第31話 それから……
数日後。
療養を経て退院したユーヴとリューシュが、アグレイ宅に招かれていた。
「はは、何だか照れてしまうね」
「本当ですわ。わたくし、大した怪我をしておりませんのに」
イフリヤ市内の病院は、ほとんど警備隊と警官隊で埋まっていた。二人とも、完治はしていないのに率先して、というか無理に退院したのである。
「お前らの顔を見るのも、久しぶりな気がするな」
「無理はしないでね。二人とも、本当は安静にしていないといけないんだから」
アグレイとキクが居間で仲間を迎え入れる。使い慣れた食卓では、ばぁばが退院祝いの豪勢な食事を並べていた。
「そうだな、楽しませてもらおうか。僕の悔いもないように」
「いい思い出になりますわね」
ユーヴとリューシュが発した言葉の意味を知ったのは、翌日の朝のことだった。久方ぶりの団らんを楽しんだアグレイが酒に酔って熟睡し、寝ぼけ眼を擦っているときに、ばぁばが告げたのである。
「あの二人は、早朝に出立したよ」
「何だって? 何で起こしてくれなかったんだよ」
「口止めされたのさ。別れが辛くなるってね」
アグレイは本棚に目を向けた。その前には、ユーヴが使っていた敷布が丁寧に畳まれており、普段は埃が積もっている蔵書は綺麗に清掃されていた。厚顔なくせに、最後は律儀に去った詩人の顔をアグレイは思い出していた。
「あれ、リューはどこにいるの?」
寝室から出てきたキクが遅れて疑問を発した。
「起きたら、リューが使っていた寝台が整理されていたんだけど……」
アグレイとばぁばの目線に気づいて、キクは旅人達がねぐらを変えたのを悟ったようだ。
「そう……。実は、私も旅に出てみようと思っていたの。これも、いい機会かもしれない」
「何だって? キク、何でお前が旅に出なけりゃならないんだよ?」
「侵蝕を止める手段が見つかったんだもの。この街だけじゃなくて、他の場所も救えるのなら、私は他の人達も助けたいの。レビンも、立派な孤児院にいることだし」
キクの胸のうちを聞いて、アグレイは驚いた。
「せっかくイフリヤが平和になったんだぞ。お前が他の街まで行くことはないだろう」
「でも、侵蝕に対抗できる方法があるって知らない人達もいるんだよ。そういう人達にも、希望はあるって教えてあげなきゃ」
「救世主様にでもなるってのかよ」
「そんなんじゃないわ。ユーヴとリューのように、私も誰かを助けられると思うの」
押し黙るアグレイをよそに、キクは身支度を整えていた。
「ばぁば、お世話になりました」
「そうだねえ。若者が決めたことに、この年寄りが口出しすることはないよ」
「ありがとうございました。御恩は絶対に忘れません。……アグレイ、じゃあね」
キクの別れの言葉にアグレイは答えなかった。机に頬杖をついて、拗ねたようにそっぽを向いている。
キクは少し残念そうにアグレイの背を見つめていたが、黙って出ていった。
侵蝕の猛威が去り隊員の多くが入院している現状では、目下のところ警備隊の活動は停止している。暇になったアグレイの代わりに文官が忙しく統括府の機能を回復していた。
不機嫌にアグレイは窓外に目を向けている。彼の手で晴らした空は、青い画板に油彩画のような白い雲が漂って、十年ぶりの太陽が照っていた。イフリヤ市内は、まだ興奮と喧騒に沸いている。
だが、功労者たる彼の表情が晴れないのは、どういったことだろうか。
ばぁばが、アグレイの対面に座った。
「キクのこと、よかったのかい? アグレイ」
「ふん。引き止めたのに、出ていっただろ。他にどうすりゃよかったんだ」
「私が言っているのは、あんたがキクと一緒に行かなくてよかったのか、ということ」
アグレイが弾かれたようにばぁばを見た。
「あんた、本当はみんなと行きたかったんだろう」
「バカ言うなよ。居候がいなくなって、やっと元通りになったんだ」
「父親に似て嘘が下手なんだよ、あんたは。気づいてないのかい。それに月並みな言い方だけど、自分の気持ちに嘘を吐くってのは、いいことじゃないよ。あんたは若いんだから」
アグレイは怯んだように身を引いた。
「それにしたって、世界を守るために戦うだなんて、何だかな。俺にはイフリヤで手一杯だったのによ」
「世界だの何だの考えずに、仲間を守るために戦えばいいだろう。あんたはこれまでずっとそうやって生きてきたんだ。それに、戦う以外に才能なんてなさそうだし、あんた」
「……だけどよ、ばぁば。俺がいなくなったら、ばぁば、一人になっちまうじゃないか」
「ははあ、あんたが迷ってた理由はそれかい。寂しいわけないだろう。嫁も連れてこない男の世話をしなくて済むんだ。あんたがいなくなれば、家事がうんと楽になるよ。……仕事もないろくでなしを養う余裕は、私にはないんだ。さあ、とっとと出ていきなよ」
アグレイは、机上に視線を落とした。
数分後、アグレイの姿が消えた室内で、残ったばぁばは家族が映った写真を眺めている。
「寂しいに決まっているよねえ。でも、私も孫の重荷にはなりたくないしねえ」
だが、ばぁばは自分の気持ちに嘘を吐いたことを後悔してはいなかった。
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