第9話 自称詩人ユーヴ登場
アグレイも家と職場の往復だけという無味乾燥な人間ではない。数日に一度はフリッツの誘いに応じ、居酒屋で酒杯を傾けることもあった。ここ最近はその機会を見送っていたアグレイが、久しぶりにフリッツと酒を酌み交わしていた。
「今日は随分と機嫌がいいようだな、アグレイ。ほれ、もう一献」
「ん、済まない。分かるか、やっぱり。何だか知らんがキクが元気になってな。俺もようやくレビンとの約束を果たせたし、胸が軽くなってよ」
何もきっかけがないのに元気になるわけもないだろう、フリッツは思っても口には出さない。アグレイが一息に杯を干すと、再びフリッツは酒を注いでやる。
「おう、悪いな」
酔ってもアグレイの所作に乱れはない。ただ、顔は赤く染まって相当な酒量を物語る。対してフリッツは頬にも赤味を帯びることなく、平然とにやけ面を浮かべている。
「そうだ、お前は入境者のこと聞いたか?」
「いや?」
アグレイは興味を引かれてフリッツに顔を寄せた。店内は混雑しているほどではないが、酔漢同士の会話は自然と声高になり周囲は騒がしい。
「つい昨日、入境許可を得て外部の人間がイフリヤに来たんだとよ。それも二人だ。別々に来たから、他人同士らしい。片方は自称詩人の変わった男で、もう一人は美人だけど世間知らずそうな女だってよ。こんなの初めてだって、課長も驚いていたぜ」
警備隊の課長は禿頭の中年男で、実戦に出ないが隊員の報告に基づいて警備の地域を采配し、統括府長官と隊員の橋渡しとなる役職だ。あの感情に乏しい中年ですら驚いたか、とアグレイは別のところに感嘆した。
「確かにな。ここ数年で何人かしか外部の人間を見てないぜ。それが、一日で二人だと?」
「面白いと思うだろ」
「お前の話だと、どっちも変人らしいじゃねえか。大丈夫かよ、そんな奴らを街にいれて」
「一応、許可を通過したんだ。危険性はないと判断されたんだろう」
「ま、いいか。問題なんて、このイフリヤには山積していることだし。それよか、もっと面白い話題はないのかよ」
「よくぞ聞いてくれた。実は俺のとっておきの話があって……」
「そうだ。ちょうど昨日、俺とキクでレビンを訪ねたんだ。お前には感謝するぜ、あんないい場所を手配してくれたんだからな。だけどよ、帰りにキクが俺とレビンの内緒話を知りたがってよ。だから女は不粋なんだよな。別にたいそうな内容じゃないんだぜ……」
フリッツは、やや興醒めした表情で友人の話を聞いていた。
アグレイは仕事を終えて帰宅するところだったがその足どりは重い。キクが元気をとり戻したのはよくても、頭の上がらない女が家庭に二人もいては、彼は敷居を跨ぎづらい。
酒の助力を借りたいが、連日酒の匂いとともに帰宅するほどの勇気は持っていなかった。
引きずるように足を自宅に向けるアグレイの前に、その男が現れた。薄汚れた布を纏って道路に寝転んでおり、アグレイは立場上看過することができず面倒そうに声をかけた。
「おい、あんた。どうかしたのか? おい! 酔っているのか?」
「何だね、いきなり。人が気持よく眠っているところを」
男は緩慢に起き上がりアグレイに顔を向けた。
二十代後半だろうか。焦げ茶色の頭髪と瞳を有し、端正だがどこか甘ったれた顔立ちをしている。うだつの上がらない学者とでも形容できそうな風貌だった。
「こんな道端で寝る奴があるか。お前の家の寝台が地べたより寝心地悪いんじゃなけりゃ、早く帰るんだな」
「うむ。君の言葉は粗野だが、面白い表現をしているな」
男が目を輝かせて評し、アグレイは虚を突かれたように眉をしかめた。
「君の主張はもっともだが、残念なことに僕には家がないんだ。何せ、この街には来たばかりでね。そうだ、宿屋を知らないかな? 探しても見つからんのだよ」
アグレイが閉口したのは、この男の話し方にも理由があるが、フリッツの話を思い出したからだ。例の入境者だろうか。変わった男というのは該当している。残りの項目は……。
「イフリヤには宿屋はない。それより、あんたは何をしている人なんだ?」
それを聞いた途端に男は立ち上がると、したり顔を浮かべて高々と宣言する。
「よくぞ尋ねてくれた。僕は……そう、詩人さ!」
「お前が入境者か……。俺は統轄府警備課警備隊所属のアグレイだ。イフリヤに入った以上、奇妙な行動は慎んでもらいたいんだが」
「ほう、アグレイ君か。自己紹介されたからには、僕も名乗る義務が生じたわけだ」
相手の伝えたいことを無視して、自分の言いたいことだけを語るのは、この男の特質だろうか。短気ではあっても不当に怒りを覚えないはずのアグレイの額に青筋が浮かぶ。
「そう、僕こそ流浪の詩人にして、啓蒙の旗手! 風とともに歩み、雲とともに流れ、知識という名の種子を世界に育む。その名は、ユーヴェ・フォン・シュリーフェン! 現在二八歳にして、世の女性には吉報となる未だ独身さ。あ、
「いらん」
アグレイは有無を言わさず、ユーヴェ・フォン・シュリーフェン氏の胸倉を丁重に掴み、一気に締め上げた。
「ぐえ。君、ら、乱暴は止したまえ」
「お前、『流浪の詩人』だか知らんが、ただの住所不定無職じゃねえか。お前みたいな怪しい人間を街中に放っておけるかよ。留置所に連行してやる」
「待ちたまえ、ちゃんと許可はとってあるんだ」
男が焦って懐から出した許可証を見せられると、アグレイも唸りながら解放せざるをえない。それでも、相手を射るような眼光の鋭さは変わらなかった。
「ちッ、だがお前……、えーと」
「僕は高貴な人間だが、君のような一般人と壁を設けないことにしている。僕のことは気軽に愛称で、ユーヴと呼んでくれて構わない」
ユーヴに本能的に躍りかかろうとした左手を右手で抑えつつ、アグレイは言った。
「ユーヴ、こんなところで寝られたら困るんだよ。イフリヤに宿屋はないから、その代わり統轄府に客室が設けられているんだ。手続きすれば使えるし、そこを利用してくれ」
「それは聞いたんだが、いざ入ってみたら、二部屋とも先客がいてね。にやけ面をしていた男に満室だって教えられたんだ」
「フリッツ……!」
客室を不法占拠している不良職員を恨み、アグレイは怒気を乗せて友人の名を呼んだ。ユーヴを放置することに危惧を感じていると、ユーヴは恐るべき提案を発してきた。
「僕としてはどこで寝ても構わないんだが。これも何かの縁で、君のところで厄介になれないかな。君、統轄府警備課警備隊所属のアグレイ君なんだろう。路頭に迷った人間を保護するのも君の義務なんじゃないのかい?」
聞き流したかに見えて、アグレイの名前どころか所属まで覚えているのは抜け目ない。役職と名前を覚えていることを言明しつつ、自身の願望を口にしたのは脅迫にも似ている。
「悪いが家には居候が一人いるからな。これ以上は無理なんだ」
「一人増えるも二人増えるも一緒だよ」
「お前が言うな……!」
アグレイは冷たい汗が額を流れるのを感じた。キクの場合は深刻な事情があり、ばぁばもそれを読みとったからこそキクを家庭に置いているのだ。こんな変な野郎を連れて帰っては、アグレイの正気が疑われてしまう。
この男が寝ていたところを見過ごせばよかったが、まさかもう一度ここで寝ろとは、起こした張本人であるアグレイは言いづらい。しかも素性を知られたのは不覚であった。
観念したアグレイには、念を押すのがせめてもの反抗だった。
「いいか、今日だけだからな」
「うむ。分かった」
口先だけで応じたユーヴを従え、アグレイが居間に入ると、当然ながら二対の視線が奇異を乗せて注がれた。
「あ、あのな、ばぁば。こいつなんだが、泊まる場所がないらしくてよ、今日だけ泊まらせてやってくれないか。いや、くれませんか」
「まあ、この家は部屋が多いから困らないけど。あんたも犬や猫のように人間を拾ってくるねえ。ただ、夕飯を三人分しか用意していないから少し足りないかもしれないよ」
臆病さには程遠いアグレイが怯えながら切り出すと拍子抜けするほど簡単に許諾され、アグレイの方が驚いたくらいだった。キクは黙って様子を見ている。自分が居候だけに、口を出す立場ではないと分かっていた。
「いや、すまないね。僕はユーヴェ・フォン・シュリーフェン。ユーヴと呼んで下さって結構だ。屋根をともにさせて頂くにあたり、これからよろしくお願いする」
「これから、だと?」
さりげない言葉を聞き咎めたアグレイが口中で呟く。だが一同の場はすでに食卓にあった。着席したアグレイの前に、いつもより少ない食事が並ぶ。勿論、彼だけでなくばぁばとキクの量も減っている。やはり浅慮だったか、とアグレイは後悔した。
「ところで、ユーヴはあんたの部屋に寝かせるんだろ」
そうばぁばが放ったのは、食事が終わりに近づいたときだった。
「え? 俺の部屋は……駄目だ」
「だけど、それじゃ、どうするのさ」
「僕はキク君と一緒でも構いませんがね」
ユーヴの言葉は冗談に属していたが、ユーヴが笑顔を向けた先で、キクが久々に見せた『キクお姉ちゃんの怖い顔』と出会うと、ぎこちなく目を逸らした。
「私の部屋も隣は空いているけどね」
「いえ、ばぁば。恐縮ですが結構で……」
ユーヴが両手を胸の高さに上げて謝絶すると、結局彼の寝場所の候補は残されていない。
「うむ……」
視線を巡らせたユーヴが居間の一角に焦点を留めた。廊下に続く扉がある壁と反対の壁には窓があり、近くには本棚が置かれている。アグレイの母、ソフィーが愛用していた料理本などが埃を被っていた。
「僕はあそこの床で寝ることにしよう。敷布一枚借りれば充分だ」
それまでの厚顔さが消え失せ、落ち着いた表情でユーヴが妥協した。アグレイとキクが意外さを隠しきれずに男の横顔を凝視する。
「あ、僕は食後に紅茶を飲む主義だから、よろしく」
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