は大きいぞ。通れるのはあそこだけだ。早く行こうぜ」

「フリッツ、ボウズを連れて先に行け。俺は、あいつらの相手をする」

 不可解とでも言いたげなフリッツの目線がアグレイに向けられ、次いでアグレイが見つめる方向へ滑った。そして、納得と畏怖の入り混じった呟きが漏れる。

「〈喰禍くうま〉か……」

 二人の双眸が焦点を結ぶ地点に、いつの間にか異形の存在が出現していた。

 出来損ないの泥人形のような怪物だった。体長は大人よりも一回りは小さく、頭部とその下がほぼ同じ比率の二等身で酷く不均衡だ。体表が緑色の岩のようで、いかにも頑丈そうな出で立ちをしている。人間で言えば顔に当たる部位には、丸い紅玉が二つ嵌まり目のようになっている。手には歪な形の棍棒を持っていた。

 界面活性から、まず不格好な頭だけが突き出され、アグレイ達を視認するような仕草を見せた後、揺らめきから全身を現す。その数は目算で三十体を超えていた。

 アグレイは脳内で検索する。あの敵は下級に位置づけられる突撃型喰禍〈岩魔がんま〉だ。数日に一度は目にする珍しくもない種類で、その脅威も恐れるべきものではない。

「急げ。岩魔なら俺一人でも何とかなる」 

「そんなこと言ってもよ、あの量は多過ぎるし、第一この状況じゃ戦ってる暇が……」

 フリッツが迷っている間に、アグレイと岩魔は激突している。

 正面から振り下ろされた棍棒を左に躱し、アグレイが発光する右拳を岩魔の顔面に叩きこんだ。岩魔の顔がヒビ割れて拳が手首まで埋まる。勢いで岩魔が後方に飛び、直後、岩魔の身体が爆発したように粉砕。弾け飛んだ四肢が塵となって虚空に溶けて消えていく。

「勝手に死ぬなよな!」

 アグレイの危なげのない攻防を見やって、フリッツが少年を連れて離れていった。

「そう簡単に、くたばってたまるかよ」

 左右から振り抜かれた棍棒を、アグレイは上体を揺すって避ける。岩魔が二撃目を放とうと凶器を振りかぶった隙を見逃さず、左側の岩魔を右拳が捉えた。

 一発で微粒子となる岩魔を尻目に右側に向き直る。突き出された棍棒を右手刀で逸らし、その右手に鋭角的な軌跡を描かせた。青い残像を引く手刀が岩魔の脳天に吸い込まれ、頭部を二つに分割する。

「甘いな」

 さらに左から横殴りの攻撃が迫る。アグレイは左裏拳を掲げて受けの姿勢だ。その右手が光を失い、入れ替わるように左手が燐光を帯びた。

 瞬間、鋼が擦れるような響きが鳴った。岩魔の一撃を腕一本でアグレイが防いだのだ。彼が腕を一振りすると岩魔が体勢を崩す。アグレイが一気に身を沈める。と、見えたときには急角度で上半身ごと左拳を突き上げていた。見事な昇拳は岩魔の下顎を削り、岩魔の身体を宙に浮かせる。一回転して地に伏した岩魔は、ゆっくりと塵になって消えていった。

 アグレイは、そいつが果てるのを見届けることは許されない。別の岩魔が仲間の無念を晴らそうとするかのように接近してくる。

「手から足に移すのは、ちょっと時間がかかるんだよな」

 自身にしか分からない独り言とともに、あえてアグレイは大きく前に踏みこむ。いきなり間合いを縮められて岩魔は虚を突かれた。着地させた左足を軸にして時計回りしたアグレイが、バネの利いた右回し突き蹴りを放つ。

 いつの間にかアグレイの右足に光が宿っており、直撃を食らった岩魔の頭部が爆砕、消失した頭に遅れて胴体が微粒となって後を追う。

 散りつつある同胞の灰塵の幕を割って、さらに三体の岩魔がアグレイの視野に出現する。

 両足で地を踏みしめ、改めてアグレイが右蹴りを繰り出した。右側と中央の岩魔をいとも容易に吹き飛ばし、勢いが弱まっても残りの一体の頭部を陥没させるほどの威力だった。

 アグレイは三体を同時に塵芥へと帰さしめると、威嚇するように周囲へ視線を巡らせる。まだ二十体以上の敵が残存していた。わずかに首を曲げて後背を確認すると、逃げ道はどんどん狭まっていく。

「これが限度か。そろそろ行かな……!」

 注意が疎かになったところを岩魔が死角から狙ってきた。咄嗟にアグレイが両手で防御するものの、異能を発揮する燐光は依然として右足にあるままだ。強化されていない通常の肢体で受ければどうなるかを理解したとき、アグレイの面に痛恨の悔いが浮かんだ。

 岩魔の棍棒がアグレイに叩きつけられる直前、アグレイの背後から銀光が伸びて岩魔の眉間に突き立った。一瞬で岩魔は塵と化し、アグレイの顔に吹きつけた。

不機嫌そうに振り向くアグレイの間近に、得意気に笑うフリッツがいた。

「油断したな? アグレイ」

「そんなんじゃねえ。ちょっと目を離したとこを小突かれそうだっただけだ」

「それを油断したって言うんだよ」

 フリッツが、岩魔を貫いた剣を構え直す。アグレイが不快を示したのは、手助けしたフリッツに対するものでなく、油断した自分に向けたものであった。それを知るフリッツは意地悪く笑う。それを横目で見るアグレイが、たった今気づいたように怒鳴った。

「ッて、お前、何でここにいるんだ! 逃げろって言ったろうが。ボウズは?」

「耳元でうるさい奴だな。あそこにいるよ」

 フリッツが指す方向に、界面活性を通して歪んだ輪郭ではあったが、建物の陰に隠れてこちらを見ている少年の姿があった。

「で、お前は、どうして戻ってきたんだよ」

「あれを見りゃ、少しは納得するんじゃねえか?」

フリッツが親指で示す彼方に、四つの人影があった。

「応援か。やるじゃないか」

「当たり前だ。応援呼ばせたら俺に敵う奴はいないからな」

「少しは、生き延びる目が出てきたってことか」

 退路は界面活性に覆い尽くされて完全に断たれていた。彼らに残された道は、界面活性の元凶である喰禍を全滅させることだけだ。再度アグレイが岩魔の群れのなかに突撃していく。岩魔の断末魔に代わる塵の四散が随所で続いた。

 アグレイによって掃討されつつある岩魔は、焦慮を覚えたようだった。すでに十体まで数を減じていた岩魔は、現れたのと同様に界面活性に飛びこんで逃げていく。

「あ、てめッ、生きて返すかよ!」

「いいってアグレイ。深追いすんな」

 フリッツの忠言を釈然としないながらも聞き入れ、アグレイは不完全燃焼気味にぎらつく琥珀色の双眸を、岩魔の後ろ姿に注いでいた。

 全ての岩魔が消え去ると、界面活性も急速に止んでいった。それまで歪曲していた風景も原形をとり戻し、つい先ほどまでの騒動が嘘のように場に静寂が満ちる。

「助かった、な」

 二人が顔を見合わせる。応援の男達も駆け寄ってきた。

「二人とも大丈夫かー?」

「おう! おかげさんでな」

 アグレイは仲間に手を振って感謝の意を告げる。そして少年のことを思い出すと、さっきの建物に目を転じた。

「ボウズ、もう平気だから出てきな」

 少年が路地からゆっくりと姿を現した。一歩を踏み出すまでは躊躇しがちだったが、走り始めるとまっすぐアグレイを目指してくる。勢いを緩めずに少年がアグレイに跳びつき、押されてアグレイがよろめいた。それでも片手で少年の身体を支えることは忘れない。

「おっと。危ないだろうが」

 眉をしかめて言ったアグレイの文句を意に介さず、少年は潤んだ瞳でアグレイを見上げた。その小さな口唇が高い声を発する。

「ありがとう!」

 少年の眼差しを直視することができず眩しげに顔を逸らしたアグレイは、左手は少年の背に回したままで、空いた右手のやり場に困って灰色の頭髪をかいた。

 アグレイは、照れくさそうに天を仰ぐ。空は、やっぱり曇っていた。



 この世界が、侵蝕という異常現象に見舞われてから、約三十年という月日が経過している。人類は侵蝕に対する有効策を講じることのできぬまま、ただ自らの居住区を明け渡すことを甘受するしかない生活を強いられていた。侵蝕が発生して以来、人類の生存は脅かされつつあり、その存亡すら危ぶまれるものとなっている。

 世界は、緩やかに破滅への道を歩んでいた。

 侵蝕はその規模によって九段階に区分されるが、その度合いに関わらず共通するのは、空間の不安定化が侵蝕の前兆だとされていることだ。この世界と侵蝕側の世界との境界が希薄になることで空間に揺らぎが生じる現象がそれであり、後に界面活性と名づけられた。

 界面活性は、小規模なものでは人間の掌ほどの大きさしかないものや、逆に大きなものになると、地域の気候すら変動させてしまうほどの広範囲に渡る場合もあった。

 界面活性にとりこまれた空間は、向こうの世界の影響を強く受け、自然の法則や原理を捻じ曲げられることもある。それにより、生態系の崩壊や異常気象が引き起こされる事態も頻発した。それほど侵蝕が重度の地帯は、人間の住める環境ではなくなってしまう。

 それ故、その意思に反しながらも、人類は居住地を狭めていくしかなかった。

 人類に深刻な損害を与えるのは、界面活性だけではない。

 界面活性を通路として侵蝕世界から時折その姿を顕現させる異形の存在、喰禍による攻撃は苛烈を極め、着実に人間社会を衰退させてきた。

 喰禍が侵蝕世界の住人であろうという見解は、人類全般が一致させる総意であり、侵蝕が確認された初期の頃は、交渉による解決を望む声もあった。だが、その主張は間もなく霧消することとなる。あらゆる手段で意思疎通を図る人類に対し、喰禍はその必要はないと言わんばかりの攻勢を加え続けてきたのだった。

 和平の試みが失敗したことで、平和的解決の可能性は皆無であり、喰禍は人類と相容れざる敵である、という共通認識が膾炙していった。それ以降、人類は武力を頼みとして喰禍を追放する方針を執っている。

 しかし、人類対喰禍の戦争といったものは事実上勃発していない。それというのも、人間同士が指揮権を巡る問題や、利害関係で組織系統をまとめることができずにいたところを大規模な侵蝕が幾重にも地上を寸断、人類相互の通信が遮断されてしまったからだった。分断された人類は、地域単位の散発的な反撃に終始し、敗走するか全滅するだけだった。

 戦況は人類側が一方的な劣勢の立場にあった。個体数では喰禍を圧倒的に上回るものの、戦闘能力という点で人間は喰禍に比して遥かに脆弱と言わざるを得ない。喰禍に占領された土地の大半は、膨大な人間の死体の上に築かれたのだ。

 大規模な侵蝕が続発したのは初期だけで、侵蝕が定着した場所が増えると、そこを足がかりとして侵蝕は着実に広がり面積を拡大していった。以来三十年、徐々にではあるが世界は侵蝕に飲みこまれつつある。

界面活性と喰禍。これらに世界が蝕まれ破壊されていくことを、いつからか人は〈侵蝕〉と呼ぶようになっていた。


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