第1話 アグレイ、キクと出会う

 つい先ほど助け出した少年を連れて、アグレイは街中を歩いている。巡回していた場所と違い、この通りは通行人の姿が目立つ。道路も補修され、よく利用されているのだということが分かる。同じ街でも、随分と様子が変わっていた。

「まったく、面倒なことを押しつけられたもんだな」

 アグレイは、落ち着きなく辺りを駆け回る少年の首根っこを捕まえ、無理矢理引き戻して隣に並ばせる。

「うろちょろすんなよ、坊主」

「痛いなあ。子どもには優しくしなきゃいけないって、お姉ちゃんが言ってたよ」

 少年は機嫌を悪くしたように頭の後ろで両手を組んだ。侵蝕に襲われた恐怖から、今まで口数が少なかったのだが、アグレイが帰り道を送っているうちに元気をとり戻したようだ。屈託のない奔放な振る舞いが少年の本来の姿らしい。

 年相応の無邪気さを見せつけられては、如何に気難しいアグレイも、溜息に紛らわせて安堵の吐息を漏らさずにはいられなかった。素直に安心したのを表さないのが、この男らしい。

 フリッツは、統括府に残って報告書の作成をしている。それを仕上げて、今日の仕事は終いにするつもりなのだろう。余った勤務時間は、暇な人間を見つけて雑談で潰す腹積もりだ。子どもを家に届ける手間をアグレイに押しつけて。

 仕事で楽をすることにかけてはフリッツの右に出る者はいない。それ以外の点で、フリッツが他人の右に出ることもないのだが。

 少年の子守という不得手な役目を仰せつかったアグレイは、できるだけ早くその任を終えるために、少年を急かして歩みを進めていた。

「坊主、家はこの辺にあるのか?」

「うん、近くにね。それとさ、僕は坊主じゃなくって、レビンって立派な名前があるんだから、そう呼んで欲しいな」

 レビンが金髪に覆われた頭を傾げ、青空にも似た紺碧の瞳で見上げてくる。

青空か。この街、イフリヤに侵蝕が初めて起きたのは十二年前だ。レビンの外見は、十歳かそれに届くかどうかくらいである。つまりは、青空を見たことが無い世代だ。

 彼にとって空とは、視界一面に広がる灰色の壁でしかない。雲の向こうにあるはずの太陽や月は、絵本や大人の昔話でしか接しられず、レビンの想像力でも向こう側の存在だ。

 この子が自分の瞳の色を比喩するとき、一体何と表現するのだろう。

「分かったよ、レビン。だが、お前は何であそこにいたんだ? 北側の地区は侵蝕が進んでいて界面活性が多発しているから、一般人は立ち入り禁止になっているのを知らなかったか?」

「それが、迷子になっちゃってさ」

「お前な、そんなんで通用すると思ってんのか」

 言下に嘘だと断じられたレビンは心外だったのか、抗議するように両手を広げた。

「本当だよ。もちろん立ち入り禁止なのは知ってたけど、何だか不気味な人がいたからさ」

 アグレイが眉根を寄せる。当時、あの周辺にいたのはアグレイを含めて警備隊だけだったはずだ。不審人物の目撃情報もない。警備隊の一員ではと疑うアグレイは問いを発する。

「具体的に、どういう奴だったんだ?」

「えーとね。男の人っぽかったんだけどね、髪が長くてぼろぼろの服を着てたんだ。あんな危ない場所を一人で歩いているのも変だし。その……興味が湧いちゃって。ちょっと追いかけてみたんだ。そしたら、いつの間にか知らないところにいて、男の人もいなくなってた」

 警備隊は通常二人一組で行動する。界面活性を発見した際、一人はその対処をし、もう片方は周囲に異常を知らせたり応援を呼んだりするためだ。単独で行動していたとなれば同僚ではないだろう。人間の姿をした異常者にアグレイは心当たりがある。レビンが目にしたのがその存在であれば、無事に済んだのは僥倖だ。

「ま、危なそうなことには近づかないのが身のためだ。もしお前の身に何かあったら、親や姉貴が悲しむってことくらいは分かるだろ?」

「……? ううん。親はいないよ」

 思わずアグレイはレビンを見やったが、その先で少年の余りにもあっけらかんとした顔と出会い、わずかに戸惑った。

「僕は孤児院に住んでるんだ」

「……そうか。悪いこと言っちまったな」

 歯切れ悪くアグレイは声を押し出した。レビンの表情には何の痛痒も浮かんでおらず、さして気にしていないようだったが、迂闊であったと自省する。

 イフリヤに限らず、侵蝕地帯には親を失った孤児、いわゆる侵蝕孤児が数多く存在している。満足な暮らしを送る子どもの方が少ないのに、安易に言葉を発したとアグレイは後悔した。

 アグレイの悔悟は、幼いレビンにも伝わったようだ。心配をさせまいと努めて明るく言う。

「でもさ、キクお姉ちゃんがいるから寂しくないよ」

「キク……お姉ちゃん?」

「そう。僕達のお世話をしてくれている人。本当のお姉ちゃんじゃないけど、僕のお姉ちゃんだし、みんなのお姉ちゃんなんだ」

 レビンはその女性が誇らしいのか、胸を張って答えた。

「僕達には優しいんだけど、他の人が来ると怖い顔をするときがあるんだ。もし、お姉ちゃんが怖い顔をしても、嫌いにならないでね?」

 年齢に不相応な配慮を見せるレビン。アグレイは笑みまでとはいかずとも、心持ち頬を上げて柔らかさを表情に加えた。

「レビンの姉貴なら、俺も嫌いにはならないさ」

「うん、ありがと」

 気をよくしたレビンが話を続ける。

「そうだ。さっきの戦い見てたけど、強いんだね。喰禍をあんな簡単に倒す人なんて初めて見たよ。どうしたら、お兄ちゃんみたいに……」

「俺のことはアグレイと呼んでくれ」

 アグレイがレビンの声を遮った。一瞬だけアグレイの面上に浮かんだ苦痛、苦悶、自責の入り混じった複雑な感情は、レビンが目を向けたときには霞のように消え失せている。

 だが、子どもは意外と大人の反応に敏感だ。不自然なアグレイの挙動をレビンは察知していた。

「僕……何か変なこと言った?」

 恐る恐るアグレイの顔色を窺いながら尋ねた。

「……」

 アグレイは言葉を返さずに、レビンの頭に手を伸ばす。そして、豊かな金色の頭髪を思いっきりかき回した。

「うわ! ちょっと、止めてよ!」

 慌ててアグレイの掌から逃げ去るレビン。走ってアグレイの手の届かないところまで行くと、後ろ向きに歩きながらアグレイを見据えて手櫛で髪を整える。頬を膨らませて怒っていた。

「ひどいなぁ、急に何すんだよ」

「男は下らないことで怒らないのさ」

 これはレビンではなく、自分に向けたものだろう。レビンもそれは感じたようで、透明の手で胸を撫で下ろすように嘆息した。

 界面活性を退け、喰禍を軽々と倒すアグレイの能力は、侵蝕によって授けられたものだ。侵蝕は空間や物体だけでなく、生体すら変異させる。

 侵蝕が人体に及ぼす影響は甚大で、界面活性に身体の一部でも飲みこまれてしまえば、その部位は変質して尋常のものではなくなる。例を挙げれば、四肢が異形へと変形してしまったり、体色が変わったりするのだ。

 しかも、物体でも生物であっても一度変質すると、その箇所から徐々に変異が広がっていく。その症状は、まさに侵蝕と呼ぶに相応しい。 

 また、生物への影響は身体面のみではない。侵蝕の程度が深まれば、その精神にも異常を来す。人間であれば、理性の制御を失って暴走を始め、あたかも喰禍と化したかの如く他者に対して攻撃を加える。

 完全な侵蝕、完蝕かんしょくの状態になった者は喰禍と同様に扱われる。そのため侵蝕だけでなく、それに侵された人物までもが忌避されることになった。

 侵蝕を受けた者は一ヶ所に集められてその居住区も隔離された。世界中どこでも考えることは同じで、被侵蝕者が集う街は無数に築かれていた。このイフリヤも、その一つでしかない。

 イフリヤに限ったことではないが、表向きは被侵蝕者の違法な逃亡を防止するという名目で、街の外周は長大な外郭で囲まれている。結局、『壁』の外側の奴らにとって、俺達と喰禍は同類ということだ——。

「こっちだよ、おに……、アグレイ」

 レビンの声でアグレイの物思いは破られた。孤児院へとアグレイを先導していたレビンを、いつの間にか追い抜いていた。振り返ると、横道からレビンの顔が覗いている。

「おお、悪いな」

 脇道に逸れると、急に人通りは途絶えた。幅が狭く建物に挟まれた道は、しばらく歩くとまた大きな通りに合流する。だが、そこには人影は見当たらない。目につく建造物も、外壁が剥がれ落ち、崩壊しているものも少なくなかった。

 イフリヤの市内も例に漏れず、侵蝕地帯はどこでも界面活性が発生する地域には偏りがある。侵蝕が活発で頻繁に界面活性が現れる場所と、ほとんど界面活性が確認されず、もし出現したとしても、侵蝕するほどの影響が無くて自然消滅してしまうのが多い場所。

 言うまでもなく後者の方が住むのに安全で好まれる。人気が無いのは、それだけ危険な地域ということである。

「おかしいな。この辺に孤児院なんてあったか?」

 アグレイの言うことは当然だ。子どものための施設を、このような辺鄙(へんぴ)な場所に建設するとは考えづらい。

「まさか……、お前が住んでるの、はぐれ孤児院じゃないだろうな?」

 はぐれ孤児院とは、統括府に登録されていない不認可の孤児院のことだ。その実質は、普通の孤児院にも保護されない身の置き場の無い子ども達が寄り添い合って、既成事実として成立している孤児の集団だ。

 盗みや売春で生計を立てるが、充分な収入が得られずに餓死や栄養失調で命を落とす子どもが大半である。また、後々になって重大な問題を引き起こす孤児もおり、適切な処置が要求される場合がある。アグレイは事件を未然に防ぐため、わずかな可能性も無視できなかった。

 質問の効果は劇的で、前を行くレビンの背筋が瞬時に伸びた。反射的に振り向こうとしたのを何とか途中で止め、上擦った声で言い繕う。

「あ、あのさ、僕ここから一人で帰れるから、アグレイも早くお家に帰ったら……?」

 はぐれ孤児院であることを隠そうとしている。利発ではあるが、所詮は子どもだ。口を割らせるのに手間をとることもないだろうと、アグレイは算段をつけた。左手をレビンの頭に置いて、優しく語りかける。

「おいおい、白々しいな。俺とお前の仲だろ」

「あの、いや……」

 アグレイは少しだけ力を加え、掌で円を描くように動かした。その下にあるレビンの頭部も、自然と緩やかな円形に回される。

「俺はお前に貸しがあるんだぜ? 侵蝕から助けてやったという、な」

「うー。でも、キクお姉ちゃんは裏切れないよおぉー……」

「裏切るんじゃない。ちょっとだけ友達、俺のことだが、に教えてくれればいいんだ。ほら、言ってみ? 白状しなって」

「あうぅー……」

 されるがままに首を回され、右手で頬を突かれるレビンは、アグレイに心を許している。それでも話を渋るのは、恐らくキクお姉ちゃんとやらに口止めされているのだろう。

 アグレイの責め苦によって、レビンが陥落するのも時間の問題だ。さらに問答を継続していると、不意に背後から声高に呼び止められる。

「ちょっとあんたッ! レビンに何してるの!?」

「うおぉ!?」

 第三者がいないものと思い込んでいたせいで、必要以上にアグレイは驚いた。レビンを笑えないほど、その背筋は伸び切っている。

 だが、アグレイが肝を冷やした理由はそれだけではない。女の声は、大の男ですら竦み上がらせる迫力を備え、鋭く放たれていた。

「あ、キクお姉ちゃん!」

 救いの手を差し伸べられたという風に、レビンがアグレイの掌中から逃れて後ろの人物に向かっていった。

「どうしたの、レビン? あなたがいないから心配してたのよ?」

「ごめんなさーい」

 レビンは女、キクの腰の辺りに抱きつき、服に顔を埋めている。キクは素直に謝るレビンの頭を愛おしげに撫でていた。

 キクは、女性と少女の中間とでも言うような雰囲気を帯びていた。年の頃は、一七か一八歳だろう。光加減によっては緑にも映る肩まで届く黒髪と、頭髪と同色の湿った夜のような色合いの瞳が、幼い顔立ちと調和して不思議な印象を他人に与える。衣装の裾が短く、その右脚は包帯で肌を隠していた。

「知らない場所に行って迷ってたんだ。おまけに界面活性にも会っちゃうしさ」

「界面活性ッ!? それは怖かったでしょう? 無事で何よりだわ。だからいつも、遠くまで遊びに行っちゃいけない、と教えているのよ。これからは気をつけてね」

「はーい」

 これまでのやんちゃ振りは消え失せ、レビンは従順に返答する。

「ね、あの人は誰?」

「僕を界面活性から助けてくれた、アグレイっていう人。ここまで送ってきてくれたんだ」

「界面活性から……助けた?」

 アグレイに当てられたキクの視線が刺すように鋭くなる。それだけの能力を備えた人物であり、それが何を意味するか思い至ったようだ。だがレビンを向いたときには、その目から圭角がとれて穏やかなものになっていた。

「そう、分かったわ。じゃあ、私はこの人にお礼を言うから、レビンは先に帰っててくれる?」

「うん」

キクが促すと、レビンは頷いて走り去っていく。キクの視界から外れると、レビンは申し訳なさそうに両手を合わせ、拝むようにアグレイを振り返った。

 キクお姉ちゃんが不利になることは話せないが、自分を助けてくれたことには感謝しているのだろう。

 アグレイは怒りを覚えていないことと、別れを目線で告げた。レビンは内面の安心を笑みによって可視化し、それから建物の陰に消えていった。

 さて、といった様子でアグレイはキクに向き直る。相対したキクは温かみをすっかり収め、冷たい黒曜石にも似た両の瞳の焦点をアグレイに結んでいる。アグレイとレビンに向ける眼差しの、その温度差たるや、だった。

 なるほど、これが『キクお姉ちゃんの怖い顔』か。前もってレビンに聞いていなければ、アグレイも臆していたかもしれない。

「レビンを助けて下さったこと、感謝します」

 言外に、それ以外は何とも思っていないと言っていた。

先制されても鼻白むことなく、アグレイが返す。

「君がキクか。レビンから話は聞いている」

「話? どういう話です?」

「孤児院の者だそうだな」

 アグレイなりに鎌をかけたつもりだったが、キクは言質をとられる愚を避ける。

「……ええ、そうです。孤児院の者です。それが何か?」

 今度はアグレイが言葉に詰まる番だった。

「あー……。そ、そうか」

「話は済みました? それじゃあ私、もう行きますから」

 時間の無駄だったとでも言いたげに、キクはアグレイの横を通り過ぎた。

 確かにその通りだった。無駄なやりとりだ。結局、率直に尋ねるしかないのだ。

「あんたとレビンがいるのは、はぐれ孤児院じゃないのか?」

 キクは歩みを止めた。半面を肩越しに覗かせ、無形の矢で射るようにアグレイを睨めつけた。

「何だよ、その顔は。答えるんだ」

 キクは踵を返して戻ってくると、面と向かってアグレイを見返した。アグレイが目を逸らすほど、真っ直ぐに。

「私達が住んでいるのは、確かに認可を受けていない孤児院です」

「それなら、統括府に届け出をして孤児院の資格を取得するんだ」

「そんなこと……」

 できない、と言うのだろう。

 単純に考えて、統括府に孤児院として登録されることに不都合は生じない。経営を支援するための補助金まで支給される。それでも、はぐれ孤児院と称される集団の発生が止まないのはそれだけの理由があるからだ。

 孤児院として認知された場合、孤児に対する身体的基準が定められ、そこから逸脱する者は孤児院に入ることは許されず、統括府に引き渡されることとなる。

 その基準は、侵蝕されているか否かだ。侵蝕が深まり完蝕状態となると人間は理性を失うが、子どもは精神が未熟なせいか完蝕されるのが早い。侵蝕が治癒することは決して無いので、気が狂れて他者を傷つけるのを防ぐため、事前に収容所に送ってしまうのだった。

 はぐれ孤児院は、侵蝕を受けて普通の孤児院から拒否された孤児が集合し、自然と形成された共同体なのだ。行き場のない子ども達の、最後の拠りどころ。

「その気が無いのなら、俺が今からその場所に行って確認し、適切な処置をとる」

「言い方を変えているだけじゃない。侵蝕されているだけで収容所送りなんて、そんなやり方間違ってる」

「手遅れになって犠牲が出るよりはマシだ」

「あの子達が生きることは、許されないことなの?」

「別に収容所でも暮らしていける。食事や娯楽だって、ちゃんと提供されるんだ。何だったら、はぐれ孤児院での生活よりも充実しているだろう」

 キクが初めて激情を発した。冷たい無表情が一変し、柳眉を逆立ててアグレイに詰め寄る。彼女は胸中の憤激を言葉に変換して迸らせた。

「そりゃ生活はできるでしょうよ! でもねッ、生活することと生きるってことは違うの!! 友達と無理矢理離されて壁のなかに閉じ込められて、監視されながら自分は正気じゃなくなるんだって毎日怯えて暮らすのッ! それが、生きてるって言えるの!? 言ってみなさいよ、そうしたらあんたなんか殺してやるんだからッ!!」

「……」

 アグレイは我知らず一歩後退していた。それがキクに気圧されたからなのは言うまでもない。それを自覚したとき、アグレイは恥を打ち消すように足を戻して、キクと真向から対峙する。

「じゃあ、レビンはどうなんだよ? あの子は侵蝕されていないはずだ」

 アグレイが覚えているのは、界面活性に捕らわれているレビンの姿だ。侵蝕されていれば、界面活性に少しは反発できる。それもできないのは、健常な身体を持っている証拠だ。彼だけならば、孤児院で保護できるだろう。

 今度はキクがわずかに動揺する番だった。

「あの子は、私達が五年前に拾って、今は私がちゃんと世話しているわ。他のところに移す必要なんてない」

「私達?」

「私と、シェリルおばさんよ。私を拾って育ててくれたのも、その人。最近になって身罷みまかってしまわれて、子ども達の世話をするのは私だけだけれど、何の問題も無いわ」

 確かにレビンの身なりは粗末なものだったが、健康に障りがある様子は見えなかった。どちらかと言えば、体力があり余っている元気な少年ですらあった。はぐれ孤児院で暮らしているとは思えないほどに。

「そうだとしたら、あんたの負担も相当なはずだ。このイフリヤで、女だてらに子どもを養えるほど身入りのある仕事なんか、限られている」

「変なこと考えないでッ……。健全な仕事よ。私がしているの……」

 キクが顔を赤らめながら、アグレイとの距離を広げる。仕切り直して感情を静めてからアグレイを見据える目に、仄かな侮蔑が浮かんでいた。

 アグレイとしては甘んじて受けるしかない。早とちりだったかもしれないが、そうして生計を立てている場所も少なくないのだ。

「とにかく、あなたみたいな部外者に心配されることなんて、何もありませんから。じゃ、さよなら」

「待て。俺も行く。レビンだけは、こちらで保護させてもらうからな」

「しつこいわね……」

 アグレイに後ろ姿を見せたものの、彼の言葉を聞いてキクは首だけを回して再び振り返る。その目元に険が含まれていた。苛立ちが沸点に達し、熱を抑え切れないようだった。

 危険な兆候だと見たアグレイの耳朶を、キクの昂ぶった声音が打った。

「痛い目を見ないと分からないみたいね」

 言うや否や、キクが背面を見せた状態から、身を捻りざま右半面を狙った右蹴りを繰り出した。修練を積んだように速いその蹴りを、上体を倒したアグレイは余裕を持って避ける。

「止めておけ。女を殴りたく——」

 キクの靴裏を眺めてアグレイは忠告しようとした。だが、足裏が目前で静止しているのが長い。その違和感で気づいた。蹴りと同時に靴を相手の目の前で脱ぎ捨てて目隠しにしつつ、キクは左足を軸にして返しの蹴りを放っていた。初撃よりも数段速い。

 避けるのは無理だと判断したアグレイは、右掌と左腕で防御に備えた。そのとき、キクの右脚よりも先に視野で確認したのは、アグレイの能力発動時と同じ蒼い燐光だった。

 思考も認識も省略して、本能がアグレイの脳内で警鐘を鳴らした。両腕を引っ込めつつ攻撃の着弾点を予測し、身体を回転させながら蹴りを往なす。

「……ッ」

 両者の間で赤い飛沫が弾け、視界を曇らせた。

 アグレイは回りながら距離を開け、左肩から滴る出血を右手で押さえる。

それに対してキクは、反撃を警戒してその場から飛び退いていた。

 二人が体勢を整えて視線を交わし合ったとき、ちょうど二人の中間でキクの靴が地面に着地し、横倒しになった。平静のアグレイなら、明日も曇りかよ、と軽口も飛ばしたろうが、口が吐いたのは別の台詞だ。

「ついさっき、はぐれ孤児院で育ったと聞いたばかりだから予想はしていたが。あんた……、その右脚は……」

 キクは左脚一本で立っていた。右脚は横に伸ばされて、その先端が地面に着くかどうかの高さで止めている。その右脚を覆っていた包帯が破れ、変形した四肢を露わにしていた。

 それは剣であった。裾から本来覗いているはずの脚部は、剣へとその形状を変えていた。

「片脚が丸ごと蝕肢しょくしと化しているのか? それだけ重度の侵蝕があって意識を保っていられるだけじゃなく、恣意的に能力を操れるとは……」

 アグレイは驚嘆を静かに舌に乗せた。

蝕肢とは、人体の侵蝕部位を示す言葉だ。その度合いが深いほど、身体能力の向上や特異な能力を行使することができる。

 だが、強い精神力と侵蝕に適性する体質を有していないとその人格を歪め、すぐに完蝕され尽くしてしまう。キクのように自我を保有し続けていられる人物は稀であった。

「これ、私が子どもの頃から使えるけど、便利よ。暴漢や身のほど知らずを追い返すとき、つまり、今みたいにね!」

 言い終わりは風の音に掻き消される。片足で器用に跳躍し、右手から左手の順に着地して側転から、左足が地を蹴って後方宙返りへ繋げる。

 普通なら片足が使えなければ、移動するのも困難なはずだが、それをものともせずに両手で補助し、むしろ高速で接近してくる。生まれ持ったしなやかな筋肉と、侵蝕によって底上げされた筋力が、類稀な身体能力を発揮させているのだろう。

 意表を突かれたアグレイが身構えたときには、キクは一気に間合いを詰めていた。右蹴りを迎え撃つため、アグレイも左手を強化させる。キクの顔に驚きが走る。

「あんたも……?」

「それなりにな」

 金切り声のような金属音がつんざき、アグレイの手の甲が斬撃を受け止めた。間髪を入れずに押し返してキクの体勢を崩そうとするが、それよりキクが脚を引く方が速い。

 猛攻は止まらず、横殴りの驟雨かと見紛う銀光がアグレイへと幾筋も走った。だが、アグレイも触らせず、刃の寸隙をかいくぐって勝機を窺っている。その様子見を嫌って、キクが攻防に転調をもたらした。

 身を引きざま時計回りを描いて、右回し蹴りをキクが放つ。アグレイは何事もなく受け流し、キクが背中を見せるとそれを好機として、彼は攻撃の予備動作に移った。

「ちィッ」

 失策を覚ったのはアグレイだ。キクは攻撃を受け流された勢いに逆らわず、その流れに乗って回転の速度をより増していた。目に映ったキクの背が残像だったと知って、アグレイは防備に回るが、二転目の回し蹴りを防御するのに間に合わない。

 アグレイは左掌で受けるが、威力を相殺しきれずに吹き飛ばされた。

 身体のあらゆる部位を天地が分からなくなるほど路面に打ちつけ、やっと視界が定まるとそれは灰一色に染まっていた。暗闇なら失神したのだろうが、灰色となれば仰向けに寝ているのだと理解できた。

 意識の指示を無視して痙攣し続ける両手足を踏ん張り、追撃を警戒して焦点の定まらない視線を前方に向けると、キクはただ立ったままアグレイを眺めているだけだった。

 キクの右脚、太腿以下が微粒子の集合体と化したように希薄になり、粒子が瞬時に拡散して再び結合すると、それは蒼い鉄製の肌質ではあったが、形態は普通の脚部に戻っている。

 キクがゆっくりと近づき、ある場所で足を止めた。足元に落ちていた靴を履いて具合を確かめると、アグレイを見下ろして口を開いた。

「レビンを助けてくれたっていうから、今回は見逃してあげる。だけど、勘違いしないで。もし、また余計なことをしようと思ったら、……次は、無事では済まさないから」

 吐き捨てるように言葉を残すと、キクは振り返ることなく去って行った。

曲がり角でその姿が追えなくなってから、アグレイは緊張を解いて仰のけに倒れ伏した。彼女の蹴りで切られた肩からは、まだ出血が続いている。

 いきなりアグレイが地べたに拳を打ちつけた。石畳が砕けて幾何学的な亀裂が走り、石の切片が弾け飛ぶ。

「ちっくしょう! 油断してたんだ。あの女に負けたわけじゃないッ……!」

 弁解がましい独語が空しく宙に溶け去ると、いたたまれずにアグレイは身を起こす。その面には荒々しい赫怒が宿っていたが、それは不覚をとった自身に対するものだ。

 この男の怒りは、いつも自分に向けられている。

「……」

 息を吐いて精神を静めると、アグレイは歩き始める。

 その後、アグレイは統括府に戻り、フリッツが報告書を提出して帰宅したことを聞いた。アグレイも帰宅の旨を告げ、自宅に戻った。

 その際はぐれ孤児院やキクのことは、報告していなかった。

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