第15話 敵
イフリヤで最初に界面活性が発生し、現在は最も侵蝕が進んでいるサクラノ公園に、その男がいた。長身を薄汚れた衣服で包んでおり、漆黒の瞳と頭髪をしている。瞳孔の奥には、青白い鬼火が宿っていた。男は何をするでもなく佇立しているだけだ。
アグレイやレビンがその姿を見れば、界面活性と前後して出没していた例の男だと判じるだろう。彼にとって、このサクラノ公園は安らぎの場であった。記憶を残していない彼が唯一鮮明に想起できるのが、ここの桜である。
彼が手に入れた力によって、ここサクラノ公園には季節を問わず年中桜が咲き誇っていた。花弁が舞い散り、風の流れに踊り狂う模様で視界が埋め尽くされると、胸が蠕動するような言いようのない感覚に襲われる。人間であればそれを至福と表すのかもしれないが、彼にはその観念は存在しなかった。
薄紅色の小片に優しく身体をなぞられると、耳にこびりついた幻聴が聞こえる。
「アルジー。アルジー……」
この声の主は誰だったか彼には思い出せない。自分も叫び返していたようだったが、なぜそうしていたのか。厚い雲に隠された空のように、答えは窺い知ることができない。
いつの間にか、彼の傍らに幾つかの影が寄り添っていた。そのうち、席次が一番高位の存在が語りかけてきた。
『蟲騎士を指揮官とした先遣隊が全滅させられた由』
『目的は達したか』
彼は尋ねた。その会話は空気を介する声音ではなく、思念でなされている。
『否。一隊は橋頭堡の構築に失敗せり』
彼は考えた。先遣隊の規模は小さくなく、人間の反抗があっても充分に任務は達成できたはずだった。知らぬ間に、人間はそれほど力を備えていたのだろうか。
イフリヤを含む通称〈曇天区〉と人間が呼ぶ一帯の喰禍と界面活性を彼は統率している。彼に課せられた役割は、彼の管轄内で人類に残された居住区を侵蝕することだった。つまり、イフリヤの占領である。わずかの考慮を経て彼は答えた。
『界面活性の足がかりとなる地点は、我が直々に赴いて確保せり。貴官らはその後、各自散開して人類を掃討すべきこと』
『命令を受諾せし』
言い残して影は消えた。
近々、イフリヤの人類に大攻勢をしかける予定がある。彼はその準備をせねばならない。
「兄ちゃん」
彼は意図せず口から言葉を発した。何の意味かも分からないその言葉は、発作のように彼の声帯を震わせる。発音すれば、桜と同じように甘美な心地が彼に去来するのだった。
彼はしばらくその快感に身を委ねようと、ずっとその場に立っていた。
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