交代の日
第50話
慌ただしかった。ヴィント領主館内は、式典の準備でメイドが慌ただしく走り回っている。
時間まではあと二時間。ほとんどの準備は終わっていたが、それでも開始までは忙しいのだろう。気分的には落ち着かないものだ。
「あっれ。兄貴まーだ着替えてないのか?」
セパレートカラーの髪をひらりと揺らして、フェブリスがノックもなしに入ってくる。真っ白な教団員制服は、位が一つ上がったとのことで、少しだけ装飾が増えていた。本人曰く、仕事が増えただけで面白くないそうだが。
デスクで書類仕事にサインをしていたオーヴスは苦笑を向ける。
「まだ届いてないんだよ。時間まではあるから、心配してないけど」
「げっ。それ絶対怪しいヤツだな。間に合わなかったとき対策はしとけよなー。ミールの姉ちゃんは準備万端で綺麗なドレス着てたぞ」
「ああ、お披露目の席で、ステージがあるって言ってたからね。楽しみだよ」
フェブリスはため息を一つ。恐らく時間まで暇を持て余して顔を出したのだろう。
「珈琲でも飲んでいくといいよ。座って座って」
仕事の手を一旦止め、オーヴスはフェブリスをソファーに促す。
「じゃー、ミルクと砂糖いっぱいな!」
ぱっと表情を輝かせて、フェブリスはソファーに腰を下ろす。この所ずっと本部での雑務に追われていたせいか、久しぶりに話が出来るのが嬉しいのだろう。オーヴスも心休まる時間ではある。要望通りの甘いカフェオレに仕上げ、カップを渡す。短く礼を述べて、フェブリスはすぐに口をつける。甘さに満足したのか、頬を緩ませていた。その辺りは、実に子どもらしい。正面に腰を下ろしながら、オーヴスは口を開く。
「リリィは元気?」
「あ、うん。まぁ……最近は、あんまり表に出てこないけど」
「そっか」
それは言い換えればフェブリスにストレスが少ないという事だ。良い変化ではあるはずだった。寂しさを感じるのは仕方ない事だとしても。
「……いなくなるわけじゃ、ないと思うよ。リリィも休む時間が必要なんじゃないかな」
「わ、分かってるし。……寂しくなんて、別に」
「それならいいんだ。まぁ僕はみんな忙しそうにしてるから、割と寂しいんだけどね」
「オーヴスの兄貴の方がガキだ」
笑ったフェブリスにつられてオーヴスも笑みを零す。
世界は、簡単には変われない。カルディナがオーヴスにその全権を譲ったとブランディールが示しても、易々と受け入れられはしなかった。魔族への対応は少しマシになったくらいで、根本的解決へは遠い道のりだろう。
それでも託された希望は、受け継がなくてはならない。自分の代では不可能でも、次の世代が叶えてくれる。次世代が駄目でも、その次へ。諦めなければ、いつかは届く。オーヴスはそう信じている。歴史が同じ過ちを繰り返さないように、希望だけは、絶やさない。
「……兄貴は、後悔してない?」
手元のカップに視線を落としたまま、フェブリスが問いかけた。明確な意図が読めず、オーヴスは首を傾げる。
「何を?」
「まぁ、……全部だけど」
逡巡する。だが悩むのは一瞬だ。
「してないよ。まだね」
「まだ?」
「うん。まだ。後悔するのは、最後だけにしようと思うんだ。だから僕は悔いがないように、これからも生きていくよ」
「……兄貴らしーや」
満足いく答えではないに違いない。だがオーヴスとしてはそれが本心だった。
真っ直ぐに、自分の信じる道を行く。それがかつての勇者が選んだ道。そしてオーヴスも選ぶ道だ。ふとノックの音が響く。
「あ、どうぞー」
「失礼します」
扉が開き、メイドが一礼と共に室内へ踏み込んだ。その手には一組の衣装。
「オーヴス様、お召し物が届きました。着替えをお急ぎください」
「あ、良かった間に合った。うん、すぐに着替えていくよ」
席を立って服を受け取る。メイドは再び頭を下げ、すぐさま出て行った。扉が閉まると同時に、ぱたぱたと駆けていく音が遠ざかる。まだ準備に勤しんでいるようだ。
慌ただしい日々には、慣れない。
「……兄貴、それもしかして」
「良い仕立てだろう? 僕の御用達? って所にしようかなって」
「……そだな」
「フェブリスも今度必要なら頼んでみるといいよ。腕前は僕が保証するから」
「……逆に心配にさせる兄貴の才能はすげーわ」
呆れたフェブリスに苦笑を返し、オーヴスは届いた衣装の表面を撫でる。
今日は門出の日だ。吉と出るか凶と出るのかは不確定の、未来へ向けて。
そんな記念すべき日には、彼女の仕立服が相応しい。肌触りの良い仕立服に、オーヴスは心の中で深い感謝を捧げた。
完全に尊厳を取り戻せるのはまだ先の事で。
築き上げた人種の壁を乗り越えるのは、もっと未来の話になるだろう。
それでも、踏み出せる明日は巡ってくる。
彼女の仕立ててくれた服が、今日もオーヴスの背中を押す。
始まりの魔王、最後の勇者。 翡翠しおん @jade_sion
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