第20話 窮地

 人の移動と大声のやりとりで、統轄府警務課警備隊の持ち場は喧噪を帯びていた。慌ただしい風景のなかで、悠然と腰を下ろしているユーヴとリューシュだけが浮いている。

 如何に勤労意欲に乏しいとはいっても、彼らだけが怠けているのは理由があった。警備隊の保有する切り札として待機を命じられているのである。

「ま、主役は最後に登場するものだからね」

 ユーヴはそう言って、職員が奔走するのを横に平然と紅茶の香気を楽しんでいる。安物の葉を使っているのに、たいそう美味そうに飲んでいた。リューシュは彼をも凌ぐ豪胆さで、この非常時に転寝をしていた。二人の厚顔振りを弁護するならば、昨夜から勤務が続いていて疲労の極みにあることだろう。

 その二人に、第三の鉄面皮が近づく。こんな事態でも口元に締まりがないのは、フリッツしか存在しない。人の気配を感じてリューシュが目を覚ました。

「よう新入り。優雅な時間を堪能しているところ悪いが、ちょっといいか」

「うむ、フリッツ君だったかな。何かね」

「アグレイの姿が見えないんだよ。招集をかけられたはずなのに、まだ現れないとは時間に厳しいあいつらしくない。そういや、あのキクって娘もいないな」

「そうだったのか。いや、僕達も昨日から帰っていないから分からないんだ。すまんね」

「そうか……」

 フリッツは何やら思慮深げな表情を作る。二人より遥かにアグレイとの親交が深い男は、結論をえたように顎を引いた。

「お前ら、ここにいていいのか」

 ユーヴとリューシュは互いに顔を見合わせた。

「もしかして、僕達は重要なところで置いてけぼりを食ってんじゃないかね?」

「わたくしも、そう思いますわ。アグレイとキクだけいないなんて、不自然ですもの」

 急に輝き始めた二対の瞳が出口に注がれる。


 イフリヤの中心を軸のように貫く大通り。それが、今は禍大喰となったアルジーが居城とするサクラノ公園に至る道程だった。両脇を背の高い建造物に挟まれて、かつて往来が盛んだったこの場所も、現在は人影が絶えている。

 無人の寂寞をアグレイとキクの靴音だけが満たしていた。この道路には侵蝕された場所が無く、敵の妨害に遭わずに済んでいた。

 高く響いていた足音の調律が不意に乱れて緩やかになる。二人が立ち止まったのは、目前に招かれざる相手が徒党を組んでいたからである。岩魔の数は十体ほどで、本来なら緑の体表が黒に変わっているのが異質だった。

「この数じゃ足止めにもならねえぜ、キクは下がってろ」

「二人の方が、早いに決まってるでしょ」

 素直に従うはずもなく、キクが彼の横に並ぶ。

 アグレイが先制して、強化した拳を先頭の岩魔に叩きつけた。鈍い衝突音を残し、よろめいた岩魔の頭部に幾何的なヒビが走る。打撃の外傷はそれだけで、岩魔は踏み止まると逆襲の棍棒で殴りつけてくる。

「く、倒せないだと?」

 剣状化したキクの右脚も、いつもならば岩魔を泥のように斬れるのに刃が入っても切断に至らず体勢を崩した。そこを岩魔につけこまれ、キクは後退せざるをえなかった。

「こいつら、普通の岩魔より強いわよ?」

 この岩魔は、禍大喰の直属の指揮下にある特別製の喰禍であった。岩魔に限らず、禍大喰直属の喰禍は同じ種類でも能力が向上している。

 アグレイ達はそのことを知らないが、彼らにとっては強敵であるという認識だけで充分だった。岩魔程度なら多少強くなっても、力量差が開いているだけに二人の敵となることもない。あっという間に岩魔は全滅した。

「くそ、意外と手間どっちまった」

 サクラノ公園に続く道をひた走りながらアグレイが言った。彼に並走しているキクが息を乱すことなく答える。

「これから出てくる喰禍は全部強くなっているんだよね。二人だけじゃ厳しいかも」

アグレイは返答せず、ただ足を動かすだけだった。

 大通りは道幅が広く、建物が曇天を鋭角的に切りとっている。道路と壁面は石造りで、空までもが灰一色の背景には明暗がない。曖昧な色彩に馴染まない二人の影が、路面に直線を描くように突っ切っていく。

 両側の建物が途切れて二人は大きな十字路に出た。広場のような空間を走ってその中心部の辺りに二人が達したとき、前方と左右に大規模な界面活性が発生した。これまでとは比べものにならない大きさである。

 静止して様子を窺うアグレイとキクの行く手を塞ぐように出現したのは、アグレイですら目にしたこともない多数の喰禍であった。一目では数え切れない。百体以上はいる、という概算がせいぜいであった。

「ここまで来て……」

 アグレイが呻く。悔しげに唸る歯が軋み上げた。

 大群を構成するのはほとんどが岩魔だ。煉鎧の巨体も散見し、一割ほど蟲騎士が混ざっている。さすがに、この二人でも覆せない戦力差であった。

「アグレイ、どうしよ?」

 戦うにも一点突破するにも多勢の敵だった。三方向を囲まれたアグレイは進退極まって、無言で怒涛のような喰禍の壁を待ち受けるだけであった。

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