第5話 悲しみのなか
その朝キクが目覚めると、そこは見慣れた天井ではなく見知らぬそれだった。
身を起こすと、やはりどこか他人行儀の表情を見せる部屋が広がっているだけだった。数秒間の沈黙を経て、ようやくキクはこの部屋に泊まることとなった経緯を思い出す。
それは同時に、はぐれ孤児院の惨事をも脳内に呼び覚ますことでもあった。癒えきらない心の生傷から血がじくじくと滲み出すのをキクは感じた。どうか夢であってほしいとの願望は、どうやら叶わなかったらしい。
疼痛をそのままに、改めてキクは室内を見渡す。調度品は最低限のものだけ揃えられていて、余分な家具は無い。寝台は一組あり、キクが横たわっているものの隣に別の寝台があった。机には写真立てがあり、仲のよさそうな五人の家族が映っていた。
キクは寝台から起き出して居間に通じる扉を開ける。朝も早いのに、すでにばぁばが朝食の準備をしていた。物音に気づいてばぁばが背後に目をやって、キクの目線と合わさる。
「おや、おはよう。よく眠れたかい?」
「あ、はい。おかげさまで……」
「ご飯はすぐだからね。顔でも洗ってらっしゃい。洗面所は、廊下に出てすぐ左にあるから」
キクは言われた通り洗面所に向かう。鏡に映った自分の顔を見て、ひどい顔だとキクは思った。顔を洗えと言われるのも納得だ。目は充血し目蓋は腫れている。
昨日泣き過ぎたのが原因だろうが、頬に涙の跡があるのは就寝中に我知らず泣いていたのかもしれない。
これを人に見られたのかと思うと情けない。流水で顔を洗って羞恥を排水溝に流すと、ようやく見るに耐えうる程度にはなった。
居間に戻るとアグレイも起きていた。洗面所が空くのを待っていたようだ。そこでキクと擦れ違うとき短い挨拶が交わされる。
「よう」
「おはよう」
アグレイが廊下に消えると、ばぁばが食卓に着くよう促した。卓上には三膳の食事が並んでいる。キクが昨日と同じ席に座って、ばぁばも椅子に腰かけた。
少しの間を置いてアグレイが食卓に加わってから、ようやく食事が始まる。だが、キクとばぁばが半分も朝食を味わわないうちに、アグレイはその全てを胃の腑に収めていた。
「ごちそうさん」
そう言い残してアグレイは自室に入り、わずかな時間を経過させると、統括府に向かう身支度を済ませたアグレイが出てきた。キクの傍らに寄ってアグレイが口を開いた。
「今日、統括府でレビンを預けた同僚から、その後のことを聞いてくるからよ」
アグレイが出勤し、残った二人が食事を終えると、ばぁばが後片づけを始める。
「あ、私がやります」
「いいのよ。あなたは座ってて」
率先して手伝おうと申し出るキクをばぁばはやんわりと謝した。ばぁばの見たところ、キクは心理面においてその根幹にも影響するような傷を負っている。精神が弱っているときに無理して肉体を使わせることもあるまい、そう判じたのである。
「でも、泊めてもらって何もしないというのも、私も気が咎めますし……」
「そうだねえ。身体を動かしている方が気も紛れるかもしれないね。じゃあ、掃除でもしてもらおうかねえ。恥ずかしながら、この老体じゃ掃除が行き届かない場所もあってね」
「はい。任せて下さい」
そう言ってキクは清掃用具を借りて掃除にとりかかる。
そのときになって、自分が仕事場に行くのを忘れていたことにキクは思い当たった。彼女が自分の身体を酷使してまで仕事をしていたのは、子ども達に不自由をさせないためだった。
その孤児達がキクの前から消え去ってしまった今となっては、キクが労働環境の悪い仕事場に赴く理由は皆無である。
キクは雑巾を絞って水気を抜くと、一心に掃除を始めた。
「よお、アグレイ」
「ああ、早いな、フリッツ」
挨拶を交わすと、アグレイは他にも言いたいことがあるらしいが、口に出す機会を計っているようだった。
アグレイより遥かに忖度の利くフリッツは、それを察して先に相手が問いたいだろう話題を舌に乗せて放った。
「そうだ。レビンとかいう、あの子が気になるよな。安心しな。レビンは、あの後ちゃんと孤児院に届けたぜ。少し無理言ったがな、『小鳩の集う泉』に入らせた」
「お前……。よく、そんなとこにねじ込めたな」
統括府に近く治安が保証されている孤児院である『小鳩の集う泉』は、コバト院という通称で有名だった。孤児を手厚く保護するという統括府の体面もあって、高水準の設備を整える孤児院として優遇されている。レビンはフリッツの職権乱用で入園できたようだ。
常ならば他人の公私混同や職務を超えた強権の使用を看過しないアグレイだったものの、このときばかりはフリッツに感謝した。
「レビンをお前に任せて正解だったかな。ありがとよ」
それまでにやけ面だったフリッツが、急にしかつめらしく言った。
「昨日の界面活性を報告しないとな。お前から聞いた話じゃ、局所的に強力なものだったらしいが、ずいぶん珍しいぜ。報告書を書くのも苦労しそうだ」
報告書の文言を練り始めたフリッツを横目に、アグレイはある疑問に思考を巡らせる。
昨日の侵蝕のとき、後ろ姿だけを見せたあの正体不明の男は、言い知れぬ威圧感を伴ってアグレイの脳裡に刻み込まれていた。
レビンがあの男を見かけた際も、界面活性が発生している。いずれにしろ完蝕された人間だろうが、不気味な存在であることは疑いない。
一見ぼんやりしているだけの二人の周囲には、時間が経つに連れ人影が増えてきていた。
「ただいまー」
「おや、お帰り」
アグレイ帰宅し、居間に入った彼がまず見出したのは若い女性の姿だった。
「お……?」
「お帰り、なさい……」
アグレイと目が合うとキクは言った。黒曜石と琥珀が互いを映し合ったのは一瞬だけで、伏し目がちにキクは調理場にいるばぁばの方に去った。
年頃の女性に迎えられるという慣れない経験に、彼は戸惑ったように立ち尽くしていた。
「何してんのさ。夕飯だよ」
「ん。分かってるよ」
ばぁばに呼ばれるまで気の抜けた面を晒していたと思うと情けなく、アグレイは不機嫌に応じる。だが、反抗は気分と声帯だけに止まり、その足は忠犬のように食卓に向かう。
ばぁばが料理を盛りつけ、キクが皿を無言で運ぶ。アグレイはただ座っているだけで、幾つもの料理の浮島がその前に並べられた。
「そうだ。キク、レビンのことなんだが」
やや唐突にアグレイが言った。キクが期待を含んだ視線をアグレイに送る。
「レビンは、コバト院という上等な孤児院に入ったそうだ。俺の信用する同僚が言ったことだから、確かだぜ。あそこなら、レビンもとりあえず不自由はないだろうよ」
「そう。よかった」
キクは食事を口に運ぶのを止めて、机上を見つめる。実際に黒い瞳に宿っているのは、木製の家具の表面でなく、朗らかな少年の笑顔だろう。
「統括府に近い場所だ。案内するから、そのうちレビンに会いに行くといい」
「あなたには、世話をかけっぱなしで……」
キクはしおらしく首を垂れていたが、アグレイは失意のような感情を両の瞳に閃かせた。それがキクの本来の性格を反映するものではなかったことが誘因だったかもしれない。
アグレイには初対面時のキクの印象が強く残されており、孤児達の世話を生きがいとし、その邪魔をする者には抗戦も辞さない強い意志を秘めた女性というのが、それであった。
気性が激しく勝気な姿こそアグレイが思うキクである。生気に溢れた感情の発露が、彼にキクへの興味を感じさせる要因だったのだ。
だが、目の前にいるキクは静けさを携えているばかりである。キクに対する心象と現在の姿との齟齬に違和感を禁じえない。
ばぁばの眼差しが探るような光を放っていたのを、アグレイが意に留めることはなかった。
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