第7話 キクとばぁば

「今日は帰りが遅いねえ」

 ばぁばが居間の椅子に腰かけ、孫の身を案じていた。日常ならばすでに帰宅している頃合いになっても、アグレイは一向に姿を見せない。

「私……迎えに行ってみましょうか?」

「いいのよ、そこまでしなくて。あれも、子どものままじゃないから」

 ばぁばが不吉な思いを抱いていると、それを払拭するように軽やかな呼び鈴が鳴らされた。身軽なキクがばぁばより先に席を立ち玄関を開くと、そこには二人の男が立っていた。

「ん……? 君、あのときのキクって娘だな」

 亜麻色の髪をした真剣味を欠いた顔立ちの男が言った。キクにも見覚えがある。アグレイの頼みでレビンを孤児院に預ける役目を負った、フリッツというアグレイの同僚だった。

「あ、レビンを世話してくれた方……。その節は……」

「いいんだ。それよか、こいつを助けてくれ。男の介抱は気持ち悪くてさ」

 フリッツに寄り添っているだけだと思われたアグレイは気を失いかけ、フリッツに肩を貸されてようやく立っている。

 息を飲んだキクはアグレイを譲り受け、介助するようにアグレイの脇に身体を入れて支えとした。泥酔しているのかと思ったが、酒の匂いはしない。

「喰禍との戦いで少し殴られてさ。統括府の医療室で診てもらって、休めば治るっていうから連れてきたんだ。じゃ、そいつは頼むよ」

 フリッツの締まりは無いが端正な顔に打撲傷を認め、キクが休んでいくように勧めたが、フリッツは頑なに首を横に振った。

「いや、いいんだ。それと、アグレイは女の子の扱いに慣れていないから、不愉快な気持ちにさせることもあるかもしれないが、我慢してくれないか。……こいつは不器用なんだが、それなりに悩みがあるようなんだ。戦闘にも集中を欠くぐらいにね」

 頼りない足どりでフリッツが階下に消えると、キクはアグレイを抱えて居間に戻った。

「おや、どうしたんだい、その甘ったれは」

「喰禍との戦闘で傷ついたと……、フリッツさんが」

 驚いたばぁばが目を丸くする。どこか安堵のような光彩を放つ瞳が、キクにも分かった。

「そう。悪いけど、部屋に寝かせてきてくれるかい?」

 キクは頷いて、部屋にアグレイを運んだ。室内には寝台が二つあったが、迷わずキクは片方にアグレイを寝かせた。もう片方には埃が堆く積もり、使用者の不在を暗黙のうちに告げていたからだった。

 横たわったアグレイが不意にキクの細い手首を掴んだ。寝ているのか意識が混濁しているのか、うわごとを口にする。

「アルジー、ごめん……、守れ……な」

 キクは孤児院で悪い夢を見た子どもをあやすように、アグレイの額に手を乗せた。

「大丈夫よ、ほら」

 キクの少し冷たい掌が心地よかったらしく、アグレイは手を放し寝息を立て始めた。

 居間では深刻そうな表情のばぁばが待っていた。キクは椅子に腰かけてばぁばに話しかける。

「怪我と疲労で寝てますけど、心配はないと思います」

「そう、ありがとね」

 ばぁばの歯切れが悪い。どこか思い詰めているような重々しさがある。

「あれは、他人のために自分が傷ついて生きていくことを自ら選んだんだ。祖母として誇るのに充分さ。分かってはいるけど、私の覚悟が足りないのかねえ」

「……」

「年寄りの昔語りだけど……、聞いてくれるかい」

 キクは声を出さずに目だけで許諾の意を示した。

「アグレイには以前、両親と弟がいたんだよ。だけど、あるとき、いきなりその家族が奪われてしまった。あの……侵蝕によって」

 イフリヤ市では初めてとなるサクラノ公園の侵蝕。ばぁばはその当事者ではないため、風聞や当時幼かったアグレイの拙い説明によってしか状況を知ることができなかった。それでも、家族がどのような最期を迎えたか、少ない情報ながらその輪郭は掴んでいた。

 アグレイの父親の休暇に合わせて、ばぁばを除く一家がサクラノ公園で団らんをとっていたこと。その途中で界面活性に襲われ、家族が犠牲になったこと。両親と弟を見捨てて逃げたのをアグレイ自身がひどく恥じていることなどを、ばぁばはキクに語った。

「あの子が侵蝕の様子を語ったとき、自分を責めていた姿は忘れられないよ」

 そう言って、ばぁばが視点を横に滑らせた。ばぁばはそこに、幼き日のアグレイが悲嘆と自責に塗れて泣き喚いている映像を見出しているのだろうか。

「ばぁば! 僕、僕……、一人で逃げちゃったんだ。お父さんもお母さんも、アルジーも、みんないなくなっちゃたよお! 僕が一人で逃げたりなんかしたからぁぁぁああ……!」

 ばぁばは目を瞬いて記憶に残る傷ましい幻影を消し去ると意識を現在に向けた。

「アグレイは子どもの頃から腕白といってもね、当時は八歳かそこらだよ。大人でも恐れをなす侵蝕をそれも初めて見たら、我を忘れて逃げだすのが当然だろうさ。そのおかけで、私は家族を全員失うという最悪の結果を免れたんだけど……」

 キクは黙って頷いた。はぐれ孤児院が侵蝕されたとき、その端緒となった界面活性を目にしてキクですら動揺するだけだった。

「それなのに、何を思ったかあの子は、自分の行為を恥ずべきものと考えるようになった。誇れる行為ではないにしろ、少なくとも後ろ指を感じる必要はないんだ。あの子には逃げるしかなかったんだから。それ以外の選択肢は残されてなかったと私は思う」

 ばぁばの瞳に沈痛な色が濃くなる。

「アグレイにはアルジーという弟がいたんだけど、その子一人くらいは助けられたんじゃないかと、アグレイは自分を責めてる。私に言わせれば、アグレイは薄情な子じゃないからね、ほんのわずかでも余裕があればそうしたろうさ。でも、そうできなかったことが、状況が如何に切迫していたかという証拠だよ」

 多少はひいきの重りがばぁばの判断に乗っているとしても、キクは首を縦に振るのに抵抗は無い。キクの知るアグレイという男は、いつも他人を助けようとしていた。

「私もそう思います」

「アグレイは、家族を失った原因が心身の弱さにあると考えたみたいでね。力と意気地が足りなかったことで、家族を助けられなかった。だから強くなろうと思ったのか、過去を補うように強さを求めた。それで警備隊に入隊したんだよ。それが贖罪であるかのように。そして罪滅ぼしは、あの子のなかでいつまでも終わることがないんだ。そのせいか、アグレイは自分の生命を軽視しがちでね……」

 ばぁばの述懐はそれで終わりのようだった。老婆の長い溜息が卓上に霧散する。

「アグレイさん、いえ……アグレイに、そういう傾向があるのは感じていました。他者が傷つくことを自分の責任に帰してしまうような人なんですね。私や子ども達を助けるために、あの人、いつも必死でしたから」

 キクの瞳の光彩に強さが増していた。

「私だけでは解決できない問題を彼は手助けしてくれました。感謝してもしきれません」

 ばぁばは、アグレイとキクの昨夜のやりとりを思い返していた。その印象は、キクの応対にアグレイが不満を覚えていたことに尽きる。

 アグレイの失意からして、キクの本来の気質と現在の姿とに隔たりがあるのは、ばぁばの洞察力をもってすれば簡単に予測できた。

「アグレイは、あんたが沈んでいることをひどく気に病んでいるみたいだねえ」

「そうなんですか?」

「いや、その顔は分かっていないね。あの子はあんたのためを思っているんじゃなく、あんたの元気な顔を見られなくて残念なのさ」

「はあ」

 まだ分かってないか、とばぁばが声には出さずに呟いた。

 キクも無言で己を省みる。確かに、はぐれ孤児院で子ども達の世話をしていた当時の湧き上がるような活力は、今の自分には存在しない。子ども達を失った精神の傷は癒えずに、そのまま空虚と化したようだった。

 以前、アグレイが言ったことがある。孤児がキクを必要としているのでなく、キクが孤児を必要としているのではないか。キクが他者から頼られることを生きがいとし、自分を頼ってくれる他者が必要なのではないか、と。

 アグレイの言う通り、自分は頼ってくれる相手がいないから不安でしょうがないのだろうかとキクは思った。

「まあ、急に元気を出せって言う方が無理だからね。ゆっくりでいいさ、徐々に笑顔の数を増やして、あのバカな孫を喜ばせてくれれば充分だよ」

 キクは頷いた。

 アグレイの過去を知ることができたのは、キクにとって有益だった。キクは悲しみと無力感の泥寧でもがくことしかできなかった。

 それに対し、アグレイは家族を失うというキクと等しい悲しみを負いながら、さらに家族を助けられなかったことを悔やんでいるのに、他者を救うという行為に活路を見出そうとしている。

 キクとしても、この悲しみを克服するのに時間はかかるだろうが、少なくとも立ち直るための努力はするべきだろう。

 キクが孤児達を養ったのは、決して自分の精神安定のためでなく、子ども達と過ごす時間と空間を至上と感じたからのはずだ。それを証明することが、消え去った小さな命に対する誠実さとなるだろう。

「あの、お婆さん……」

「やだね、それだと年寄りっぽいよ。ばぁばと呼んでよ」

「ばぁば……」

 これまでキクはばぁばに話しかける際、呼称を使わずに、あの、すいません、といった言葉で済ませていた。初めてキクは、ばぁばと目の前にいる相手を呼んだのだった。

「ありがとうございます。アグレイのことを知ったおかげで、私にも勇気が出てきました」

 キクの黒い瞳に小さな光が生まれたのをばぁばは見た。それは、まだ彼女の片鱗のはずだ。アグレイが目にした光はもっと輝いていたのだろう。

 ばぁばは役割を終えたのを悟った。年寄りの出番はここまでだ。これ以降は、若者の気概に期待する他ない。そして、これほど楽しいこともあるまいと老境の身に思うのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る