第29話 アグレイとアルジー

「お前も強くなったんだな、アルジー……」

 感慨深くアグレイが言った。アルジーは、名前を呼ばれる度に瞳のなかの鬼火を困惑するように揺らめかせる。

「なぜだ。なぜ、お前はその言葉を知っている? その言葉の意味は何だ? なぜ、お前は何回もその言葉を言うんだ?」

 拙い口調でアルジーが疑問を発する。アルジーの頭にこびりついて離れない問題はそれだった。『アルジー』とは、何だ。なぜ、あの男がその言葉を知っているのだ。

「アルジーは、お前のことだ。お前の名前が、アルジーなんだ」

「違う。僕は、禍大喰だ。アルジーなんか知らない!」

 動転したようにアルジーがアグレイに殴りかかった。それはアグレイの頬を捉え、アグレイがたたらを踏んだ。だが、踏み止まると今度はアグレイが殴り返す。

「お前はアルジーだ。何回だって呼んでやる!」

 拳を顔面に打ち込まれ、アルジーが弾かれたように後退する。負けじと彼も堪えた。先ほどまでの高等技術など消え失せていた。それはただの、兄弟喧嘩にも似ている。

「言うな!」

「アルジー、昔は俺に殴られたらすぐ母さんに泣きついていたくせに、自分で殴り返せるようになったなんて、根性ついたじゃないか!」

 交互に殴り合うアグレイとアルジーは、一進一退を繰り返した。重い打撃音とともにアグレイが仰け反ると、次はアルジーが炸裂音を響かせて身を折る。だが、勝負は互角ではなかった。アグレイの体力と肉体は限界に達していた。

 やがてアグレイが拳を支えられずに両腕をだらりと垂らした。それを見逃すことなく、アルジーが大振りの一撃を与えた。呆気なく、アグレイが弾け飛ぶ。

「もう何も言えなくしてやる!」

 突進の勢いを乗せてアルジーが全力の一打をアグレイにぶつける。

 すると突然アグレイが前のめりになって、アルジーの拳が外れた。アグレイの眼光が閃いたのを見て、外れたのではない、アグレイが避けたのだと、アルジーは理解した。

 雄叫びを上げて、アグレイが両拳を連打する。

「アルジー! アルジー! アルジー! アルジー!!」

 拳を打ち込まれるごとに、アルジーは退いていく。耐えかねたようにアルジーの頭が下がると、アグレイは渾身の左正拳をねじ込む。

 それはアルジーの誘いだった。

 アルジーは隙の大きいその一撃を皮一枚の差で顔を掠めさせ、空振りしたアグレイの左に自分の右腕を被せるように拳を放つ。相手の力を逆用して己の攻撃の威力を倍増させる、それは完璧なクロス・カウンターだった。当たれば、アグレイの生命を断ち切るには充分な破壊力である。

 だがアグレイは、アルジーの拳が視界を埋め尽くすほど近づいても動揺しなかった。アグレイはアルジーの駆け引きの一歩先を読んでいたのだ。予測通りの打撃に対して首を傾げるという最小限の動作で、死神の掌に掴まれることを拒否する。

 空虚な手応えに慄いたアルジーが見たのは、自分に迫るアグレイの手だった。余力を残していないアルジーは、次の攻撃を恐れて総身を粟立たせる。

 その手が急に上へと伸びるとアルジーの頭に優しく置かれ、悲しげに撫でられた。

「ごめんなあ、アルジー……」

 アルジーが身を竦めたまま動きを止めた。いつだったかこんな光景を見たような気がする。記憶の水底からその映像を引き上げようとしたとき、アルジーの身体を衝撃が襲った。

 一際輝きを増した右手を無防備なアルジーにぶち込むと、アルジーは弓なりの軌跡を描いて吹き飛んだ。アグレイの拳には、弟に止めを刺した、嫌な感触だけが居座っている。

「う……」

 仰向けに寝転んだまま立とうとしないアルジーが呻いた。アグレイが駆けつけようとしても、足が命令を聞かずにつまずいて膝立ちとなるばかりだった。

「くそ! 言うこと聞け! これが、これが最後なんだから……」

 アグレイは自身の脚を殴りつけて叱咤し、横たわるアルジーまで走った。

「アルジー? アルジー、ごめん。ごめんなあ。俺は、お前を見捨てて一人で逃げて、終いには殴るしかできなかった、駄目な兄ちゃんだ」

 アルジーが片方だけ薄目を開けた。顔の左半分は、アグレイの一撃で破壊されて崩れ落ちている。その痛々しさに、アグレイは声を詰まらせた。

「アルジー……。ごめんなあ」

 アルジーは、やっと思い出せた。自分の頭に優しく手を置いてくれた人。界面活性に飲まれるとき最後に見た、母に抱かれて泣き叫ぶ自分に向かって、ひたすら謝っていた人。自分は、ずっとその人のことを呼んでいた。

「ああ、兄ちゃん」

 アグレイは、はっとしてアルジーを見た。震えるその手がアルジーに触れようとしたとき、アルジーは淡く発光して塵になっていった。

「待ってくれ、待って……。アルジー……」

 アグレイが縋りつこうとしたとき、アルジーの全身は虚空に溶け込んだ。

 言葉もなく呆然と、かつてアルジーであった蒼い微粒子が天に昇っていくさまを、アグレイは見やっていた。

 ふと、それまで空を覆っていた灰色の雲が割れ、一条の光が差し込んだ。光はアグレイの額に当たり、どんどん広がってアグレイを包み込んでいく。

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