第10話 旅人リューシュの、のほほん紀行

 翌朝、四人で朝食を済ませてアグレイが出勤し、ユーヴが本棚の前の寝床に横たわるのを尻目に、キクは日課となった掃除と洗濯に勤しんでいた。

「ちょっと、邪魔」

「むぅ……」

 邪険に箒で押しやられ、敷布団を被って逃げるユーヴが論駁する。やや語調は弱かった。

「一応言っておくがね……、僕は君より十は年上なんだよ」

「だから何? 年上として敬われたいなら、それらしく振る舞うのが当然でしょ」

 年長者の威厳に欠けること甚だしい自称詩人の男は、完璧に言い負かされる。キクが離れると居場所に戻り、本棚の一冊をとり出して読み始めた。だらしなく横たわったまま。

 出会って間もなく、キクは内心でユーヴとの上下関係を確立させた。無論、あの男が下である。ばぁばは積極的に家事を手伝おうともしない居候に対して、案外に寛容だった。

 昼を過ぎてしばらくすると、ばぁばがキクに声をかけた。

「キク、悪いけど買い物に行ってくれないかい?」

「私が、ですか?」

 これまでは買い物はばぁばの役目であった。なぜこの日に限ってと訝るキクだったが、購入する食材を教えられ、金銭を渡されると部屋を出ていった。

 ばぁばとユーヴが二人きりになって、身の危険を覚える様子もなく端然とばぁばが茶を飲んでいると、寝転んで本を読んでいただけのユーヴが唐突に口を開いた。

「ばぁば、この本の持ち主は必死に料理を勉強したらしい。本の端が擦り切れているし、血がこびりついている。包丁で指でも切ったかな」

 ユーヴが手にしているのは料理本の一冊だった。

「そうさ。いい娘だったけどソフィーは料理が下手でね。嫁入ってから猛勉強したのさ。私も手伝ってね。不器用でよく指を切って、手が包帯だらけになっていたっけねえ」

「その愛情でアグレイ君は養われたか。僕のような素性の知れぬ者を拾ってくれたのも、そのせいかもしれないな。感謝しなければならないね。それにしても……」

ユーヴは一度言葉を切る。

「『同情は親切心を生むが、我々は憐れみを持たずに親切であることはできないのだろうか?』というのは先人の問いだけれど。うむ、彼は……」

 ばぁばはユーヴの人間性を計りたいと思い、キクを買い物にやったのだった。キクと異なり一目でその底を見通せない存在だったが、信用に足る人物だとやりとりで確認した。

 ばぁばはその後、黙って茶を飲むだけだった。ユーヴも動かずに寝転んでいる。


 キクは、現在居住している地域の地理に疎かったため、買い物に手間をとった。キクが小休止する地点を探しがてら散策していたその眼前に、その女性は現れる。

 広場に幾つかの長椅子が置かれ、敷地の中央には噴水が設けられている。それは奇しくも、アグレイとフリッツ両人が初めて会った公園だった。キクは長椅子の一つに腰かけ、荷物を傍らに置いた。ささやかな面積の公園にはキクの他に、噴水の縁に座っている女性しか人影はない。その女性が何を思ったか、キクの前に進み出て話しかけてきた。

「すみません、つかぬことを伺いますが、この街に宿屋はありませんでしょうか?」

「え……?」

 キクは驚いて女に目を向けた。イフリヤに宿屋が存在しないことは、周知のことであったからだ。それを知らないとなれば、当然イフリヤ以外の出身である。入境者の存在を知らないキクは、困惑するだけだった。

「あら、失礼しました。わたくしってば、名乗るのを失念しておりましたわ。ご容赦遊ばせ。わたくし、リューシュという名前です。この街に来て、まだ日が経っておりませんの。宿屋がどこにあるか、ご存知ないでしょうか?」

 二十代前半の女性であった。リューシュは、異性であれば思わず見惚れ、同性であれば嫉妬するほどの端正で気品ある容貌だった。陽光を織りこんだような輝く金髪と穏やかな翡翠の瞳を有している。どこか温室育ちで世間知らずそうな雰囲気を漂わせている。

 背中には身の丈ほどもある大きな木製の何かを背負っていた。キクの知る由もないことで、それは巨大なクロスボウという射撃の武器であった。

「この街には宿屋はありません。全部廃れてしまって」

「まあ、そうですの? 困りましたわ」

 あまり深刻ではなさそうにリューシュは小首を傾げた。

「あ、私はキクというんですけど、統轄府に客室があるみたいですよ」

「キクさんですか、いい名前。よろしくお願いしますわ」

「はあ、よろしく。それでですね……」

「統轄府の客室って何ですの?」

 どうにも会話が噛み合わず、掴みどころのない女性だ、とキクは思った。同時に、見知らぬ土地で困惑している女性を放っておけないとの義務感が、心の内奥で燃え始める。

 キクは丁寧に統轄府のこと、手続きをすれば設けられた客室を利用できることをリューシュに説明した。居候してからアグレイに聞いたことがある。

「……でも、あそこは雑然としていて居心地が悪そう。もっと静かな場所はないかしら」

 リューシュの台詞は、さりげなく贅沢な物言いではあるものの、キクは別の理解を示した。目の前のおっとりした女性が、アグレイやフリッツのような男どもが集まる、とキクが先入観を抱いている、統轄府に行くのは危険である。しかも美人だ。これは危ない。

「今までは、どこで寝ていたんですか?」

「ええ、そこですわ」

 リューシュはしなやかな指をキクに向けた。いや、その下の長椅子を指し示した。

「ここですかッ?」

「ええ。ほら、そこが寝ているときの涎の跡です」

 可哀想ッ。キクは胸中で叫んだ。苦境が自分のことのように、目には涙の膜が薄く張っている。はぐれ孤児院での奉仕に認められるように、キクの心的動力源は不憫な他者を救済したいとの願望に顕著な反応を見せる。このときも、その燃料に火が点いたようだった。

 警察と警備隊が哨戒しているが、治安は必ずしもよいと評せない。しかも、界面活性や喰禍なんかが発生したら、どうするのか。のんびりしたこの女性のことだ、逃げ遅れてあたら命を失うだけでないか? やや失礼な想像をし、キクは使命感を心身に漲らせる

「リューシュさん、家に来ませんか? 私、あるお宅に居候しているんですが、そこの主人であるお婆さまが親切な方なんです。頼み込めば何とかなるかもしれません」

「まあ、嬉しいですわ。そのお誘い、甘えても構いませんかしら?」

「はい。リューシュさんの境遇を説明すれば、きっと分かってくれます」

 リューシュは端麗な眉目を笑顔で輝かせ、両手を広げて回転しながら軽やかに身を躍らせる。流麗な金髪が金色の粒子を振りまいて眩しいほどだった。無垢な挙動は芝居がかっていても自然なものに見える。

「何て嬉しいことかしら! ここにきて初めてお友達ができましたわ。今日は素敵な日ですこと!」

 その後、キクはリューシュを連れて帰路を辿った。

「リューシュさん……」

「わたくしのことは、リューと呼んで下さいな。だってわたくし達、もうお友達でしょう」

「リューシュさ……、いえ、リュー、私のこともキクと呼んで下さい」

 そう言ってキクは口を閉ざした。それ以上は感激で声にならなかったのだ。人生の大半を孤児院で過ごしたキクにとって、満足に語り合える同世代の女性はいなかった。まして、孤児達を養う立場になってからは、友達などという相手を持つ余裕は無かったのだ。

その初めての友人に、キクは忠告した。

「変な男が二人いるけど、そのことは気にしないでね」


「キクが帰ってないだと?」

 帰宅して早々、アグレイは声を荒げる。まだ居座っているユーヴを睨み、視界に欠けた姿をばぁばに尋ねた後のことだった。

「ばぁば! 何でキクを買い物に行かせたんだ。万が一のことがあったら、どうすんだよ」

「あんたねえ、子どもじゃないんだよ。慣れないから迷っているだけじゃないかい」

「よくそんな安心していられるな。キクの身に大事があったら……!」

「何なの?」

 続けて問われた声は、アグレイの背後からだった。慌てて振り向いたアグレイの視界に、戸口で佇むキクが映る。

「なッ、帰ってたのかよキク。それなら声くらいかけやがれ」

「かけたじゃない。あんたが聞こえなかっただけでしょ」

 キクはその話題に拘泥せず居間に入った。アグレイは若干の肩すかしを食った気がしたが、キクの後背に新たな人物が現れると、さすがに息を飲んだ。

「おい、キク。その後ろの奴は誰だ?」

 キクが伴っている女性を目で指して、アグレイは混乱の衣を纏った声を押し出す。それまで読書に埋没していただけのユーヴも、ようやく異変を察して謎の女性に視線を送る。困惑よりも先に、女性の美貌に感嘆の唸りを漏らした。

「この人はリューシュさんといって、旅をしていてイフリヤに立ち寄ったそうなの。今晩泊まる宿もないらしくて、ここに案内したんだけど……」

「わたくし、リューシュといいます。実は宿泊できる場所を探しておりまして、キクの言葉に甘えて伺いましたの。お邪魔でなければ、一宿をお願いしたいのですわ」

 アグレイは黙り込んだ。はぐれ孤児院を営んでいたキクが、困っている人間を放置できないのは承知していたが、まさか他人を家に連れこむとは。

 そして、リューシュの素性にもすぐに見当がついた。フリッツの言葉が脳裡をよぎる。美人で世間知らずそうな女の入境者。ユーヴの正体を知ったときの悪寒が蘇った。

「キクまで拾いものをしてくるとはねえ。あんたも朱に混じって赤くなったのかい?」

「居候の分際で出過ぎたまねだと分かっています。でも、ばぁば、リューを野外や統轄府に一人で置いておけないんです。お願いです、彼女を泊めてあげて下さい。もし、三人も居候を賄いきれないんだったら……、出ていきます。彼が」

「えぇッ?」

 キクに指差されたユーヴが驚倒して身を仰け反らせる。

 ばぁばに、キクを赤く染めたと称された朱のアグレイは案外に落ち着いて思案していた。キクがお節介であることは理解している。そして、それは決して彼女の短所ではなかった。

「どうすんだよ、ばぁば」

「うーん、まいったね」

「迷惑でしたら、ご遠慮なく言って下さいな」

 笑顔を絶やさないままのリューシュは、拒絶の返答を受けても表情を変えずに立ち去りそうだった。慌ててキクがさらに言い募ろうとしたとき、ばぁばが掌で機先を制する。

「まあ、待ちなさい。若い子は気が短くていけないね、誰も駄目とは言ってないよ。人数が増えたから、おかずを一品増やさないとね。その品を何にするか悩んでたのさ」

「じゃあ?」

「孫が増えるのは、老体を持て余す私は歓迎だけどね。あんたは、アグレイ?」

「俺は、ばぁばがよけりゃあ、それでいい」

 家人の了承をえて、リューシュは歓喜の花を満面に咲かせた。

「今日は何て素晴らしい日なのかしら! お友達だけでなく、こんな素敵な家庭に出会えるなんて、夢のよう!」

 公園でそうしたように、リューシュはいっぱいに両手を広げて感情の赴くまま、全身で喜びを表現した。場所が広大な花畑ならこの可憐な女性に相応しい振る舞いだろうが、ここは空間の限られた室内である。振り回した手がアグレイの横顔を襲った。

「うわ!?」

 相手が無邪気なだけに予測できなかった一撃を、アグレイは反射的に避けた。安全を確保するためユーヴのいる壁際まで後退する。リューシュはその勢いで椅子と食卓に激突し、立て続けに鈍い音を響かせた。動揺したキクとばぁばを意に介さずリューシュは回り続ける。

「アグレイ君、あのリューシュ君という女性は、もしかしたら貴族の出身かもしれない」

 そう言ったユーヴが意外に真剣だったので、アグレイも声を低めて問い返した。

「確かに上品な顔しているがな。何で分かるんだよ?」

「彼女、君や家具に気を払わなかったろう? 貴族の邸宅は、こんな家と違って格段に広いからね、何かにぶつかる心配なんてないんだ。こんな狭い部屋に慣れていないのが、その証拠であるからして……、って、あれ?」

 ユーヴは、振りかざされたアグレイの拳が落下してくるのを、成すすべなく見ていた。

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