第26話 相見える兄弟
道路の両端にあった建築物は姿を消していた。その代わりにアグレイとキクを包むのは、手入れのされていない雑木林と濃い緑の匂いだった。二人の視野には、小高い丘とその上に位置するサクラノ公園が悠然と待ち受けている。
「着いたぜ、キク。この坂を登れば……」
広場となった平地から伸びる緩やかな坂は、雑草のなかを歩道が蛇行して観光客を導いている。登るに連れて細くなる歩道の頂上に、サクラノ公園の入り口が小さく見えた。
「もう一息ね。大丈夫?」
「これくらいで疲れるわけがないだろう」
「……そうだね」
キクが尋ねたのは、禍大喰と化した弟とアグレイが戦えるかどうか、ということだ。意図してなのか、アグレイが的外れの返事をしたことにキクは言及しようとはしない。
ついにアグレイとキクはサクラノ公園の入り口に立った。
入口にある木製の看板はすでに朽ち果てていて読めないが、アグレイの古い記憶には両親と弟とともにそれを見上げた映像が残っている。
覚悟を決めるような短い呼気を吐いて、アグレイはキクを伴ってサクラノ公園の敷地に踏み込んだ。
年中無休で曇天のイフリヤ市にも季節は存在する。桜の時季ではないのにも関わらず、サクラノ公園には満開の桜が咲き誇っていた。灰色の背景に桜が舞い散り、桜の鮮やかさを幻想的に浮かび上がらせていた。
無数に散る薄紅色の花弁は地面に積もることはない。虚空の舞台を気紛れに舞って、大地という終幕に達すると、花びらは地面に浸透するように溶けていく。二人の身体に触れた桜も、粒子となって霧散してしまう。
そのとき、桜の乱舞に視界を奪われたキクがアグレイの姿を見失った。すぐそばにいたはずのアグレイが消え去り、キクは動揺して呼びかける。
「アグレイ、どこにいるの? アグレイ?」
キクの声にアグレイのそれが返されることはなかった。
アグレイはキクとはぐれたことにすら気づかず、惚けたような表情で歩を進める。
木々の間隙を縫って水上の煌めきがアグレイの頬に差した。公園の中央にあった大きな池も、アグレイの記憶と寸分違わずに座している。凪いだ空間に不自然な波が立っていた。あるはずのない蒼穹と太陽を宿した水面を認め、アグレイは確信した。
これは、アルジーが最後に見た光景なのだ。
アグレイが歩みを止める。
その先には、男が佇立していた。男は両手を広げて、全身で桜の乱舞を浴びている。無感動に、それでいて無心なその姿を改めて見ると、男はアグレイの母の生き写しであった。細面を包む流麗な黒髪。アグレイを超す長身の繊細な容姿の美丈夫は、まさしく成長したアルジーに他ならない。
「アルジー」
アグレイが名を呼ぶと、男は初めて気づいたように視線を向けた。瞳の深奥に蒼い輝きが鬼火となって燃えている。その燃料が未練か憎悪か、アグレイには判断がつかなかった。
「久しぶりだな、俺のこと覚えているか? 兄ちゃんだ。ずっと一緒に遊んでいたろ?」
アルジーは胡乱にアグレイを見やった。
「兄ちゃん? 嘘つけ。兄ちゃんは……」
アルジーは自分の頭上に手を掲げ、見えない誰かと背比べをするような仕草をした。
「こんなに大きいんだぞ。お前みたいに小さな奴じゃない」
自身の身長が伸びたことに気づかずにアルジーは言った。子どもの頃はまだアグレイの方が背は高く、いつもアルジーが兄を見上げていたのだ。
「だから、お前なんか兄ちゃんじゃない」
記憶を失ったアルジーに他意はなかっただろう。だが、アグレイは氷点下の刃物で 胸を刺されたように身を強張らせた。全ては、忌まわしい過去のせいである。
「お前を殺して、人間どもを根絶やしにする。それが、禍大喰の役目。死ね」
「あ……」
颶風となってアルジーが襲いかかる。アグレイは迎撃の構えをとったが、常のような迫力を感じさせない頼りなげな面持ちだ。握った拳も、内心の戸惑いを反映して震えている。
幻影の桜を舞い上げてアルジーが間合いに入った。右正拳というより、体捌きなど無視した粗雑な殴打を繰り出す。無造作なようでいて速い。アグレイは両腕を顔の前で合わせて頭部を防御した。
その強固な防備を強引にこじ開け、アルジーの拳がアグレイの頬に炸裂。後方に吹き飛んだアグレイを追って、アルジーはさらに加速した。片足を着地させて何とか体勢を整えたアグレイが目を向けると、先ほどまでいたはずの場所にアルジーの姿はない。その存在を捉えたのはアグレイの鋭敏な聴覚だ。
いつの間にか右側に回り込んでいたアルジーが、疾風のような両拳の連打を放つ。アグレイの反射神経と技術を持ってしても、それらを全弾回避することはできなかった。手の甲で弾き、首を曲げていなすが、数発が胴体に叩き込まれる。
苦痛の呻きを噛み殺し、アグレイが仕切り直そうと飛び退いた。恐るべきは、彼我の距離を固定したままアグレイが跳んだのと同じだけ前方に跳び、易々とアグレイを追い詰めるアルジーの体技であった。
互いの空間が粘着したようにアグレイの逃亡を許さないアルジーの弧を描くような左鉤打ちが、アグレイの側頭部に直撃した。頭蓋を貫通して脳を揺るがした衝撃に、アグレイの焦点が乱れる。意識が混濁したまま受け身もとれず、彼は地面を抉りながら滑走した。
本能のなせる業か、アグレイはよろめきつつも立ち上がる。一度の攻防でアグレイは消耗していた。
「痛えなあ。……だけど、お前はもっと痛かったんだろうなあ。怖かったんだよなあ。アルジー、ごめんなあ。俺が、見捨てたばっかりに」
アルジーの姿が琥珀の瞳のなかで次第に大きくなっても、アグレイはそれに気づいた様子はない。今のアグレイが見ているのは記憶の底に沈殿した、あの日の光景であるらしい。
ゆっくりと近づいたアルジーは、すでに戦意を喪失したアグレイを殴り飛ばす。派手に倒れても、アグレイは再び身を起こした。まるで、アルジーに殴られるためのように。
アルジーが眼前に立つと、アグレイの握り拳がついに力無く解かれた。
「好きなだけ、俺を殴ってくれ。……何だったら、殺したっていい」
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