第17話 アグレイの決意
アグレイが意識をとり戻したのは、統轄府の医務室においてであった。
白い清潔な布と医薬品の鼻を突く匂いのなかで、彼は目を覚ました。アグレイが上半身を起こすと、目隠しの仕切りで覆われた空間には彼の他にもう一人、背もたれのない椅子に座るキクがいた。
キクは、うつらうつらと顔を上下させている。アグレイが起きても気がつかず、アグレイは手を伸ばしつつ呼びかけた。
「キク」
首を跳ね上げたキクは、自分に迫る掌を目にすると慌てて仕切りの外に姿を消した。
「わあ、キク! 違うぞ、別に変なつもりは……」
「起きたばかりで騒いではいかんぞ、君」
代わりに答えたのは初老の男性だった。白衣と髭に加えて顔色まで白い男は、この医務室を預かる医師であった。医師に眼球と喉を覗きこまれ、胸に聴診器まで当てられるアグレイを、キクは後ろから心配そうに見ている。
「うむ。命に別条はないが、安静にさせなさい」
医師が去ると、キクが再びアグレイの傍らに腰かけた。
「キク、俺はどれだけ寝ていたんだ?」
「丸一日と、数時間くらい」
「そんなにだと……?」
キクは手短に、アグレイが気絶してからユーヴとリューシュが男の手に倒れ、界面活性を防ぐことよりも仲間を搬送することを優先した自身の行動、ばぁばに帰宅できない旨の連絡をしたことを説明する。そのとき、医務室の扉が盛大に開く音が高く鳴った。
「キク君、アグレイ君の容態はどうかね?」
小さい密室にユーヴとリューシュが入ってきた。リューシュは目立った外傷は無いが、ユーヴは額に包帯を巻いている。
「あら、目覚めましたのね、アグレイ。よかったこと」
「キク君はずっとつき添っていたのだ。感謝するんだぞ」
余計なことを、とでもいうようにキクがユーヴを一睨みする。後頭部に手をやり愛想笑いを返すユーヴに、アグレイはこのときばかりは助け船を出す。
「そうか、ありがとよ。キク」
「別に、お礼を言われるためにやったんじゃないし」
キクの視線の鋭鋒が逸れるとユーヴが胸を撫で下ろした。もう一脚の椅子にリューシュを座らせると、自身は立ったまましかつめらしく切り出す。
「さて、本題だ。アグレイ君が寝ていたこの一日の間に、えらいことが起きている」
「何だと?」
「僕達を襲ったあの男がイフリヤ市内の各地に出没している。以前、みんなで蟲騎士達と戦った大通りに現れたり、イフリヤの西端だったりと、その出現場所は一貫性がない。これまで姿を見せたのは九カ所で、かなりの被害も出ている」
「被害ってのは?」
「彼の存在が確認された地点は全て界面活性が発生している。強力な界面活性だったらしく、すでに侵蝕が定着している。人的被害は、一般人二十余人、警備隊と警官が四一名だ」
アグレイとキクの二人が息を飲む。まさか、この一両日中にそのような惨事が続出していたなどと、知る由もなかった。
「情報が錯綜していますが、わたくし達を倒したその足で空間を渡り、大通りに現れたようですわ。あの男は積極的な攻勢に出ず、界面活性をもたらすことに専念していたというのが、現場にいた警備隊の方の話です。おかげで、わたくし達も助かったようですが」
リューシュも心痛を隠せないようで、翡翠の双眸に陰りが混じっている。
アグレイの横顔に自責と自嘲が走った。責任感の強いこの男は、仲間を危険に晒し、人出が必要なときに警備隊として職務に携われなかったことを悔いている。
「最大の問題は、侵蝕された地域が新しく増えたことだ。そこを橋頭保として、いつ喰禍が攻めてくるやら……」
「何それ、どういうこと?」
「ああ。界面活性はね、いきなり遠くの場所に発生させることはできないんだ。一定規模の空間が侵蝕された中継地点を必要として、ある範囲内において発生させられる。その中継地点からの距離と、界面活性を発生させるための力は比例する」
一同が沈黙し、ユーヴが言葉を続ける。
「つまり、中継地点から近い場所より、遠い場所の方が大きな力を要するらしい。勿論、界面活性の規模によっても必要な力は変動するがね。ま、簡単に言えば、喰禍どもはその中継地点を九カ所手中にし、より多くの界面活性と喰禍を送り込んでくるだろうってこと。ボイエン教授の『界面活性。その範囲と規模に関する考察』を読めば分かることさ」
胸を張るユーヴをよそに、アグレイは沈痛な面持ちで手を額に当てる。これまでの状態でも人間側の劣勢で、イフリヤが徐々に侵蝕されつつあったのだ。より事態が悪化しては、界面活性や喰禍を迎え撃つだけの対処療法的な処置では、対抗できないではないか。
「くそ……! 何とか、この街を守る方法はないのかよ……?」
「そう悲しまないで下さいな。まだ、終わったわけではありませんわ。この街を救う手立ては残されていますもの」
「本当か、リュー!」
琥珀の瞳が縋るように、端然とした女性に注がれる。
「ええ。容易なことではありませんが、たった一つだけ」
「何なの、その方法って?」
キクも熱を帯びた声音で答えを急かした。彼女にとっても人々が傷つくこと、そしてレビンが失われるのは耐え難いことであった。
リューシュが、ややもどかしいほどゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それは、〈
その結論を聞いてアグレイとキクが浮かべたのは歓喜ではなく、頭上の疑問符だった。
「あら、お二人ともご存知ではないですの? 禍大喰とは、ある地域の喰禍を統べる、いわば喰禍の司令官ですわ。管轄の地域で界面活性を発生させて、侵蝕地帯の領土を広げるのも禍大喰の役目です」
「補足すると、喰禍に命令を下すのと界面活性を発生させる能力を一手に担う禍大喰を倒せれば、指揮系統が麻痺して喰禍どもは撤退していくってわけだね」
アグレイはまだ信じられないといった様子で二人に視線を往復させる。
「大丈夫だ、信じたまえ。僕がこの街を訪れた理由はね、侵蝕から解放するためなんだ」
「わたくしも、同じです」
「何で、イフリヤを助けにきたの?」
リューシュはいつもと変わらず、悠然と微笑んだ。
「イフリヤを目的としたのではありませんわ。ただ、わたくしはこれまで旅を続けてきて、禍大喰を倒した経験があったもので。この街も助けたいと思ったまでのことです」
「僕も、禍大喰を倒して侵蝕が止んだ事例を目にしている。君達の役に立てるはずさ」
「そうだったのかよ。……まだ、希望はあるんだな」
アグレイはキクと目を合わせる。そこに見出した同意を、彼が代表して舌端から放った。
「よし。じゃあ、早速その禍大喰とやらを倒しに行こうぜ! 俺達なら簡単だろう!」
「いえ、少し問題が……」
賛同に淀みを生じさせたリューシュが言う。
「禍大喰がどの喰禍なのか特定しなければなりませんし、その所在も掴めていませんわ。まずはそれを調べるのが先決だと思いますの」
沈静化した熱気を盛り上げるように、ユーヴが高々と宣言する。
「心配は無用だ。僕が禍大喰らしき者に、目星をつけている! 禍大喰、それは、あの男しか考えられない!」
全く感嘆の叫びが上がらない。
「あの男って、誰よ?」
「だから、僕たちをノして、しかもイフリヤに侵蝕を広げた、憎きあの男なんだけれど」
ユーヴが指すのがアルジーらしき男だと認識した瞬間、アグレイの血液が急沸騰する。
「ユーヴ、どういうことだ! アルジーが禍大喰だと? お前の話じゃ、その禍大喰とやらは喰禍の親玉なんだろ、何で完蝕されたアルジーが禍大喰になっちまうんだ。ええ!?」
予期しなかった怒声、それも怒気でなく鬼気に近いものが含有された迫力に、女性陣は面食らって身を硬直させた。キクなど、驚いて両手で頭を覆ったほどだ。
ユーヴのみが、アグレイの灼熱の感情を正面から受け止めていた。焦点が発火しそうなほどの高熱を秘めた琥珀の瞳に身を貫かれても、ユーヴは動じることなく冷厳さで応じる。
「アルジー? それが誰のことかは知らないが、僕の推論に間違いは無いと思うがね。確かに彼は元々人間だが、完蝕された以上は喰禍と同列の存在だ。禍大喰に足る力量を有していれば、他の喰禍から禍大喰の座を奪うこともできる。僕達が敵わなかった彼の強さは、充分その域に達している」
アグレイは反論できずに黙って講釈を聞いているだけだ。ユーヴは続ける。
「さらに、彼は界面活性を自在に操っていた。並みの喰禍でも界面活性は起こせるが、それは集団で引き起こした空間移動のためのものだ。彼は単体で、空間自体を侵蝕するほど強力な界面活性を操作している。あの男が禍大喰でないことの方が、僕には考えられない」
その知識には疑いの余地がないユーヴに断言され、感情に塗り潰されていたアグレイの内面に理性の色が上塗りされる。
「……そうか、分かった。少し、興奮しちまった。悪いな」
ばつが悪そうに頭を掻きながらアグレイが言う。弛緩した空気のなかで、アグレイが一同の顔を見渡し言葉を繋げた。
「俺からも、話したいことがある。俺の昔のことなんだが……」
常の雰囲気をとり戻したユーヴが、わざとらしく口に手を当てる。
「おほん! 聞いているかね、医師。おほん、おほん!」
「はいはい、聞こえとるよ」
医務室の端で息を潜めていた医師が退室する音が響く。アグレイは目礼して口を開いた。
「俺には、ばぁば以外にも家族がいた。子どもの頃、界面活性に飲まれちまったがな……」
アグレイはあの日、サクラノ公園で起こった出来事を語った。キクはばぁばから聞かされていたものの、本人の独白だけあってより詳細な情報も加わっていた。当時の情景や兄弟のはしゃぎようなど。そして、自分が家族を見捨てて逃げたことも正直に吐露していた。
「……俺が失った家族の一人、弟のアルジーがあの男に違いねえ」
アグレイが語り終え、彼は隣のキクを見た。
「キク、どう思った? 俺が家族を見捨てるような男だと知ってよ」
そのことは前から知っており、今のキクには確固たる結論が用意されている。
「アグレイは何も悪くないわ。もし、あんたを悪しざまに罵る奴がいたら、私がこの脚で叩き斬ってやるわよ」
「そうか……。ありがとよ」
アグレイは安堵したように目を閉じた。ユーヴとリューシュはどう思ったのか、その心情を測ることはできず、ユーヴから現実的な問いが放たれた。
「アグレイ君、なぜ彼がその弟さんだと分かるんだい?」
「身体的な特徴が合っていて昔の面影があった。名前を呼ぶと『なぜ、その言葉を知っている』と。自分の名前だということは、覚えていないみたいだったが」
「そうでしたら、蓋然性は高そうですね」
それだけ言うと、二人も口を開く気配を見せなくなった。
無言のまま全員がこの事態を吟味している。手を打たなければ、イフリヤは滅ぶしかない。唯一の有効策は、禍大喰を倒すことである。同時に、それはアグレイの弟を殺さねばならないことを意味している。
その実力を備えるのはイフリヤにおいて、医務室の仕切りに囲まれた狭い密室に集まる、この四人しか存在しなかった。
言葉にすれば単純だが、割り切るにはどれほど複雑な思考を辿ればよいのか。その答えは、一つしかないというのに。
アグレイが言った。
「禍大喰は倒さなきゃならない。だから、頼む。俺にやらせてくれ」
ちょうど、頃合いを見計らった医師が戻ってきた。そのおかげで三人は、悲痛な意志に対する返答をせずに済んだ。手短に別れを告げて、ユーヴとリューシュは医務室を去る。
「兄弟の因果というものか」
暗くなった廊下を歩きながら、ユーヴが誰にともなく呟いた。
「運命という脚本家は、とかく俳優に悲劇を演じさせたがるものだが……」
「まあ、誰の言葉ですの?」
「僕のさ」
リューシュは、やはり底知れない微笑を浮かべるだけだった。
「こんな言葉もありますわ。『時は去る。まさに、愛しき貴女のように時は去る。だが待てよ、時だろうか。いや、進む我ら人間にこそ、運命はある』と。運命はあらかじめ準備されているものではありません。わたくし達の実践にこそ、運命は含まれるのですわ。そうだとしたら、運命とやらを最善に導くことが、わたくし達の役割ではございませんこと?」
リューシュの声はユーヴの胸を吹き渡り、下らない感傷を払拭したようだ。
「そうだ。その通り。僕の役目は、己の過去を話してくれたアグレイ君の信頼に応えることだな。彼の道に障害物があれば排除する、それが僕の使命か」
「いえ……、わたくし達の、です」
ユーヴは首肯する。同一の目的を共有した二人は、並んで廊下を歩いていった。
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