第6話 戸惑うアグレイ

 フリッツは相手の心の機微を感じとることについてはわずかの自信があったが、そんな彼でなくとも、その日のアグレイが非常に機嫌を損ねていたことは察しがついただろう。

 二人は昼休みをある公園で過ごしていた。遊具など一つも置かれていない些細な敷地で、一見すればただの広場だが、数台の長椅子と中央に配置されたささやかな噴水が区別の材料に貢献している。

 噴水は水を天に突き上げるという役目を忘れ、無個性な彫像と化していた。ここは、アグレイとフリッツが幼少の頃に出会った思い出深い公園でもある。

 噴水の縁に二人は座っている。その膝には安物の弁当が居心地よさそうに鎮座していた。

「フリッツ、ちょっと聞いてくれよ……」

 そうして、アグレイの心情の吐露は始まった。話は、その日の朝に遡る。

「よう、キク」

 意図的に明るくアグレイは朝の挨拶を放った。

「おはよう……」

 キクは洗濯物を抱えて、目線を合わさずに返答する。キクの声音は、はぐれ孤児院を切り盛りしていたときと異なり、活力を欠いてアグレイまで届かずに消え入りそうな儚さだ。

 アグレイはキクを励ます言葉を選ぶのに苦労していたが、拙い散文的な文章しか思いつかないので意を決すると、単語の並びより熱意で語りかけることにした。

「キク、少しは元気出せよ。お前が元気な姿に戻らないと、レビンだって悲しむだろうよ」

 どうやら熱意が逆に作用したようで、キクは色を失って洗濯物を床に落とした。相手を傷つけたことを自覚したが、理由は分からずアグレイも動転する。

「何やってんだい、アグレイ!」

 アグレイがその身を竦めたのは怒声によってではなく後頭部に受けた衝撃のせいだった。

「痛ッ。何すんだよ、ばぁば?」

「それはこっちが聞きたいよ。いたずらに女を悲しませるものじゃないのにさ」

「そんなつもりはねえよ。ちょっとキクを元気づけようとしただけだ」

「それで、このありさまってわけかい? だから、あんたは朴念仁なんだよ。ほら、言うことがないなら仕事に行っといで」

 今朝、そうしてばぁばに叩き出されたのだと、アグレイは不平を鳴らしていたのだった。

 フリッツの見方では、彼の粗雑な言動に原因があるように思えてならないのだが。

「俺はレビンと約束したんだ。キクを勇気づけるってよ。でも、肝心のその方法が分からねえ」

「お前の気持ちは分かったがよ。大事なのは彼女の気持ちさ。心の整理がついていないところを横槍入れられたら、かえって迷惑なだけだぜ。例え、お前が励ましのつもりでもな」

「そんなもんかよ」

「そのキクって娘が立ち直るには、時間が必要だろうよ。もしくは、何かのきっかけかな」

「時間か、きっかけ? じゃあ、俺は何をすりゃいいんだよ」

「無理にどうこうしようと思わないこった」

 その消極的な提案を承服しがたいアグレイは、憤りを内包させた瞳に相棒を映した。琥珀の円のなかで、フリッツがにやけ面に微妙な感情を浮かべている。アグレイの怒気は、現状を打開する能力を有しない己に端を発していた。

 アグレイは、肉体的にも精神的にも強かった。彼は、それを得るために余人の知らない苦痛を伴ったはずだ。

 だが、とフリッツは思わずにいられない。アグレイは、『強さ』というものが万能であると信じている。筋力や意志の強靭さだけでは克服できない問題や、アグレイの強さを持たない他者にとってそれが刃と化すことを、この男は知らんのだ。

 強さを強要されることが、ときには暴力へと変ずることも、視野の外にあるのだろう。

「俺は、レビンとの約束を……!」

「それは聞いた。お前にできるのは待つことだけだ。役割が回ってきたときに頑張ればいい」

 フリッツがそれで話題を締めくくり、昼食を終えて巡回に戻る。まだアグレイは不服そうな表情を貼りつけているが、特に反論も思いつかないのか黙り込んだままだった。

 今日も二人は危険区域に指定されている北部地区を見回っている。はぐれ孤児院が侵蝕されて以降は目立った界面活性も発生せず小康状態だったが、この日は例外であった。

 統括府に帰ろうとしたアグレイとフリッツの前に、いきなり界面活性が出現した。小規模ながら喰禍が空間の波紋からその姿を顕現させる。

「夕飯前の軽い運動だ。喰禍ども、相手してやる!」

「大丈夫かよ、アグレイ……。今回は岩魔だけじゃないぞ?」

「だからって応援を呼んでる余裕はないだろうよ」

 フリッツが危惧しているのは、警備隊にも犠牲を生み出している強敵の喰禍がいるためだ。

 九体の岩魔が円を作るように布陣し、円陣の中央に一体の喰禍が立っている。岩魔の倍もある身体は赤銅色の鋼のような体表だ。胴長で脚部が短く、それに反して腕は長い。その腕は球体を幾つも繋ぎ合わせた形状をしており、指まで球状の連係でできている。半球形の頭部の前方には鋭利な角が生えていた。

 駆逐型喰禍〈煉鎧れんが〉は、警備隊でも恐れられる存在だった。煉鎧が腕を一振りすると周囲の岩魔が前進を開始する。

「来やがれッ!」

 アグレイが右手を目前に掲げた途端、波動が弾け青白い燐光がその手に宿る。

 青い残像が帯となって最前列の岩魔に届き、破砕音が響いて一挙に三体の岩魔が吹き飛ばされた。空中に身を置きながら塵へと帰る岩魔を尻目に、アグレイはさらに突進する。

 その無防備なアグレイの背に棍棒を叩きつけようとした岩魔が両手を振りかぶった。それを振り下ろすかに見えたが、ふと腕に線が走って滑り落ち、自らの頭に鈍器を打ちつけた。岩魔の身体が四散し、背後にいたフリッツが岩魔の腕を切断した剣を構え直す。

「はい、残念」

 煉鎧が粒子となって死にゆく同胞を蹴散らし、強敵と認識したアグレイに肉迫する。

「仲間がいなくて心細いかよ」

 挑発に乗ったわけではないだろうが、煉鎧が右手の一撃を放ってきた。それは直撃すれば骨折どころか死にも繋がりかねない強打だった。だが、アグレイは冷静に拳を頭上にやり過ごす。

 いつもならば避けざまに相手の懐に踏みこむところだが、間合いが広すぎるため簡単には実行できなかった。何より返しの左が速く、横殴りの打撃からアグレイは遠ざかった。

 退いた敵を追って煉鎧が前進する。それがアグレイの誘いだった。煉鎧が踏み出すと同時にアグレイも地を蹴る。煉鎧が両手を組み、一つの巨鎚と化した拳がアグレイに振り下ろされた。

 路面を粉砕し、土塊を噴き上げた強烈な一撃だった。だが、アグレイは身を屈めつつ疾駆し煉鎧の拳をすり抜け、伸ばされた両腕の間から顔を覗かせる。

 疾走の勢いを乗せたアグレイの右拳を胸板に叩き込まれ、煉鎧は地面に背中を打ちつけた。そのまま石造りの表面を削りながら滑走、慣性が止まるとゆっくり立ち上がる。

岩魔とは違って、一発で倒すことはできない相手だ。アグレイは自ら敵の射程内に踏み入る。煉鎧は衰えを感じさせず矢継ぎ早に拳を繰り出すが、拳はアグレイに当たらない。

「おいおい甘いな。もう終わらすぜ。何たって、夕飯が身を焦がして俺を待ってんだからな」

 自分が放った軽口の夕飯という言葉で、アグレイはある食卓を連想する。卓上には料理が並び、ばぁばとキクが座っている。キクの表情は曇っていた。この街の、空のように。

 俺は、あの顔を晴らすこともできねえのか?

 一瞬だが反射的にアグレイの目線が沈んだ。戦いにあっては致命的な隙だった。

「しまッ……」

 悔恨は途中で押し潰され苦悶に変わる。咄嗟に腹部を防御したが、重い衝撃は内臓を苦痛にのた打ち回らせた。

「アグレイ!」

 フリッツが焦燥の叫びを上げる。彼も残った二体の岩魔と交戦中で援護に手が回らない。

「ちィ……!」

煉鎧は好機と見たのか攻勢を強める。一時的な呼吸困難に陥ったアグレイが、唇の端から涎の泡を吹きながら、それでも敵と拳を交差させた。

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