第30話 アオゾラ

「もう、この街も終わりじゃないか」

「子ども達だけでも、統括府に避難させた方が……」

 孤児院の職員が囁き合うのをレビンは聞いていた。大人は内緒にしているつもりらしいが、異変が起こっていることはすでに気づいていた。

「レビン、なかに入りましょう。みんなは遊戯室で遊んでいるのよ」

 職員が促しても、レビンは頑として動かなかった。アグレイとキクお姉ちゃんが見せてくれると約束した、アオゾラとかいうのを見るために、ずっとレビンは待っていた。

 困ったように女性職員が天を見上げ、驚愕の声を漏らした。

 レビンも不思議に思って空に目をやる。レビンにとって当たり前のものだった曇り空が引き裂かれ、その奥に得体のしれない輝きが見えた。突き抜けるような青い広がりと、眩しすぎて直視できない光の塊。

「嘘。青空だわ」

「アオゾラ?」

 レビンが聞き返すが、職員は答えずに慌てて室内に駆け込んだ。すぐに大人達が集まって空を見上げ、喝采を上げた。大人の騒ぎにつられて、子どもも外に出てきた。それまで当然と思っていた灰色の空が、青く染まっているのを見つめ、みんな目を丸くしている。

「青空だ! 雲が晴れたぞお!」

「太陽なんて、何年振りだ?」

「あれが、アオゾラ?」

 レビンが呟いた。突如、胸を突き上げるような歓喜のままにレビンも、狂ったようにはしゃぐ大人に混じって声の限り叫んだ。

「アオゾラ! アオゾラ!」


 市民が避難している最後の防衛線を背にして、フリッツは荒い息を吐いた。彼は警備隊の残存勢力を率いて、抵抗を止めることはしなかった。多くの隊員が死傷し、フリッツを含めた数少ない隊員も、喰禍に追い詰められつつあった。

「もう無理だよ、フリッツ。俺達も統括府に戻ろう」

 フリッツは弱音を吐いた男を張り飛ばした。

「バカ! アグレイや新入りが頑張っているのに、俺達だけ逃げられるか。一人でも多くの市民を逃がすんだ。死ぬまで戦うぞ!」

 いつもと違うフリッの迫力に隊員達は反論を飲み込んだ。

 フリッツが喰禍の群れに飛び込んだ。数体の喰禍を倒したとき、背後の不意打ちを受けてフリッツは剣を落とす。覚悟を決めたフリッツに迫る喰禍が、いきなり動揺した様子を見せた。優勢のはずなのに我先にと界面活性に逃げ込んでいく。

 喰禍が消えると、事態を理解できない警備隊は顔を見合わせた。

「あ、あれ……」

 一人の隊員が空を指差した。その場の全員が視線を上空に向ける。隊員達の多くが子どもの頃に見た覚えのある蒼穹が、陰気な曇天を払拭して広がりつつあった。

「アグレイ……。あいつ、本当にやりやがった! やった! やったぞ!!」

フリッツの歓声に、警備隊が遅れて大声を張り上げた。


「リューシュ君、大丈夫か」

 覚束ない足取りで進むユーヴが、道路に座っていたリューシュに声をかけた。

「まあ、ユーヴ。無事で何よりですわ」

「彼らは、どうしたんだい」

「ええ、先に行きましたわ。わたくしも、アグレイとキクのお手伝いに向かおうとしたのですけれど、足が動かなくなってしまって……」

 リューシュが白くなった肌を微笑で誤魔化した。リューシュが腰かけている場所まで、引きずったような血の跡が路面にあったのを、ユーヴは見ている。

 空から降り注ぐ温かな光に気づいて二人は空を仰いだ。そこに曇天の隙間から覗く、目に染みるような蒼天が存在しているのを確認し、二人の緊張感が緩んだ。

「ああ、アグレイとキクが頑張りましたのね。これで、ゆっくり休めますわ……」

 そう言って、リューシュが横倒しに崩れた。その脇腹から噴き出る鮮血が、たちまち路面を血溜まりに変えていく。ユーヴは急いでリューシュに近寄った。

「リューシュ君、すぐに手当てをしないと……」

 自身も重傷を負っているユーヴは彼女を目前にして倒れ伏す。乾いた音を立てて横たわり、体内の血液が枯渇したようにユーヴは全く出血していなかった。


 ばぁばは、いつも通り家事を済ませていた。いつ孫が帰ってきてもいいように。

やることもなくなって、ばぁばは茶を飲んでいた。珍しく、家族五人で映った写真立てを机上に置いて、孫の、いや、孫達の帰りを待っている。

 祈るように、きつく握られた茶碗が揺れていた。どれだけの間、そうしていたのだろうか。気づいたときには、窓から差し込む光が強くなっていた。一二年振りの日差しが注がれた室内を見渡して、ばぁばが窓を開けると、晴れ渡った空が老いた瞳に眩しかった。

「あの日も、こうやって家族の帰りを待っていたんだっけ」

 無心にばぁばは呟いた。そして、名状しがたい表情を浮かべる。

「アグレイ、よくやったね。辛かったろうに……。あんたは……偉いよ」

 ばぁばは写真立てに目を向けた。

「ランディ、ソフィー。あんた達の息子は立派になったよ」

写真のなかで、仲睦まじい夫婦は微笑んでいた。


 柔らかな温かさで包み込む光の輪のなかで、アグレイは耐えきれずに嗚咽を漏らしていた。地面に突っ伏して、ひたすら弟の名を呼ぶ彼の双眸から滴る雫が、大地を濡らす。

「強くなったと思ったのに……。俺、まだ泣き虫だったよ……」

 アグレイの言葉は、それ以上音声にならなかった。

 キクは、離れた場所で泣き崩れるアグレイを見つめていた。イフリヤ市では、みんなが青空に目を奪われているなかで、唯一目線を落としてアグレイの姿を瞳に映しているのは、キクだけであった。

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