第2話 アグレイという男
翌日、アグレイが統括府に出勤すると、そこには日常の風景が広がっていた。
統括府は、正式名称を侵蝕地帯行政統括府という。イフリヤの街全体を囲む塀と一体化して築造された建物だ。
イフリヤの外周をなぞるように造られた塀の高さは三メートルほどだが、一ヶ所だけ抜きん出て高い壁が遠方からでも確認できる。それが統括府だ。
俯瞰すると、統括府は半分だけイフリヤに、もう半分は壁の外に突き出している。その外壁に塀が繋がる部分が、ちょうど統括府の中間ということだ。
統括府に勤務している大半はイフリヤの住民で、長官などの一部の管理職のみが外から出向してきている。
アグレイは三階の警備課に向かった。
幾つかの部所がすでに忙しく立ち働いているのを廊下で横目にし、警備課が設けられている部屋に入った。机が置かれて書類が山積しているのは、どこも代わり映えしない。
「よお、アグレイ」
「ああ」
朝っぱらから何が楽しいのか、にやけながらフリッツが手を挙げるのに、アグレイは顎を下げるだけで済ませた。格別機嫌が良いのでなく、それが素なのだと知っていれば気にならない。
「ほい。これ」
フリッツが何やら書類を見せようとするのを、アグレイは眉をしかめて拒んだ。
「俺に報告があるなら、書面じゃなくて口で言ってくれ」
フリッツは手中の紙片を丸めて屑籠に放った。
「おうよ。仰せのままに。昨日の界面活性が理由で巡回の経路が変わったみたいだ。もう俺が覚えたから、お前はついてくりゃいい」
「そんなことか。やることに変わりはないんだろ」
それから二人は統括府を出て、連れ立って当番の地域を巡回していた。
北部地区は、イフリヤで初めて界面活性が出現し、侵蝕が確認された地帯である。一二年前のその日、サクラノ公園には祝日とあって多くの行楽客が訪れており、サクラノ公園を中心に発生した界面活性は、恐慌に陥った民衆を悉く飲みこんでいった。
侵蝕は、局所的ながら気候を捻じ曲げるほどに強力なものであった。その日を境に、イフリヤ周辺は雨も降らず晴れもしない曇天が、現在まで続いてきた。そして、これからも曇り続ける、停滞した日々の連続だ。
「今日も、曇りだな」
例によってアグレイが言ったのを、無視することなくフリッツが反応する。
「アグレイ、お前また言ってるが、何の天気なら満足なんだ?」
「……あ?」
「晴れでも雨でも、お前は同じことを言うんじゃないか? 空はよ、お前がどんだけ愚痴を並べても、変わらないんだよ。だったら、お前の方が慣れるしかないんじゃないか」
フリッツのくせに利いた風なこと言いやがると思ったが、咄嗟に反論のしようもなかった。
「そう……だな」
アグレイは不承ながらも頷いた。
「だけど、いつの日か、この空が晴れてくれるんじゃないかって……思ってよ。俺達のやっていることは無駄じゃない。界面活性を封じ込めて、喰禍を倒してりゃ、そのうち……あのときの青空が、いきなり顔を出すんじゃないかと願っちまうんだ……」
アグレイ達の仕事は対処療法的なものだ。界面活性や喰禍が出現した際に、それらを撃退して被害を最小限に抑える。侵蝕された世界を直しもできず、後手に回るだけで決して抜本的な解決には繋がらない。
先の見えない戦いは、警備隊の隊員を着実に疲弊させていく。警備隊の退職時期は大まかに三期に分けられる、というのは警備隊での有名な軽口だ。
第一期は着任して三日以内、初仕事での殉職。それを生き延びて三ヶ月、油断が原因で死亡するのが第二期。最後の第三期は、三年目に完蝕され、気違いと罵倒されながら同僚に殺される。
笑えない冗談だった。
「フリッツ。俺達が初めて会ってから、結構経ったよな。その間、俺達はずっと同じことを繰り返してきた。それで、何が変わったよ? どうせこのまま戦い続けるなら、漠然とした理由より、もっと確かな……何かのために戦いてえ」
「どうした? お前にしちゃ気弱だな。昨日、何かあったのか?」
アグレイの頭に浮かんだのは、先日出会ったキクという女の姿だった。キクは、レビン達のために日々戦っている。その単純にして強固な意志は、戦うための動機が定まっているからではないか、とアグレイは思っていた。
長年を共にした相棒に告げるのは気恥ずかしく、アグレイは話題を変えた。
「……そうだった、昨日レビンが言っていたんだが……」
「レビン?」
フリッツが聞き返す。下手なアグレイの誘導に誤魔化されたのではなく、余計な詮索を控えたのだろう。同年ながら、フリッツの方がそういった気配りは格段に上手い。
「ああ、昨日助けた坊主だよ。俺が送った」
「あの子か。それで何だって?」
「レビンが、ここに迷い込んだ原因だ。怪しい人物を見て追いかけたんだそうだ。長髪の男で粗末な衣装を着ていたらしい。そんな身なりでこの辺をうろつくようなのと言えば……」
「完蝕された人物ということだな。報告はしたのか」
完蝕を確認すれば統括府に報告するのが義務だった。いつ他人に危害を加えるかもしれない完蝕の状態は、喰禍と同じ扱いである。
「いや、できれば俺の目でも確かめたい」
アグレイは首を横に振って言った。レビンを疑うわけではないが、目撃証言だけで報告するのもアグレイには憚られた。
「発見と同時に倒せば、俺の作る書類も一枚で済むな」
「ま、そうか。完蝕なんぞ毎日増えているんだから、急ぐこともない」
二人は口を閉じたが、すぐ沈黙に飽きたフリッツが無駄口を叩き始めた。
「とっておきの話があってだな。実は——」
「待てッ。あれは?」
アグレイがフリッツの話を遮って耳を澄ますと、遠方から叫び声が届く。
「界面活性を確認した!! 近くの警備隊は至急応援を求むゥー!」
その内容を認識すると、まず足が動いてからアグレイは相棒に呼びかける。
「お前は案山子かよ、フリッツ! 早く行くぞッ!」
「いや、お前の反射神経と比べるなよ。ま、行くけどよ……」
界面活性を抑えた後、巡回を終えてアグレイとフリッツは統括府に戻っていた。いつも通り作業を分担し、フリッツは書類作成、実戦で活躍したアグレイは現在鍛錬に勤しんでいた。
統括府には、警備隊の鍛錬や職員が気軽に運動するために鍛錬場が設けられていた。統括府の本部から通路を隔てた別館に設置され、広い室内には器具や円形の走路が備えられている。
他の警備隊員も汗を流しているなかで、アグレイは一人離れた場所で黙々と腹筋運動をしていた。その修練に没頭する姿は、他人を寄せつけない雰囲気を放っている。
「よお。まだやってやがんのか?」
「……七二四。あ? フリッツか。報告書は提出したのかよ? 七二五」
アグレイは腹筋を止めずに応じた。壁にもたれているフリッツを素気なく見上げている。
「まあな。お前こそ、まだ筋肉虐めは続けるのか。俺は一杯引っかけるが。お前はどうするよ?」
「悪いが……、七三二。まだ物足りねえ。俺は残るから、七三三、勝手にやってくれ」
フリッツの半笑いが気になって、ようやくアグレイは動きを中断した。
「何だよ」
「いやな、よくそんな修業みたいな真似ができると思ってよ。ひょっとしてキモチイイのか?」
「お前こそ、日常的に鍛えないで大事なときに役立たずだから、給料泥棒って呼ばれるんだよ」
「生憎な。今月はまだ二回しか言われてないんだよ」
鼻を鳴らしてアグレイが腹筋を再開すると、フリッツも壁から背を離して出口に向かった。だが、途中で足を止めてアグレイに向き直る。
「言っとくがアグレイ、無理はするなよ。怪我してるみたいだしな。今日の戦闘、左手を使ってなかったろ?」
フリッツは返事を待たずに、そのまま出ていった。
反論する機会を失ったアグレイは、見えなくなったフリッツの背に凝然と目を注ぐ。
フリッツは、昨日の喰禍との戦闘でアグレイが負傷していないのを知っていた。アグレイの異常に気づいていながら、その原因に言及しなかったのは、面倒は自分で片づけろと暗黙のうちに語っていたのかもしれない。
問題が大きくなれば、フリッツだけでなく警備隊が介入する事態になる。そうなれば、少なくともアグレイの望まない結末になるはずだった。
その想像を働かせるだけの知恵がフリッツには備わっている。そのことは、長年の交友を持つアグレイには分かっていた。
「はぁーあ……」
アグレイは溜息を吐いて寝そべった。
痛む左肩を押さえてしばし黙考し、相棒の忠告に従うことにした。それでも筋肉をほぐす柔軟体操を怠らず、それを終えてから鍛錬場の門を出た。
「ただいまー」
アグレイは寄り道せずに、集団住宅の一室である自宅に帰った。扉を開けると、室内には照明が点っていて、人がいる気配のある奥から静かな声が返される。
「おや、お帰り」
短い廊下を歩くと、そこは調理場と一体化した居間になっている。アグレイが左側を見ると、調理場でかいがいしく料理をしている老婆の背があった。
「ばぁば、飯はー?」
「んー? もうすぐだからね。ちょっと待ってなさい」
アグレイは祖母に促されると、素直に食卓の席に座って頬杖をついた。料理は未完成でも、その匂いはアグレイの鼻孔に届いている。待ち遠しそうに作業を眺めるアグレイに、ばぁばが肩越しに問いかけた。
「アグレイ、今日はどうだったの?」
「ああ、いつも通りだったよ。界面活性を封じて、鍛錬もしてきた」
「そうかい。偉いね」
ばぁばは、料理を皿に盛りつけ食卓に歩み寄る。
若い頃は多くの男を魅了して止まなかったであろう気品ある面影は、白に染まった巻き毛に包まれて穏やかな容貌を成している。黒い瞳が暖かくアグレイを映していた。
どれだけ空腹であっても、ばぁばが料理を並べている間にアグレイは手を出さない。ばぁばが席に着き先に口をつけてから、アグレイも食べ始める。子どもの頃からの習慣だ。
ま、これも嗜みだな。そう思いながら、口中に溢れる涎を水で流して忍ぶのだった。
ただ、一旦食べるとアグレイの食欲は簡単に止まらない。盛られた食事の大半はアグレイの胃の腑に収まることになる。
「もっと落ち着いて食べたらどうだい? 私は、あんたの分まで盗らないよ」
「うん? ああ」
料理を口一杯に頬張ったアグレイを見て、ばぁばが苦笑を混ぜて言った。アグレイはおざなりな返事をしたものの、嚥下するのが間に合わない速さで、また食物を口に詰め込んでいく。
幼少から直らない孫の癖に、ばぁばは笑みの形に目を細めて話題を変えた。
「最近は、魚も活きのいいのが店にも並んでなくてね。あんたの好きな刺身は、そうそう食べさせて上げられないねえ」
「別にいいさ。ばぁばの料理は何でも美味いしな」
とても味わっているようには見えない食事の作法で、アグレイが料理の味を褒める。
「煮魚も俺は好きだ。そんなことに気を使う必要は無いぜ、ばぁば。あ、それとな。北部地区で大きい界面活性が発生して、立ち入り禁止に指定された区画が増えたんだ。もしかしたら、ここら辺も界面活性が出るかもしれないから気をつけてくれ」
「そう……。この街も狭くなってきたねえ」
ばぁばは、その容姿を愁色に染めた。
イフリヤ市内は徐々に侵蝕が広がっており、現在ではすでに三割ほどまで侵蝕が進んでいた。そこでは常に界面活性によって空間の歪曲が認められ、喰禍が闊歩する地帯となっている。
「ばぁば、買い物や用事で外出することがあるだろうけど、できるだけ家の近辺で済ませるようにしてくれよ」
「でも、この辺では新鮮な食材が揃わなくて。やっぱり目抜き通りに近い方が、いいものが買えるんだよね」
「何言ってんだよ。ばぁばに何かあったら、俺はどうすりゃいいんだ?」
「そう言ってくれるのは、有り難いけど……。街のために働いてるあんたに、もっと美味しいものを食べさせたくてね」
「だから、気にするなって。俺は、ばぁばがいてくれりゃ満足なんだ」
「できれば、そういうことは好きな女に向かって言って欲しいけどねえ……」
途端にアグレイが不機嫌にそっぽを向いた。口中で咀嚼したものを喉に流し込んで、ぶっきらぼうに呟く。
「その話はいいだろ。俺は今の生活に不満は無いんだ。女なんか関係ない。そりゃ、ばぁばは曾孫の顔を見たいだろうが……」
「そうじゃなくてね。あんたは毎日身を削って戦っているんだから、心を休められる相手がいれば幸いだと思うんだよ。あんたは、限られた自分の時間を鍛錬と仕事に費やしてくれている。それで私や他の人間は救われるけど……、あんた自身はどうなるんだい? あんたは皆を守るために傷ついて、その後で何が残るのさ?」
「だから、ばぁばがいるだろ」
「こんな老い先短い年寄りを当てにされても、困るんだよ。あんたが一人になったときを思うと、見てられない」
「莫迦言うな、ばぁば。もう大切なモノは失わないと決めて、これまで自分を鍛えてきたんだ。そのために俺は、強くなった。ばぁばにそんなこと言われたら、俺はどうすりゃいいってんだ」
ばぁばはアグレイの怒気を軽く往なして、ゆっくりと説く。
「あのね、アグレイ。私は、あんたが自分の安らぎを求めてもいいんじゃないかと、言ってるんだよ。戦い続けて自分の身体を痛めていくだけなら、あんたが報われない」
「……別に、そんなつもりはねえよ。それよりばぁばこそ、喰禍との戦いで俺が明日死ぬかもしれない、ということを覚えていてくれよな」
「あんたこそ、莫迦を言いでないよ。年を食った者の方が先に死んでくのが、普通なんだからさ。孫を無残に死なせて、私が生き延びていたら、それこそ笑われてしまうよ」
「わ、分かってるよ、ばぁば……。ただ、そういう可能性があるって……、言っただけだ」
ばぁばの剣幕に気圧されて、アグレイの勢いが弱まった。口を開くのは反論を目的とするのではなく、眼前の料理を口に含めるためであった。
口内を物理的に満たして誤魔化すアグレイを、ばぁばは顎を下げて上目使いに見やる。相手が無言で白旗を振るのを感じると、語調を和らげて締めくくった。
「まあ、私も今すぐと言っているんじゃないんだ。アグレイが、頭の片隅にでも留めて置いてくれれば、それでいいんだよ」
「……ああ」
感情の炎が鎮火したアグレイは、ばぁばの意見に素直に頷いた。それから当たり障りのない二言三言を交わし、アグレイが料理の残りを胃に収めて、遁辞を卓上に放つ。
「美味かったぜ、ばぁば。じゃ、俺は部屋で休むから。……ごちそうさん」
逃げるようにアグレイが自室へ去っていく。居間に接した二つの扉の片方にアグレイが背を消すと、ばぁばは苦笑して後片づけを始めた。
アグレイとばぁばの住居の間取りは、玄関を入ると廊下があって居間に続いており、部屋は三室ある。廊下に面した部屋と、居間から通じている二部屋だ。二人暮らしの割に間取りは広く、使わずに余っている部屋もあった。
それも当然で、元々は五人暮らしだったのだ。
「……」
ばぁばは静かに居間で時を過ごす。やがて、廊下に面した寝室に向かうため居間の明かりを落とすと、その場は本当に暗い闇に満たされた。
アグレイが八歳のときだった。
その日、父親の休みに合わせて家族で行楽していたアグレイは、サクラノ公園にいた。イフリヤで一番広く、名前の通り桜の美しさが有名な公園だ。この公園を目的にして遠方から客が訪れるほど、桜の名所として名高い観光地である。
小高い丘に設けられたサクラノ公園は、中央にある大きな池を縁取るように桜が据えられ、沿道にも並木が植えられている。
桜が満開になる季節だと、地面は散った花弁で、上空は咲き誇った桜で、一面は薄紅色に染められる。折よく、その時季だった。
雲霞のように咲き乱れる桜から零れる花びらを浴びながら、アグレイは弟のアルジーと戯れていた。大人達は、林立する桜の隙間に敷布を広げて寛ぎながら桜花に見惚れ、子どもは草原を駆け回っている。
「お兄ちゃん待ってよー」
「アルジー、あっちに行ってみようぜ」
アグレイは二歳下の弟を振り向いた。母親譲りの細面と黒髪が、将来の美丈夫の片鱗を宿している。父親似で精悍な面をしているアグレイとは対照的だ。
「でも、僕達だけで遠くに行っちゃいけないって……」
「大丈夫だって。何かあったら兄ちゃんが守ってやるよ」
「だけど、お母さんの言うことは守らなきゃ……」
「いいから行くぞ!」
アグレイは勝手に走っていく。アルジーは、兄の背中と後方に幾度か視線をおろおろと往復させると、意を決したようにアグレイを追いかけた。
二人は池の畔に来ると水面を覗き込む。風が吹くのに合わせて波立つ表面には、数え切れないほどの花弁が浮いていた。空の色を映す地上の蒼穹に、桜の彩りが雲のように漂っている。
「魚っているのかな?」
「そりゃいるよ、お兄ちゃん。釣りしてる人がいるんだからさー」
「分かってるよ! ちょっと言ってみただけだ!」
意地になって怒る兄の横で、アルジーが頭を抱える。短気な兄には普段から喧嘩で勝ったことがない。気の優しいアルジーは争いが苦手でもあった。
「ごめんー、お兄ちゃん。ぶたないでー」
アルジーの頭にアグレイの手が置かれた。
「へッ、嘘だよー。アルジー、騙されてんの」
「うぅー、ひどいよ兄ちゃん……」
「こらー、アグレイ。アルジーを虐めたら駄目だろう」
声をかけてきたのは父親だった。慌ててアグレイが手を放す。
「お、お父さん? 虐めてなんかないよ。遊んでただけだもん。な、アルジー?」
父は、短い灰色の頭髪の下で表情を綻ばす。細まった目の奥に、琥珀の光が温かい。
「そうか? それならいいんだ。母さんが、お前達の姿が見えなくて心配してるぞ。そら、速く戻ろうぜ! 昼飯の弁当がお前らと、ついでに俺のことも待っているんだ」
父は右手でアグレイを、左手でアルジーを引いていく。消防士をしているだけあって大きくて逞しい父の掌に、アグレイの手はすっぽりと収まっていた。
元の場所に戻ると、母親が一人で座って待っていた。自宅からは遠いので、ばぁばは留守番をしている。帰ってきた息子達を見つけると、母がその整った容姿を怒りに染めた。
「まったくあんた達は、勝手に遠くに行っちゃって! 心配するでしょう? 今日は人が多いんだから、迷子になったらどうするの?」
「まあ、そう言うなよソフィー。たまにしか連れて来てやれないだ。はしゃいでも仕方がないだろう?」
「はしゃぐのと、親の言いつけを守らないのは別です! 大体こうなるのも、あなたが甘やかすからよ。分かってるの?」
「よし、お前ら母さんにちゃんと謝るんだ」
妻の剣幕に圧されて寝返った父に非難が集中する。
「うわ、お父さん弱い。男のゆうじょーはどこいったのさ」
「こういうのをキョーサイカっていうんだよー。だから出世できないんだー」
「うるせえ、お前ら。アルジーに関しては恐妻家なんて言葉をどこで覚えてきやがったんだ」
「近所の人がみんな言ってるよー?」
「ちきしょう!」
「うっさいのよ、あんた達はッ! いいから謝りなさい!!」
三人の男は背筋を伸ばして、それを直角に折り曲げる。放った言葉は異口同音であった。
「「はい、すいませんでした」」
なぜか謝罪だけが上達している男どもは、母親の気を損ねないよう静かに敷布へ腰を下ろす。神妙に座る三人の前で、母は持参してきた弁当を広げていた。四人分にしては多い弁当は、早起きしたばぁばと母の力作だった。
「ほら、あんた達、これが楽しみだったんでしょう。私とお母様が腕によりをかけて作ったんだから、残すんじゃないよ」
「はーい。頂きまーす!」
母が笑顔を見せると、子ども達はようやく緊張を弛緩させて、弁当に食らいつく。
「ほら、アグレイ、ゆっくり食べないと喉に詰まるわよ。アルジーは好き嫌いしないの。あなたは子どもの分まで食べないように、少しは遠慮しなさいよ」
母の采配を無視して、男達は好きなように料理を口に運んでいる。日頃の苦労が垣間見えるが、母もさして気にした様子はなく、周囲の桜に目を馳せていた。
「子どもの頃から何度も見ているけど、ここの桜は本当に綺麗ね。遠慮なさらずに、お母様も一緒にいらっしゃればよかったのに……」
「別に遠慮はしてないだろう。お袋の足じゃ、ここは遠いからな。ま、久しぶりに親子だけで来ているんだ。土産話を持って帰れば、お袋も喜ぶさ。それに、お袋がいれば、お前も気を使うだろう。たまには羽目を外せるいい機会だよ。……ほら」
父はそう言って、妻の持つ酒杯に小麦色の液体を注ぎ足した。
「ありがとう、ランディ」
夫の顔に似合わない気配りに、妻は礼を言って微笑んだ。
イフリヤ最大の商店街、ミツバ通りで一番の小町と称されたソフィーの心を射止めたのが、ランディであった。喫茶店で働く彼女の軽やかな姿態と、動きに合わせてなびく黒の長髪、線の細い美貌は、それを目当てに来店する客を集めていた。
そのソフィーを妻にしたことで、婚約当時ランディは妬みの視線を背に受けたことも多い。
まさかソフィーが、消防士として訓練を積んだ屈強な男を相手に引けをとらないほど勝気な女だったとは、不覚にもランディは尻に敷かれるまで気づかなかった。ランディに嫉妬を覚えていた男どもも、よもや想像していまい。
「それにしても、今年は一段と桜が綺麗ね。こういうの、狂い咲きっていうのかしら?」
「確かに、いつもと雰囲気が違うな。桜で視界が煙って、人の姿まで見えないなんて。全部の風景が桜で埋まるほどだ」
それまで食事に熱中していたアグレイが、夫婦の会話に興味を持って問いかける。
「そんなに、凄いの?」
息子の疑問に、母が呆れたように吐息を漏らす。
「あんただって去年も来たでしょう、覚えてないの?」
「アグレイは飯に夢中になってて、花のことなんか覚えてないんだろ?」
「ちぇー」
両親の言葉にアグレイは不貞腐れる。料理を口に運ぶ作業に戻ってアグレイが沈黙すると、代わってアルジーが口を開いた。
「本当に綺麗だよねー。桜が一杯で。……ずっと、こうだったらいいのになー」
両親が目を細める先で、アルジーは無心に桜木を見上げていた。その瞳は桜で満たされている。黒瞳を桜の奔流が埋め尽くし、惚けたように視線を虚空に縫い止めていた。
それまで食事に没頭していたアグレイが、不意に周辺を見渡す。
「どうしたの、アグレイ?」
「桜が……、揺れてるみたい」
それを聞いた父がアルジーに倣って視界を上に向ける。
「お、本当に揺れているな」
かなり酒が入っていて顔を赤らめている父が同意し、母が嘆息した。
「あなたは酔っているからでしょう。もう、あまり飲みすぎないで、よ……?」
顔を上げながら注意する母の声は語尾が掠れていた。
桜が揺らめいている。いや、正確には空間が歪曲して、それに桜が巻き込まれたため、ねじ曲がって目に見えるのだ。このとき、初めてイフリヤで界面活性が発生したのだった。
界面活性が知識として頭にあっても、実際に目の当たりにするのは、アグレイ一家を含めたイフリヤ市民は初の体験だった。両親も驚愕に戦くだけで、双眸を見開いたまま動くことができない。
「助けて!」
「一体どうなって……ぐ!?」
周辺から悲鳴が上がり始めると、さすがに消防士である父の表情も引き締まった。酔いを吹き飛ばして身体に緊張を纏い、片膝立ちになって状況を把握しようと努める。
「皆さん、慌てないで下さい! 落ち着いて! ……まさか、これが界面活性なのか?」
時間にしたら数秒だったろう。その短い間が、界面活性においては命とりとなる。
アグレイの瞳に、これまで見たこともない光景が映っていた。
桜の花弁が、枝が、幹が全て輪郭を失い溶け合わさって、混沌とした色彩がアグレイに迫ってくる。一部も全体も無い、桜そのもの。空も陸も区別がつかず、一体化した世界がアグレイの眼前に突きつけられる。
それが何か理解できない。その原初的な恐怖は、見えざる手となってアグレイの身を包んだ。衝動が、アグレイの足に訴えかける。
「ひゃあああぁぁぁぁぁあああ!?」
弁当を放り出してアグレイは逃げ出した。家族のことを失念して後ろを振り返らずに、ひたすら走った後で、ようやく家族のことを思い出すと足を止めて背後に目を向ける。アグレイの双眸が見開かれ、口唇の隙間からは呻きが漏れる。
「あ、あ……」
アルジーは母の両腕に抱かれまま泣いていた。アルジーが恐怖のあまり動けずに硬直していたのを助け起こそうとして、母まで逃げ遅れたようだ。それを救うために父はその場に残ったものの、二人と同様に抗しうる手段もなく界面活性の餌食となってしまった。
ただ一人、家族のことを顧みずに逃げたアグレイだけが助かっていた。
「あ……、お父さん。お母さ……ん」
「お兄ちゃーん!」
弟の声でアグレイは自失から戻った。家族に触れようとしたのか、手を突き出して進んだ。
「ご、ごめんよ……。アルジー……」
頼りない足どりで歩むアグレイの進みは遅い。数歩も足を運んだとき、両親はおろかアルジーも、輪郭を失った歪んだ姿しか残っていなかった。
アルジーが何か叫んでいるのだけが認められるが、その口から放たれる言葉は界面活性の外に出ることはなかった。
「君! 危ないぞ!」
この恐慌のなかで少年のために危険を冒したのだから、その人間はきっと善意の人だったのだろう。界面活性に向かうアグレイを後ろから抱えると、その場を急いで遠ざかる。
「待って。まだ、お父さんとお母さん、アルジーが……」
アグレイの視界で三人が徐々に小さくなっていき、遂に界面活性に溶けこんで見えなくなる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……」
アグレイはそれだけを呟いていた。やがて、アグレイの目は闇一色に染まっていった。
「……ごめんなさい」
意識を失ったのではない、眠りから覚めたのだと、夢の余韻が口を吐いてからアグレイは気づいた。彼は今、自分の部屋で寝台に横たわり、天井を見上げている。
暗い室内に窓はあっても、肝心の空が曇っていては採光の用を成さない。だが、昼では薄暗く、夜では薄明かりの天候は、完全な白日も暗夜も生み出さない。暗がりを和らげる淡い光が窓から差し、調度品の朧な影を浮かび上がらせていた。
アグレイは、暗闇のなかに失った何かを見ようとしているのか、暗闇そのものを見ているのか、凝然と双眸を見開いていた。
夢によって想起された家族を失った過去が、アグレイの胸中を自責や懊悩のない交ぜになった感情の坩堝とさせる。彼には、自分のせいで家族が界面活性の犠牲となったという罪悪の意識が強かった。
あのとき、自分が家族のことを頭の片隅にも留めず、恐怖に捕らわれたまま一人で逃げた行為は、恥ずべきものであったとアグレイは自身で思っている。
——お兄ちゃーん!
必死に助けを呼んでいた弟の声が、聴覚の幻影となって再生されると、アグレイは反射的に上体を起こした。震える手で顔を押さえると、口中で噛み潰しきれない嗚咽が漏れ出る。
「何が、兄ちゃんが守ってやる、だ」
身動きできなかったアルジーを庇って、両親は逃げ遅れたのだ。アグレイが逃げる際、わずかでも弟のことを慮って、アルジーの手を引いて逃げたなら状況も変わっていたかもしれない。
なぜ、あのときの俺は、アルジーを連れて逃げられなかったんだ?
これが、アグレイが幾度も自らに問うてきた懐疑だった。そして、答えは出ている。
「俺は、両親よりも、弟よりも、自分が助かりたかった、それだけだ……」
アグレイが顔を覆う両手、その指の隙間からアグレイが覗くと、横にはもう一台の寝台が置かれている。寝台は一対だった。ただ、片方は主を亡くして久しい寂莫を帯びていた。
生前にアルジーが使用していた家具は、そのまま残っている。かつて弟の生きていた痕跡だけが存在し、それがその死を忘れさせてくれない。アグレイの行為が風化しないための、刻印のようでもあった。
「俺は……、弱虫で、薄情で、卑怯者だ……」
アグレイは懺悔してからも姿勢を変えず、再び眠りに就こうとはしなかった。
家族がいなくなって以来、アグレイにとって眠りとは決して安息への入り口ではないのであった。
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