第27話 背負っているモノ

 キクがアグレイを探すが、視界を埋め尽くすほどの花びらに遮られ見通しが利かない。

「アグレイ! どこにいるの?」

 キクが叫んでも返事がない。現実と遊離した世界に一人ぼっちでとり残されたような不安を抱き、キクはアグレイの姿を求めた。

 公園内をキクが進んでいくと、横合いに幻の天空を映した池が現れる。そこまで来たとき、肉を打つ不穏な響きがキクの耳朶に届いた。

 音のした方向に爪先を向けてキクは走った。そこで彼女の黒い瞳が見たのは、不遜に佇むアルジーと、満身創痍で立ち尽くすアグレイだった。

「大丈夫?」

 キクが駆け寄ってもアグレイは反応しない。虚ろな目をアルジーに注いでいるだけだ。

「ちょっと、アグレイ!」

「あ? ああ、キクか?」

「こんな一方的にやられるなんて、あなたらしくないじゃない。どうしたの」

「俺には、できない。殴れない」

 アグレイの横顔には普段の精悍さが欠落し、惑乱した少年のような表情があった。

「アグレイ、どうしちゃったのよ!?」

 キクが乱暴に肩を揺さぶってもアグレイはされるがままで、完全に生気を欠いていた。キクは歯軋りすると、アグレイを放ってアルジーに対峙する。

「分かったわ。あなたが戦えないのなら、私があいつを倒す」

 キクは右脚を横に伸ばして刃に変形させる。アルジーは興味も無さそうにそれを眺めていたが、それは奇襲されても即座に対応できる余裕があったからにほかならない。

 キクが先手をとった。側転と後転を織り交ぜた変則的な移動から、横薙ぎの一撃を見舞う。アルジーは回避も防御もしなかった。ただ、キクの攻撃が当たるよりも速く踏み込んで掌底を打っただけだ。

 弾け飛んだキクが弾丸のように大地に激突する。

「強い……。私じゃ、戦うことすらできない」

 這いずってアグレイに近寄ろうとするキクの前に、アルジーが立ちはだかった。

「アグレイ。私じゃ、勝てないよ。あなたしか、勝てる人はいないんだよ」

 アルジーは物体でも持つようにキクの頭部を掴んで、高々と掲げた。キクは地に足が着かない高さに吊るされ、四肢を垂れ下げている。

「あなたが諦めたら、この街はどうなるの」

 アルジーが手に力を込め、華奢な腕に筋が浮き出た。頭蓋骨を軋ませたキクが、声に出ない痛みに息を押し出す。

「ばぁばとレビンに約束したんでしょう。イフリヤを平和にするって。青空を見せるって」

 その名前を聞いて、アグレイが顎を持ち上げた。

「ユーヴとリューは、アグレイを守るために戦ったのに……。これじゃあ、みんなの気持ちが無駄になっちゃうじゃない」

 アルジーが拳を握りしめる。それでキクを粉砕するために、後ろに手を引いた。

 アグレイは、彼にとって大切な人物の顔を次々と思い浮かべた。琥珀の瞳が発する光彩は次第に鮮烈になっていく。

「あなたは、家族を見捨てたことを後悔している。それなのに、あなたは自分を信じている人達を見捨てて、また裏切るつもりなの」

「さよならは終わったか、人間」

 アルジーが、撓めた力を乗せた拳をキク目がけて打ちつける。当たれば跡形もなく頭部を爆砕する威力を秘めた打撃の標的となったキクは、きつく瞼を閉じた。

 重々しい炸裂音が場に満ちた。その音源はキクではない。空中に投げ出された彼女を受け止めたのは、力強い腕の感触だった。

 キクが双眸を開くと、アグレイが彼女を片手で抱いており、右腕の先では固く握りしめられた拳が、敵を殴り飛ばした余韻に震えていた。

「俺は、もう二度と大切なモノを失わないと決めて、強くなったんだ。おかげで目が覚めたぜ。ありがとよ、キク」

 それは、みんなが希望を託すに値すると信じたアグレイの姿だった。アグレイは丁寧にキクを下ろすと、ふと気遣わしげな視線を向ける。

「あの、俺が不甲斐無いせいで痛い思いをさせてしまってだな、申しわけないというか、何と言いますか……」

「そんな謝罪なんか、後でいいわよ。それより、アグレイ……頑張ってよ」

 アグレイは、キクの眼差しを真正面から受けて頷いた。そして、アグレイに殴られて大の字になっているアルジーに向き直った。予期しなかった一発が効いたらしく、アルジーが立ち上がる動作は鈍い。

「アルジー。俺は、あのときお前を見捨てるという過ちを犯した。だからこそこれ以上、間違いを重ねるわけにはいかない。今の俺にとって大切な人達を守るために、俺は……お前を殴らなきゃなんねえ」

 アルジーは、アグレイを強敵と認めた。アルジーの内面から湧き出す鬼気が、物理的圧力となって旋風を生み、渦を巻いて桜をさらう。薄紅色の幕の奥に控える男は、黙然とアグレイを見据えている。

 アグレイは、右手を強化して蒼い燐光を宿らせた。右手から湯気のように立ち昇る瘴気に触れると、桜はたちまち青い炎に焼かれて消えた。

 桜の奔流に埋め尽くされた舞台で、兄弟は最後の語らいを拳で交わそうとしていた。

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