第32話 旅立ち

「……だからね、レビン。これから、当分の間は会えなくなってしまうの。ごめんね」

 キクが出立の意図を告げると、レビンは黙って聞いていた。そして、不意に口を開く。

「キクお姉ちゃんは優しいからね。その優しさをイフリヤに置いとくのはもったいないよ。僕だけでなく、もっと他の人も幸せにしてあげて」

「レビンは聞き分けがいいのね。ありがとう」

 そう言ってキクがレビンを抱きしめた。少年は照れもせず顔を強張らせている。その二人に注いでいた陽光を遮断して影が作られた。怪訝に見上げたキクが目を見開く。

「アグレイ? どうして……」

「俺も、お前と一緒に行くことにした。異論と文句は受けつけねえ」

 アグレイは、キクとレビンを引き剥がすように、その間に割って入った。

「詳しいことは歩きながら話すからよ、キクは先に行ってくれ。俺も、レビンと別れの挨拶もしたいしな」

 キクは突然のことに戸惑っていたが頷いてレビンに手を振る。レビンは無表情に手を上げて応じた。キクの姿が曲がり角に消えると、レビンの喉から高い呻き声が上がった。

 レビンは泣いていた。キクの前では気丈にも耐えていたが、その限界に達したのだ。キクを大好きなこの少年が、キクと会えなくなると知って、平静でいられるはずがない。それをキク本人の前で見せなかったのが、本当に偉い少年だとアグレイは敬服した。

「うぇ、あ、アグレイ。ギ、クお姉ちゃんのごど、守って上げてねぇえ……」

「ああ。レビンの代わりに、俺がキクを守る」

「お、男と男のやく……、約束だからね」

「お前は凄いな。いつだって自分じゃなくて、キクのことを考えている」

 アグレイはレビンを抱き寄せた。たちまち、アグレイの服には涙と鼻水の染みが広がる。


「二人で、何を話してたの?」

「男の約束に誓って、内緒だ」

 レビンと別れた二人は、イフリヤの周囲にそびえる壁の出入り口である管理局に向かっていた。道すがら、他愛もない会話を交わしていたが、キクは核心に近い問いを尋ねた。

「じゃあ、何で私と一緒に来てくれるの?」

「お前のことが心配だってだけじゃ、理由にならないか?」

 ぶっきらぼうに言ったアグレイの言葉に、キクが頬を朱に染めた。この際、思い切って言おうとキクが決心を固める。

「私が界面活性に飲まれそうになった、あのとき、アグレイが言ったよね。『もう二度と目の前で大切な人を失わない』って。あの言葉は、ちょっと嬉しかったかな」

 アグレイが恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。

「まあ、な。お前は、俺の大事な仲間だからよ」

「あ、仲間ですか……。そうですか……」

 その程度のことを言うのに、何を照れているんだ、この男は。キクは途端に不機嫌になり、アグレイはその原因が理解できずに、やっぱり黙っていた。

 奇妙な雰囲気の二人が管理局に到着した。警官を定年退職して管理局の番人となった老人が対応に出て放った一言に、アグレイが痛恨の叫びを上げた。

「出境許可証はあるのかね?」

「しまった。勢いで飛び出してきて、忘れていた」

 イフリヤの市民はほとんどが身体を侵蝕されているため、市内から出るには、侵蝕の度合いを考慮した暴走の危険性を審査し、それを通った者に渡される統括府が発行する許可証が必要なのであった。その審査と発行には、最低でも数時間はかかる。キクはその存在を知らなかったし、アグレイも事の成り行き上それを失念していた。

 そのとき、番人の詰所から一人の男が出てきた。

「だから言ったろ、爺さん。もうすぐ、ここに一組の男女が来るってな」

「フリッツ。お前……、何でこんなところに?」

「お前らの忘れ物を届けるためだよ」

 進み出たフリッツは、懐から二枚の紙片をとり出した。それは、アグレイとキクの名義の許可証だった。

「許可証? だけど、これは本人が直接統括府に赴いて申請しなけりゃあ……」

「ま、課長には、じゃなかった、長官代行には小言を食らうだろうがな。だが、イフリヤ市を救った奴らに、面と向かって文句を言える奴なんていないぜ。そうだろ、爺さん」

「わしは、許可証を持っているかどうか、確認するだけさ。それ以外のことは知らんよ」

 フリッツの手から許可証を受けとって、老人は門を開けた。その先は、二人が見たことのない世界に続いている。

 アグレイは、一番自分のことを知っている相棒に、感謝の意を込めて頭を垂れた。

「フリッツ、お前には世話になりっぱなしだな」

「アグレイ。お前の存在はイフリヤじゃ狭すぎるんだ。お前は、世界を見て来い。俺は、お前がいない間、この街を守っているからよ」

 キクは、フリッツに頭を下げて扉をくぐった。アグレイも続こうとして、ふと思い出したようにフリッツに向き直る。

「そういえば、お前のとっておきの話とやらを、聞いてなかったな」

「ああ、そうだった。お前が帰ってきたら、話してやるよ。とっておきの話をな」

フリッツは、アグレイににやけ面を向けた。


 イフリヤを出た二人を迎えたのは、珍しくもない風景だった。草原のなかに、地平線まで伸びる道が走っている。新しい世界に旅立ったはずのアグレイとキクを、見慣れた顔触れが揃って見返した。

「あら、アグレイとキクではありませんの? どうしまして?」

「む。これでは、黙って出立した僕がバカみたいではないか」

 二人より先んじて旅立ったはずのユーヴとリューが、未練を捨ててイフリヤを後にしたアグレイとキクが最初に目にした相手である。出鼻を挫かれるとは、このことであった。

「お前ら、何でまだここにいるんだ」

「いや、それがね、許可証がどうのと言われて仕方なく統括府で申請したんだ。その作業で時間をとられちまって、ようやく準備ができてね。格好つけて一人で行こうとしたのにリューシュ君には追いつかれるは、君達にも見つかるは、参ったね。あっはっはっは」

「わたくしも、ちょっと予定が狂ってしまって。偶然ユーヴと会ったので、一緒に行こうということになりましたの」

「そうなのかよ」

「じゃあ、三人で一緒に行けばいいじゃない」

「おっと、もしかして僕が人数に含められていないのかね?」

 一同の会話を聞きながら、アグレイが先頭に立って口を開く。

「ま、いいか。お前らと一緒だったら、暇にならずに済みそうだ」

「む……」

「まあ……」

「ちょっと、何であんたが偉そうに前を歩くのよ」

 抑えようとしても零れてしまう笑みを見られるのが恥ずかしく、仲間達が目を向ける先で、アグレイは顔を見られまいと必死に歩を進めた。

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『侵蝕』 小語 @syukitada

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