第4話 キク、アグレイの家へ

 レビンはアグレイからはぐれ孤児院の惨状を聞かされると、その衝撃を隠せなかった。つぶらな双眸を見開いて、紅の口唇を悲しみが震わせる。涙が幾筋も頬を湿らせたが、気丈にも我を忘れて泣き叫ぶことはしなかった。

 レビンの生存を知って喜んだものの、キクは憔悴しきっていた。日々の肉体的な疲労に、極端な精神的疲労が加えられ、泣き疲れた現在は放心状態に近くなっている。

 キクを休ませておき、アグレイとレビンは離れて話し合っていた。

「じゃあ、もうみんなと会えないんだね……」

「そうだな。だけど、お前だけでも生きているというのは、幸運なことなんだぜ」

 伏し目がちになるレビンを鼓舞するようにアグレイは少年の肩を叩く。

「そのうち分かるよ。それとな、もう少し嫌な話を続けなきゃならない」

 レビンは紺碧の瞳にありったけの勇気を込めて、目でその先を促した。

「はぐれ孤児院が無くなったんだから仕方がない。お前は、これから普通の孤児院に行くんだ。そして、キクお姉ちゃんとは離れなきゃならない」

 案外レビンに動揺の色は少ない。これ以上凶事があると聞いて、おおよその予想はしていたのかもしれない。

「安心しろ。お前は侵蝕していないからな、入居に問題はないさ。孤児院だって悪いところじゃないし、お前も気にいるはず……、どうした?」

「キクお姉ちゃんはどうなるの?」

「……レビン」

 アグレイは眼前の少年に畏敬の念を禁じ得ない。この期に及んで自分ではなく、キクの身を案じているのだ。できるだけの真摯さによって、アグレイはレビンに報いようとする。

「彼女のことは、俺が責任持って面倒看るからよ。そのことは心配しないでくれ」

「あんなに悲しそうなキクお姉ちゃん見るの、初めてだよ。僕よりもアグレイの方が、お姉ちゃんを勇気づけてあげられると思う。アグレイ、キクお姉ちゃんをよろしくね」

 アグレイは思わずレビンを抱きしめ、本心から出た尊敬の言葉を口にする。

「レビン、お前は強いんだな。……俺なんかより、よっぽど」

 その率直な賛辞にレビンは、どのような顔をしてよいか迷っているようだった。


 アグレイは近くにいた警備隊員に至急の言伝を頼み、その急報を聞いたフリッツが駆けつけてきたのは、宵の口になってからだった。

「こんな時間に呼んですまないな」

「貸しの返済の一環だからな。気にすんな」

 フリッツは、それが唯一の表情である半笑いを今も浮かべているが、肩が上下しているのを見ると、かなり急いでここに向かってきてくれたようだ。それをおくびにも出さない配慮が、アグレイがこの男を嫌いになれない理由の一つでもあった。

「それで、何の用だ? あまり楽しい内容じゃなさそうだが」

「それが、な」

 アグレイは手短に、レビンと会った日にはぐれ孤児院の存在を知ってから、今日の界面活性による孤児達の犠牲までの経緯を説明した。

「なるほどな。お前が最近悩んでいたのは、それだったか」

「お前には、レビンを孤児院に届けてほしいんだ」

「それだけでいいのか? いいぜ。職権乱用で上等なとこに入れてやるよ。……な?」

 フリッツの笑みが向けられると、レビンも会釈とともに曖昧に微笑んだ。

「彼女は、どうすんだ? 年齢は厳しいけど無理言えば、一緒に入れられるだろ」

「いや、キクは孤児院には入れないんだ」

 それだけで、フリッツはキクの身体が侵蝕されていると洞察した。

「キクは俺が何とかするって、レビンにも約束した」

 珍しくそれ以上無駄口を叩かずに、フリッツがレビンを誘う。少年が横に並ぶと背を向けて、足早にその場を去ろうとした。アグレイは普段の粗野な彼に似合わず逡巡を示してからフリッツの後ろ姿に声をかけた。

「あのよ、フリッツ。お前に関係ないなんて偉そうなこと言っちまったが、俺はやっぱりお前の手を借りないと駄目みたいだ。すまない」

 フリッツは足を止めて首を曲げて面貌の半分だけをアグレイに覗かせた。

「わざわざ呼び止めて、そんなことかよ。気にすんな、としか言えないな」

「悪い、な……」

 フリッツはアグレイの視野に笑みの残像を灼きつけ、レビンを促すと相棒の依頼を達するためにこの場を立ち去った。

 アグレイは通りから二人の姿が消えるとキクに向き直った。彼女は、アグレイら二人のやりとりを遠目にしても、我関せずというように呆けた視線をどこにともなく注いでいる。

「レビンは、あいつに任せよう。ああ見えて、役に立つ男だ」

「私、もうどこにも行くところが無いわ……」

「それは、俺が探すってレビンとの約束だ」

 アグレイが手を貸してキクを立たせる。キクは、自発的に立とうともしなかったが、アグレイに急き立てられると抵抗もせずに腰を上げた。

 アグレイは後ろを見てキクがついてくるのを確認し、思考に没頭し始める。キクが居住できる場所を探さなくてはならない。

 イフリヤ市内に宿泊施設は全く存在しない。観光名所であったサクラノ公園が健在だった当時とは違い、侵蝕後はイフリヤを来訪する者もいないので自然と廃れていったのだ。

 だが、数年のうちに幾度かは何らかの事情があって外部から人が訪れることもある。その際に、宿屋代わりの機能を果たすのが統括府だった。統括府には職員のための仮眠室が設けられており、それとは別の客室が二部屋備えられている。

 本来の役割を除いては、客室はほとんどフリッツを代表とする不良職員の午睡の場と化してはいたが、そこをキクに利用させるという手段もある。

 アグレイは探るような目をキクに投げ、溜息を吐いた。この状態にあるキクを一人で、それも統括府に置いていけるわけがない。

「やっぱり、俺の家しかないか……」

 アグレイの自宅は部屋が余っているし、何よりばぁばの存在が大きい。ばぁばならば身体的な世話だけでなく、心的な領域での介助も期待できると思われた。

「キク、俺の家に来てくれ」

 アグレイに他意はなかったため、さりげない口調だったが、いきなり男にそう言われて怯まない女性はいないだろう。キクは足を止め、警戒するようにアグレイを見やった。

「いや、変な気はないぞ!? ばぁばがな、じゃなくって俺の祖母もいるからよ、安心してくれ。十何年も使ってない余分な部屋があるから、そこ貸してやろうと思って……」

 随分な部屋を貸されるものだとキクは思ったがそれは置いておき、アグレイの慌て振りを見れば、疚しい気持ちはないとの判断を下すのは難しくない。

 キクが歩を進めてアグレイを追い抜いた。そのまま歩き去られると思ったのか、アグレイが引き止めようと手を伸ばす。それがキクに届く寸前、キクは自ら振り向いた。

「何してるの。あなたの家に私を置いてくれるんでしょう? 早く案内してよ」

 その声には疲労が重苦しく沈殿していたが、元の勝気な少女の片鱗を垣間見せていた。アグレイは、おう、と息のような返事を漏らし、先に立ってキクを自宅に導いた。

 しばしの時間が過ぎて、二人は集団住宅にあるアグレイの私宅に到着した。解錠したアグレイが扉を開き、先に上がるようキクに勧める。

「……お邪魔、します」

 キクを伴って廊下を歩き、いつも通りアグレイはばぁばに帰宅の旨を告げた。

「ただいまー」

「はいよ、お帰り。今日は遅かったねえ」

調理で背を向けているばぁばが、孫の隣に並んでいる若い女に気づくまでは間があった。見知らぬ女性がその場にいたことで、ばぁばが目蓋を上げて瞠目する。

「あれ、あんたその娘は?」

「ばぁば、いきなりだけど事情があって、こいつをこれから住まわせたいんだ。いいよな?」

 ばぁばは驚愕したが最初の心理的衝撃から立ち直ると、ばぁばが普段は気品に溢れた瞳を、はしたないとの誹りを免れない好奇の色で満たした。

「やだねえ、あんた。私がちょっと言ったからって、こんなに早く相手を見つけなくてもいいのに。でも、可愛い娘さんじゃないの」

「あの、ばぁば、そうじゃなくて……」

「あ、そうだ。アグレイ、私これから友人の家に行って、今晩は帰れないからね」

「いや、そういう妙な気を使わなくていいんだよ」

 外出しようとするばぁばの襟首を掴んで阻止する。

「いいか、俺とキクはばぁばが思ってるような関係じゃないし、キクをここに住まわせるのも文句は言わせない。分かったか、ばぁば?」

「文句は言ってないけどね」

「……そうだけど」

 ばぁばの掌で転がされるアグレイを余所に、キクは真摯な面持ちでばぁばに挨拶する。

「私はキクという名です。身寄りがなくて、アグレイさんのご厚意で立ち寄らせて頂きましたが、もしお邪魔であれば……」

「邪魔なんてことはないのよ、お嬢さん。不肖の孫の唐変木が、若い女の子の役に立つのなら、この老いぼれには嬉しいことだわ」

「じゃあ、ここにいさせてもらっても……?」

「ええ、いいのよ。むしろ歓迎するわ。アグレイのしかめ面だけだと、目に飽きがきてね」

 ばぁばに言われ放題され、しかも女二人で平和的合意に達したことで立つ瀬を失ったアグレイが、悔し紛れに呻いた。

「私は料理を温め直すから、ほら、あんたは寝床の用意をしてきな」

 アグレイが自室の隣の元は両親の部屋に入った。平常は穏やかなばぁばだが、今日は会話に毒が多かったのは意外な訪問者に気を弾ませていたからだということに、彼は気づいていない。アグレイが居間を去ると、ばぁばはキクを席に着かせておいて調理場に向かう。

ばぁばが料理に火をかけつつ、背中越しに声をかけた。

「キク、私はね、あなたの素性もここに来た理由も問わないけれど、一つだけ聞いておきたいことがあるのよ」

「はい、何でしょう」

「まあ、アグレイは見ての通り単細胞だけど、無責任な子じゃないからね。考えなしに女を家に連れてくるほどバカじゃない、はずなのよ。だから、アグレイがあなたをここに連れてきたのは警備隊としてなのか、友人としてなのか、それとも他の間柄としてなのか、一応確かめておきたいんだよねえ」

 ばぁばの疑問はもっともだとキクは思う。だが、キクは答えに窮するように黙り込んだ。強いてばぁばも急かさない。やっとキクが口を開いた。

「私には、分かりません」

 キクの唇を零れて出たのは、簡潔な言葉だった。

「でも、恐らくは警備隊としての義務だろうと思います。彼の方から、友人になる機会を作ってくれたのに、私は信用しきれずに彼の差し伸べてくれた手を振り払うだけでした」

「……そう」

 その後、室内には容器を火が熱する音だけが響いていた。机上に視線を落としていたキクが不意に目を上げる。いつの間にか音が止み、食欲をそそる芳香が漂っていた。ばぁばが湯気を立てている鍋を持って、笑顔を見せる。

「さあ、夕飯だよ」

 その匂いに釣られたようにアグレイも扉から姿を見せる。黙って席に座り、待て、と命令された犬のような眼差しを料理に注ぎながら、それが誇りであるかのように言った。

「キク、ばぁばの料理は美味いんだぜ」


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