第3話 キクの孤児院

 アグレイは、その廃墟に足を踏み入れた。以前キクと一戦交えた大通りに近い場所だ。一本横道に逸れると、住宅にしては広い平屋の建物がある。『マルセル診療所』と書かれた錆びついた看板を尻目に、アグレイは玄関を開いた。

  扉は乾いた響きで来訪を告げる。室内には気配があったが、その音を聞いて静まり返っていた。こちらの様子を窺うような沈黙の後、物陰から少年が遠慮がちに尋ねてくる。

「誰? キクお姉ちゃん?」

「よお。久しぶりだな」

 姿を現したのはレビンだった。怪訝そうな顔つきでアグレイに近づく。

「……アグレイ? どうしてここにいるの?」

「まあ、安心しろ。別にお前らを誘拐しようとか、変な気はないさ。ただ、お前らが住んでいる環境がどの程度のものか、一度確認しておきたいんだ」

「仕事で来てるの?」

「いや。俺個人が知っておきたいことだからだ」

 レビンは幼いながらも、アグレイの真意を計るように首を傾げる。レビンの思考の天秤が肯定に傾いたことは、少年の笑みによって示された。

「うん。いいよ」

 許しを得たことでアグレイは安堵した。レビンに続いて玄関から広間に入ると、そこは元が受付だったらしく、待合室と受付との仕切りがあった。壁際には椅子が積まれている。

「キク……お姉ちゃんは、今は留守か?」

「うん。仕事はお休みだけど、買い物に行ってるよ。もうすぐ帰ってくると思うけどね」

 アグレイが頷いていると、部屋に面した幾つかの扉のうちで、最も奥にある扉が半分だけ開き、少女の声を放った。

「レビン、大丈夫なの?」

「ああ、出てきても大丈夫だよ」

 奥の一室から何人もの子どもの姿が吐き出された。見知らぬ男を注意深く観察する視線が痛いが、アグレイが眉をしかめたのは、その全員に侵蝕の症状が認められたためだった。

「この人は、僕を界面活性から助けてくれた人だよ。悪い人じゃないから安心して」

「あー、俺はアグレイだ。よろしく」

 ぶっきらぼうに言ったアグレイに対し、子ども達の向ける目に胡乱な色が乗っている。

「でも、お姉ちゃんに教えなくていいの?」

「心配はいらない。俺はレビンとは友達だからな」

 子ども達はまだ釈然としないようだが、レビンが心を許すなら大丈夫だと判じたらしく、各自散っていく。アグレイはどこかに行きかけたレビンの首根っこを掴んで引き寄せた。

「痛いなあ、友達に何すんのさ」

「悪いな。お前に聞きたいことがあったんだよ」

「ん? キクお姉ちゃんのこと?」

「まあ、それもあるが……。ここには何人で暮らしているんだ」

「キクお姉ちゃんを入れて八人だよ。僕より年上は三人だけね」

「じゃあ、キクお姉ちゃんが一人で他の子どもを養っているのか?」

 やや後ろめたそうにレビンが首肯する。その様子から察するに、キクは子ども達の生計を立てるのに相当苦労しているようだ。

はぐれ孤児院のレビンを含める子ども達は、服装は貧相であっても、健康や衛生状態に問題があるようには見えない。子ども達の健康管理に配慮が行き届いているが、キクの負担は尋常ではないだろう。

 キクに限界がくれば、この孤児院は存続不可能だという結論を出さざるを得ない。

アグレイの難題は、その判断からどのような行動を導き出していけばよいか、ということだ。

最良の判断はないかと、あまり回転の速くない頭を悩ませているとレビンがおずおずと問いかけてきた。

「この前アグレイがキクお姉ちゃんと会ったとき、お姉ちゃん怒らなかった?」

 キクは徹底してレビンの前では冷たい表情を見せなかったが、帰ってからキクの不穏な雰囲気を感じたのかもしれない。鋭い感性を持つ少年だとアグレイは舌を巻いた。

「まあ、そうだな。怖い顔はされた」

「やっぱり……。あの日、帰って来た後のお姉ちゃん、様子が変だったんだ。『ちょっとやり過ぎたかな』とか言って、不安そうな顔してた」

 それは意外だった。まさか心配してくれるとは、アグレイに向けていた視線の冷やかさからは想像がつかない。やはり頭に血が昇りやすい性格なのだろうか。

「気にするな。少し口論になっただけだ。あの姉ちゃんも気が強くてよ、そりゃもうおっかない顔をされて、この俺も背筋が冷えたがな」

「それで、その『おっかない顔』が見たくて、ここまで来たってわけ?」

 そう言ったのはレビンではない。背後で放たれた女の声は、アグレイの背を直角に伸ばさせるほどの迫力あった。彼は頸骨が錆びついたかのように、ゆっくりと首を曲げる。

 そこにいたのは、キクだった。

「あ、キクお姉ちゃん、お帰りー」

「はいはいレビン、ただいま。夕食の材料を買ってきたのよ。……それより、何であなたがここにいるの。この前言ったこと、もう忘れちゃった?」

 レビンに向けていた眼差しをアグレイに据えると、キクの瞳は冷淡な色を帯びる。

 ただし、今回は微温の熱が残されていた。子ども達の手前、温もりを捨てきれないのと、レビンの口に上った、先日のアグレイへの仕打ちが酷過ぎたという後悔があったせいだろう。

「待て、今日俺は非番なんだ。レビンの友達として、ここを訪ねただけだ」

「ふぅん?」

「この場所は、俺しか知らない。警備隊の仲間にも言っていない。今日は話をしに来ただけだ」

 キクは、面前の男が信用に値する人物か吟味するように押し黙る。レビンは両者に視線を右往左往させていたが、沈黙に耐えられずに助け船を出した。

「アグレイは、いい人だと思うけど」

「……分かった。そうね。話くらいなら聞くわ。荷物を置いてくるから待ってて」

 キクが別室に消えるとアグレイはそれとなく周囲に目をやった。壁の下方は落書きで埋まっており、その上の方には子ども達の描いた絵が飾られている。風景や友人、キクらしき女性が描かれているその絵のどれもが、背景が一様に灰色であった。

 キクが部屋に戻ってきた。

「それで、話って何なの?」

「ここじゃ、ちょっとな。外で話そう。すぐに済むからよ」

「あれ、もう帰っちゃうの?」

「ああ。用事はこれで……、おっと忘れるとこだった。お前のおかげで思い出した」

 そう言ってアグレイは懐に手を入れる。その手が再び出されると、小さな箱を握っていた。

「ここに来る手土産のつもりで買ったんだが、つい出しそびれていたな。色鉛筆だ。こんなに人数がいるとは思わなかったんで一つしか用意していないが、仲良く使ってくれよ」

「わー。新品だ。凄―い」

 レビンの感嘆を聞いて、それまで遠巻きに眺めているだけだった子どもも集まってきた。

「これ色が多いなー」

「使うのがもったいないよー」

 アグレイが見たところでは、みんなちびた鉛筆を大事に使っていた。子ども達の喜びようを確かめ、悩んだ末の無難な選択だったが間違いではなかった、とアグレイも安心する。

「ほら、みんな。お礼を言うのを忘れてるんじゃないの?」

 キクが促すと、小さな太陽かと思わせる笑顔が一斉にアグレイを向いた。

「ありがとうございまーす!」

「……ああ。礼なんていいんだ、うん。くれぐれも仲良くな」

 アグレイが照れて灰色の頭髪に手をやる。別れを告げてキクを伴って部屋を出た。玄関口で出し抜けにキクが口を開く。

「あれで私が気を許すわけじゃないからね」

「分かってる。別にそれが目的でもないしな。だが、色鉛筆であんなに喜ばれるとは、さすがに思わなかったな」

「……なかなか買って上げられないのよ。服とか玩具は、捨ててあるのを拾ってきてるの」

 アグレイは返す言葉を見つけられなかった。無言のまま外に出て、孤児院として利用している診療所から離れると、アグレイから話を切り出した。

「もう俺は、許可がどうだと面倒なことは言わない。ただ、この場所からはぐれ孤児院自体で移るべきだ。近くで界面活性が頻発しているのは知っているか? ここは危険なんだ」

「でも、これ以上人気の多い地域だと、他人にはぐれ孤児院だって露見しちゃうじゃない。そしたら、あの子達は一生隔離されて生きないといけないのよ。元も子もなくなるわ」

「この辺に住人はいないから、警備隊はほとんど巡回に来ない。俺にだって持ち場があるからな、仕事中は所定の地域を出られないんだ。あんたは昼から晩まで仕事して、一体誰があいつらを守ってやれるんだ?」

「それは……」

返事に窮するキクがお座なりに反論しようとし、アグレイは片手を挙げてそれを制した。

「いいんだ。今すぐ決めろと言っているんじゃない。それと、レビンだけは普通の孤児院に入れてやった方がいい。一人減るだけで、あんたの負担もかなり軽減されるはずだ」

「あの子、私がいないと寂しがるもの……」

「本当か? 寂しいのはレビンじゃなくて、あんたじゃないのか?」

 キクは自信が揺らいでいたことで落としていた目線を上げ、アグレイのそれに合わせた。

「何て言うかな。子ども達があんたを必要としているんじゃなくて、あんたが子ども達を必要としているんじゃないか。頼られることで生きがいを見つけているから、自分を頼ってくれる相手がいないと不安なんだ。あんたの頑なな態度を見てると、そう思っちまう」

「私が、自分のためにあの子達の世話をしているって言うの……?」

「あんたが子ども達のために必死なのは分かる。だけど、はぐれ孤児院の規制とか界面活性だとか、あんたがどう頑張っても変えられない状況もあるんだ。だったら、あんたが状況に合わせるってことも必要だろう」

 キクは、胸中の混沌とした感情から言葉を汲み出せないようだった。論駁できずに目を伏している。何だかフリッツに説教された論調に似ていると我ながら思いつつ、アグレイが踵を返しながら言い置いた。

「話はこれだけだ。手間とらせたな。俺の言ったこと、少しでも考えておいてくれ」

 アグレイの放った声が宙を移ろってキクに届いたとき、アグレイはすでに背を向けていた。


「お? 何だアグレイ。今日も早いじゃないか。ここ数日、仕事終わりに鍛錬も無しとは、お前らしくないな。ひょっとして、これでもできたか?」

 巡回を終えてから手早く身支度を整えて帰ろうとしたアグレイを捕まえたのは、統括府の一階で無駄話に興じていたフリッツだった。小指を立てて下世話なことを半笑いで言ってのける。長いつき合いでなかったら、まともに相手もできまいとアグレイは思った。

「うるさいぞ、フリッツ。お前には関係のねえこった」

 にべもなくフリッツの横を通り過ぎ、出口に向かうアグレイを声が追ってくる。

「それならいいがよ。本当に関係ないんだろうな?」

フリッツは言外に含みを持たせていた。まだ、警備隊が介入しなければならない段階ではないのだな、と。

 アグレイは振り返りもせずに、片手を振って返答の代わりとする。

 アグレイはここ数日、仕事を終えると真っ先にはぐれ孤児院に向かうことを常としていた。だが、孤児院に入りはしない。はぐれ孤児院の付近に身を潜め、異変がないか監視している。夜になってキクが帰ってくると、ようやく自身も帰途に就くのであった。

 界面活性が起これば直ちに孤児達を救助するためだったが、今までそれを実行する事態は発生していない。キクもこのことは知っておらず、アグレイの独断によるものだった。いつまで続けられるか分からないものの、そうしなければアグレイの気が収まらなかった。

「まったく。何で俺がこんなことまで……」

 自分で決めたくせにボヤキを吐くが、一日も欠かさず孤児院を見張る生真面目さを有する、奇特な男だった。

 時の頃合いは夕刻であったがイフリヤに夕焼けは存在しない。ただ西の空に浮かぶ雲の一角が、彼方にある太陽を浴びて茜色を滲ませるだけである。

 通い慣れた寂れた横丁に入ろうとしたとき、アグレイと同じ道に向かう姿が側にあった。勤務の後で疲労していたのと、余人はいないとの思い込みでアグレイは気づくのが遅れた。しかも、それが見知った顔だったことで、喉から押し出された空気が声帯を震わせる。

「あ……」

「え……」

 ほぼ同時に相手、キクもか細い声を漏らした。その反応から察するに、キクも今になって気がついたようだった。

「キク? お前が何でいるんだ?」

「あ、アグレイ? いや、私は帰り道なんだけど……。あなたの方こそどうして?」

 慌てて弁解しようにも口下手なアグレイは咄嗟に言葉が出てこない。

「え、あの、そっちこそ、何でいつもより帰りが早いんだ……?」

「何ですって?」

「しまッ……」

簡単に言質をとられ、アグレイは悄然とうなだれる。説明を求めるキクの尖った視線を受けて、アグレイは無断で孤児院を監視していた旨を打ち明けた。

「……そうだったの」

「悪かったな。黙っていた方が面倒は少ないと思ったんだ」

「まあ、いいわ。あの子達を心配してくれたんだから。気に入らないけどね」

 心配の対象にキクも入れてあったアグレイは余計なことを口にせず、次の言葉を待った。

「実は、私もずっとあなたに言われたことを考えていたのよ。レビンのことは置いておくとしても、孤児院は移動するべきじゃないかって。あの子達の安全を第一にしたら、その方がいいわよね。でも、手頃な隠れ処が見つからないのよ」

「そうか。何なら、俺が警備隊の巡回の隙間で人通りの少ない場所を調べておこう」

「そうしてくれれば助かるけど」

 両者は和解の道を歩みつつあった。しかし、そんなときに限って凶事は訪れる。それとも、状況に好悪は存在せず、人間の都合によって幸運とも凶事とも呼称を変えるだけかもしれないが。どちらにしろ、この瞬間発生した界面活性を、二人は幸運と捉えなかった。

「これって!?」

「界面活性だ! 逃げるぞ!」

 たちまちにして空間が揺らめくのを前にして、キクは狼狽するだけだった。アグレイは慣れたもので、左手でキクの手を引き、すでに右手は強化を示す青い燐光を宿している。

 行く手を遮る界面活性を右手で払拭しつつ、アグレイは孤児院へとひた走る。手を引かれるキクは自然と後ろを走ることになった。二人は大通りに出ると四方に視線を送った。

 界面活性は広い範囲を覆っていたものの、その密度は薄かった。所々で空間が歪曲しているが、物体が原形を保っていられる軽度のものだ。侵蝕には至らず自然消滅するだろう。

 そのなかで一ヶ所だけ界面活性の顕著な場所が目についた。それが孤児院の方角であることに気づいた途端、血相を変えたキクがアグレイの手を振り解いて一人で疾走していく。

「あ、待てッ。……?」

 アグレイが叫んだときには、キクは孤児院に続く横道に姿を消していた。彼女を追おうとしたアグレイが一歩を踏み出しかけたときだった。視野の端に、その男が映ったのは。

 長身の男の衣服は薄汚れ、黒の長髪が腰までを包んでいる。後ろ姿を一瞬だけ晒し、男は界面活性に紛れて去っていった。

 アグレイの脳裡で、完蝕された男について語るレビンの声が再生される。男の特徴はそれに合致していた。本能的に追跡しようとするが、キクを放っておくこともできない。

 わずかな間で判断を下し、アグレイは孤児院に向かった。どうせ、あの男はただの完蝕だ。後日にどうとでもなる。そう自分に言い聞かせ後顧の憂いを断ち切った。アグレイの脚力ならば数分もかからない。診療所の看板を目印に、アグレイはその敷地に入った。

 アグレイがそこで見出したのは、局所的に強力な界面活性に飲みこまれ異形へと変貌した孤児院と、それを前に呆然と立ち尽くしているキクだった。

 すでにこの世界の一部、キクにとっては世界全体にも等しい価値を有するはぐれ孤児院を蹂躙し尽くし、役目を遂げた界面活性は足早にこの場を去ったようだった。その痕跡として残されたのが、青銅色に変色し奇妙な形に捻じれた建造物だけである。そして、その内部に数名の子どもが潜んでいたはずだった。

 それまで身動ぎしなかったキクが、覚束ない足どりで孤児院だったものに近づいていく。

「おい、キク?」

「……マックス。テオ。フラニー。フィリス。レビン……」

 アグレイはその様を見守っていたが、キクが変質した孤児院に手を触れようとすると、焦燥を露わにしてキクを羽交い絞めにして引き止めた。

「止めろ! 完全に侵蝕されているんだぞ。触ったらどうなるか知れたもんじゃない!」

「だって、あの子達がまだなかにいるのよ……。助けなきゃ……」

「無理だ! 諦めろ!!」

 故意に事実を隠さない直接的な表現を用いて、アグレイはキクの未練を断とうとする。それが効いたのか、単に女性の筋力ではアグレイに抗し得なかっただけか、アグレイは彼女の意思に反してその身を孤児院から引きずり離すことができた。

 キクを刺激しないように、孤児院が視界に映らない場所まで連れていく。さっきの大通りに出ると、界面活性が全て消えているのを確かめ、アグレイはキクの拘束を解いた。

 だが、せっかく自由の身になってもキクは身体を動かすだけの気力が無かった。アグレイの手が離れると同時に、キクが糸を切られた操り人形のように腰を地面に落とす。

 キクの双眸に透明な液体が溢れ、頬を滴ったそれは顎から無垢な雫となって落下する。いつの間にか忍び寄っていた夜気で冷えた路面に、幾つもの濡れた花弁を咲かせたが、止め処なく湧き出る涙は小さな露の花を次々と塗り潰し、いつしか大輪の花を描いていた。

 嗚咽も上げずにキクは泣いていた。本来なら迸るはずの号泣の声は、大き過ぎる喪失感の空虚な穴に落ち込んでいくのだろうか。焦点の定まらない瞳が、この世のものでなく、もはや過去の住人となった孤児達との日常を夢見ているかのように儚い。

「くそ……。こんなことが……」

 アグレイは彼女を慰めてやるべきだろうが、キクの悲哀を軽減できる言葉をアグレイは知らず、安易な同情は憚られた。それに、アグレイも悲嘆と無関係であったわけではない。

 先日、孤児院を訪れた際、贈り物をくれたアグレイに向けた子ども達の笑顔。太陽かと見紛うほど輝いていたそれらは、虚無の地平に命の灯を沈めてしまったのだ。

 長い交友を持ったわけではないが、自分に懐いていたレビンに対し、亡き弟の面影を重ねていたアグレイの心痛もキクに劣るものではなかった。

「まただ……。俺は強くなっても、結局誰も守れないのかよ……?」

 アグレイは己の掌を額に押しつけた。もう何も考えたくないというかのように。

 両者の絶望を静謐という音響がしばし彩っていたが、第三者の声がそれに亀裂を生んだ。

「キクお姉ちゃん……? アグレイも。どうしたのさ、二人して?」

 その呼びかけに反応できたのはアグレイだけだった。どうやら自失しているキクの耳朶には届いていないらしい。

「レ、ビン?」

「うん。何そんな怖い顔してんの?」

 不思議そうに小首を傾げているのは、死んだと思われたレビンだった。

アグレイは目を擦り、次いで跪いてレビンの肩に両手を当て、それが幻影ではないことを確かめると、血液に安堵が混じって全身を巡るのを感じた。

「お前、今までどこにいたんだ?」

「この前貰った色鉛筆さ、みんなで順番に使うことにしたんだ。今日は僕が使っていい番で、絵を描きに行ってたんだ。ちょっと遠出したから、怒られるかなと思ったんだけど」

 レビンは丸めた紙と、色鉛筆の小箱を握っていた。それを見た瞬間、アグレイが脱力し、その手がレビンの肩から滑り落ちる。

「どうしたのアグレイ、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ。……俺より、キクお姉ちゃんのとこ行ってやれ」

 そう言われてレビンがキクに目を移し、そこでキクの異常に気がついたようだ。

「キクお姉ちゃん!? どうしたの。どこか痛いの?」

 レビンが眼前に立つと、さすがにキクも潤んだ瞳を少年に向けた。だが、霞がかった思考では、それが誰か認識できていないようでもある。

「何で泣いてるの? 怪我してない? キクお姉ちゃん」

「あ、あ、レビン……?」

「うん、レビンだよ」

「あ、レビン。……レビンなのね!?」

 キクの目に意識の光が戻った。レビンをかき抱いて豊かな金髪に半面を預ける。

「キクお姉ちゃん、痛い……。それに……うぅー」

 常とは違ってキクの方から抱きつかれ、レビンは困惑する。横顔にアグレイの視線を感じると、幼い年齢に似合わず頬を赤くした。

 キクはレビンの苦言に耳を貸さずに、大粒の涙を流しながら、無心になって慟哭を大通りに響き渡らせる。人形が生気を得て人間に帰ったかのように、アグレイには思われた。

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