第18話 侵蝕されつつあるイフリヤ
統轄府はこの状況を重く見て非常事態宣言を出した。侵蝕された区画を放棄して、住民は別の区画に用意された空き家や公共施設に避難させられた。住民が集まっていれば警備隊も守りやすいからだ。
喰禍と界面活性の出現は以前にも増して苛烈になり、死傷者が相次いでいた。
警備隊は防衛線を敷き、巡回より見張り重視に移行した。アグレイ達四人の隊も、アグレイとキク、ユーヴとリューシュの二組に分解され、それぞれ警戒に当たらされた。自然と勤務時間が噛み合わず、以前のように五人で食卓を囲む機会は激減している。
アルジーの件はアグレイが自分から伝えたいと、ばぁばには内緒にしてくれるよう三人に頼んでいた。その約束は守られており、ばぁばは一切知らされていない。そうは言っても鋭敏なばぁばのことで、若者達が隠し事をしていることを察していた。
ばぁばのように落ち着いて生活する住民は少数派だった。多くは壁の『外』への流出を求めて統轄府に押しかけ、なかには暴徒と化す者もいた。そちらにも警官と警備隊を回すため、余計な戦力分散を招かざるをえなかった。
流言の類も巷間に広がっている。暴徒はそれに触発された結果だろう。
「すでに統轄府の戦力では喰禍を抑えきれず、イフリヤは破滅するしかない」
「統轄府の奴らは自分達だけ『外』に逃げるつもりらしい」
「そのために、我々を密集させて喰禍への犠牲の羊とさせるのではないか」
これらの憶測に扇動された住民を警官隊は必死に抑えた。だが根も葉もないはずの噂は、目隠しされたまま道化師の呼び声に向かうように、皮肉にも真実の尻尾を掴んでいた。
警備隊の現存戦力は、アグレイ、キク、ユーヴ、リューシュらの突出した個性によって何とか瓦解を防いでいるだけであり、脱落者も続出した。隊員の身は疲弊と不安に縛られ、顔色は絶望の化粧を施されている。唯一にやけ面を崩さないフリッツも、目の下に隈を浮かべていて、どことなく強がりに見える。
また、統轄府の長官を始めとする管理職はほとんど『外』に逃亡し、職務室の机には休暇届けが置かれているばかりであった。これは職員の士気を著しく挫いたが、警備隊と喰禍対策課の課長両名は、家族が『外』に居住するにも関わらず出仕を続けている。
彼らのような数名の指導者によって、統轄府は未だ有機的に機能していた。無論、職員の間で彼らの名声は高まったものの、統轄府全体への評価が急降下していたことは否定できない。
激務の間に、ユーヴはかつて迷惑をかけた喰禍対策課の課長と論議を交わしていた。
「ユーヴ、君が説明した禍大喰だったか。それの所在を特定する手段はないのか?」
「厳密には、解明されていませんな。しかし、禍大喰は侵蝕が最も激しい場所を好むという傾向が統計学的に示されている。イフリヤで侵蝕が深刻なのはどこです?」
「それはイフリヤで最初に界面活性が観測された、サクラノ公園。そこしか考えられまい」
間接的にその情報がアグレイに伝わると、彼は腹を決めた。禍大喰の特定、さらにその所在が確かめられれば、彼が起こすべき行動は一つだけだ。
ある夜、アグレイはキクが寝室に消えると態度を改めてばぁばに向き直った。ユーヴとリューシュは、夕食を終えてから当番の哨戒のため前線に赴いている。
「あのよ、ばぁば……」
「何だい?」
「それが……」
「焦れったいねえ、早くお言いよ」
アグレイは覚悟を決めたようだった。
「俺、この前アルジーに会ったんだ」
「アルジー? アルジーって、あの?」
如何にばぁばであってもこれは予想の範囲を超えていた。二の句が継げずにいる。
「アルジーは母ちゃんに似てたよ。成長して、身長は俺より高くなっていた。だけど、完蝕されていてな。元に戻すことはできないみたいだ」
「そうかい。みんなが言いづらそうにしていたのは、そのことだね」
アグレイが胸につかえていた最後の塊を吐き出すように、言葉を押し出した。
「いや、まだあるんだ。ユーヴが言ってたろ、喰禍のなかで一番偉い奴の禍大喰ってのがいるって。……なぜかは知らないが、アルジーがその禍大喰になったんだってよ。だから、アルジーを倒さないと、イフリヤの侵蝕は止まらないんだとよ」
むしろアグレイは淡々と紡いだ。彼にはすでに考える時間がいくらでもあった。現実と心情の折り合いをつけるための時間が。
「あんたは、どうしたいんだい」
「俺は、アルジーを倒す。そして、イフリヤを平和にする。それだけだ」
ばぁばの視線を受けると、アグレイは気まずそうに机上に眼を落とす。
「そう。あんたが決めたことだ。誰にも文句は言わせないよ。ただ一つ、この老婆に言えることは、後悔しないようにね、それだけだよ」
アグレイは目線を下げていたために気づかなかった。ばぁばの表情も苦痛に歪んでいたことを。だが、それを見なかったことは、彼にとって救いであったろう。
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