第41話
痛みに、意識が朦朧としてきた。散乱した陶器の破片が、肌を刺す。
「まだ話は終わってないぞ? ローランド教団員?」
「ぐっ……」
どこか愉悦を含んだ声が降り、容赦なく腹を蹴られる。痛みや吐き気よりもフェブリスの体を侵食するのは絶対的な恐怖だった。
「何故、あのような下賤に手を貸している? それと聞いているぞ? 橋を塞いでいたそうだな。教団員ともあろうものが、何をしていた? 貴様の価値は、魔族からフェルク教を奪い、ゴート教を浸透させることだ。何を勘違いしている? 自我など、貴様には与えていない」
司教の言葉が深く深く、突き刺さる。悔しさと憎悪が、膨れる。
(フェブリス、代わろう。ぼくが請け負うから。ね、フェブリス)
心の奥で、声がする。キフェルリリィが心配そうに呼びかける声。それは言うなれば痛みを感じない自分。分かたれた、もう一つの自分。怒りも憎しみも飲み込んで耐え抜く、取り繕った弱くて強いもう一人の自分が呼びかける。
キフェルリリィに意識を明け渡せば、どんな形でも終わる。分かっていた。侮蔑と暴力が降りかかる中で、フェブリスはそれでも首を振る。
「いや……だ」
「強情な奴め。大人しくあれは偽物のグリードフェルクだと証言すればいいものを」
司教は真偽を問うつもりはない。ゴート教会にとって、自分たちにとって都合の良い事だけを汲み上げるために、彼らはあらゆる手段で証言させる。そのやり口は、良く知っていた。
フェブリスが自分の命の為に、オーヴスを売り渡すのを待っているのだ。フェブリスは、そんな事はしたくなかった。そしてキフェルリリィも、その点は同じで。
「……今ならまだ、許してやるぞ? 貴様の罪も不問に伏してやる」
(フェブリス。もういい、もういいから。頑張らなくていいから)
「今大人しく真実を口にすれば、教団員としてまた働かせてやろう。そうだな、偽物を暴いた罪で司教補佐官としてとりなしてやってもいい」
言いながら、司教の靴底がフェブリスの頭を踏みつける。もう痛みは感じていなかった。
ただ悔しくて、哀しい。憤りで目が熱い。キフェルリリィの呼ぶ声が、震えている。泣いているのかもしれない。
木製の床が、視界の中でぼやける。再び脇腹を踏みつけられ、くぐもった悲鳴が零れる。ほとんど動かない体を、それでも少しでも防御するために無意識に体を丸めていた。
不意に、胸倉を掴まれ体を強引に起こされる。鋭角な痛みが、頭に響く。
「少しくらい、命乞いでもしたらどうだね? ん?」
返答の代わりに、フェブリスは司教を睨む。憐れな物でも見るように、司教は鼻で笑う。
「まったく、馬鹿な魔族だ。大人しく従っていれば、良かったものを」
吐き捨てて、司教は飽きたおもちゃを放るごとく、フェブリスから手を離す。重力には抗えず、体を支える事すら出来ないフェブリスは、そのまま床へと再び倒れ込む。鈍痛が、全身に響く。
「おい。もういい。どんな手を使ってでも構わん。喋らせろ。ああ、殺すなよ。教団員としては失格でも、まだ使い道はある」
「承知しました」
虚脱感が、体を覆う。オーヴスは、売れない。そんな事をするくらいならば死んだ方がマシだと、フェブリスは強く思っていた。
(薬を、使われるくらいならいっそ……――)
仲間を嘘の情報で貶めるくらいならば、フェブリスは死を選択する。震える指先が、床に赤い線を引く。
(フェブリス、だめ。死ぬのは駄目だよ)
キフェルリリィの声が、頭の中で反響する。司教たちの声はもうほとんど聞こえない。それでもフェブリスは、指を動かす。
――食わせろと。
キフェルリリィが呼べる風の召喚獣ウィンディアにこの肉体と契約ごと食われてしまえば。
「……あに、き……ご、め……」
つ、と頬を熱い雫が滑り落ちた。刹那。
「フェブリス!」
「フェブリスくん!?」
ミールとオーヴスの声がブラックアウトした視界の向こうで響いた気がした。
◇◇◇
ルクシードの導きでようやくたどり着いた一室。警備と思しき僧兵二人がこちらに気付き、魔術で応戦しようとしたのを、シルフィードが吹き飛ばす。強か床に叩き付けられた僧兵は昏倒していたが、息はある。死んではいない。
構わず、扉を開け放つ。広くはない部屋だった。だが窓を閉め切っているせいか、異臭がする。
血の匂い。目を見開いて固まる、シンプルながらも微細な刺繍の施された教団員。司教。そして僧兵が二人。その足元であちこちに傷を負い、白い教団員制服を赤に染めたフェブリス。
「フェブリス!」
「フェブリスくん!?」
「動くな!」
怒声に、踏み出しかけた足を止める。声の主は司教。
息を呑んだオーヴスの目の前で、司教はチェストの上に置かれた非実用的な短剣を乱暴に掴む。展示用に設置された台座が、激しく音を立てて転がり落ちる。
そして短剣を鞘から抜いた司教は、フェブリスの髪を掴んで引き起こすとその首筋に短剣を押し当てる。切れ味は見るからに悪い。
だが、殺傷能力がないわけではない。
フェブリスの命を握られたオーヴスは歯を食いしばり、司教を睨む。
「……フェブリスを、離せ」
「断る。逆賊風情が、偉そうな口を叩くな!」
「僕の事は好きに言えば良い。だけど、その為に仲間を傷つけるのはやめてくれ」
「笑わせてくれる。どの道貴様らはここで終わりだ。牢に帰る事もなく、そのまま大衆の前で異教徒として処刑してやる」
勝ち誇り、引き攣った笑みを浮かべる司教は、とても聖職者とは思えない。欲と権力に溺れた、醜悪で邪悪な人間がそこにいるだけだった。
そんな人間ばかりではないというのに。そんな人間ばかりいるような錯覚を覚える。暗い感情に呑まれそうになる自分を、オーヴスは堪えた。
「そこまでです」
高い少女の声が張り詰めていた空気を裂く。すぐ背後から聞こえた声にハッと振り返ると、オーヴスの背後にはぞろりと長い緑のゆったりとした服を纏った少女。顔立ちがヨリドとどこか似ていた。
「君、は」
「お話は後にしましょう、魔王さん。それよりも、彼を離しなさい、司教イクディス」
凛とした少女の態度に、オーヴスは思わずミールの手を引いて道を開ける。少女を視界にとらえた司教は、恐怖に満ちた表情に切り替わる。
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