領主の器
第46話
標高三千メートル級の山脈を背後に、ウルボス河の上に設置されたその砦は、威容を放っていた。兵の姿は遠距離で確認できない。向こうからは視認できている可能性は高いが。
「あれがウルボス砦かー……備えてんだろうな。気合入れないとなー」
「余裕だね、フェブリス。流石だよ、その落ち着き方は」
「逆に、そろそろどんと構えといてもらいたいもんだけどな、兄貴には」
ため息交じりに零したフェブリスに、オーヴスは返す言葉が見つからない。ここまで来ても、未だにオーヴスは不安が膨らむばかりだ。
「陛下、明日には交戦可能距離に到達するぞ。……どうするんだ?」
「あ、エンデル」
武骨な、しかし錆が残る鎧を着こんだエンデルに、オーヴスは軽く会釈をする。エンデルは太い眉をいつも通りにハの字に曲げる。肩透かしを食らったようなものだろう。オーヴスとしては自分よりも二十年は長く生きている相手に、横柄な態度はとれないだけだが。
短く刈り込んだ黒髪をかきむしって、エンデルはため息を一つ。
「……気が抜けるんで、もーちょいソレっぽくならないかね、陛下」
「う、うーん……無理、かなぁ」
「あんまその辺は期待するだけ無駄だと思うぞ、おっちゃん。兄貴にはそーいう堅苦しい関係は抜きで、純粋にこの状況を打開したいってだけだし」
「……フェブリス、俺はお前さんの方がよっぽど大人に見えて来たぞ」
「どーも。まぁ、立場は良くも悪くも人を変えるもんだよ。そーいうのはあとに期待しよーぜ、おっちゃん」
だな、と苦笑を浮かべたエンデルに、オーヴスは閉口せざるを得ない。
――ディアスの街、ゴート教会西方本部前の広場に集まっていた魔族の戦士たちを束ねているのは、実質エンデルだった。
各地から託宣とケフェルの伝達により一念発起した彼らは、そうしてオーヴスの前に集結した。オーヴスと実際に対面し、エンデルではないがほとんどの魔族は呆気にとられていたのが事実だ。もっと圧倒的存在だと思っていたに違いない。実際のオーヴスは、彼らとほとんど変わらない。肩を落とすものもいた。疑惑の目を向ける者もいた。だが、結局誰一人去ることはなかった。
それは少なからず『この現実からどんな形でも脱出したい』と願っているに違いなく。オーヴスはその覚悟に、また一つ自分を奮い立たせる理由を見出す。未だ、自分に自信はない。それでも、同じ願いを持つ彼らは、かけがえのない仲間なのだ。
そして今は、あのウルボスの砦を越えた、最後の場所に手が届く場所に立っている。
「……あの砦を越えて、領主に直談判に行く、と。作戦の変更はナシだな、兄貴?」
「うん。……殺し合いに行くわけじゃ、ないよ」
「辛酸舐めてきた俺としちゃあ、納得はいかん。だがまぁ、それが我らの長の考えならば仕方ないな」
「ごめん、エンデル。だけど、禍根を残したくはないんだ。折角魔族としての誇りを取り戻しても、歴史を繰り返すような行動は、最初から選びたくない。僕の勝手な想いだけど」
魔族が虐げられていることは、サラーズラドで嫌というほど見た。氷山の一角でしかないだろう。もっと苦痛を与えられている人々がいないとも思っていない。それでも、オーヴスは人間を完全には恨めない。断罪出来ない。
それは、かつて自分たちが人間族に強いてきたことの裏返しでしかないのだから。
息苦しさを覚え、オーヴスは眉をひそめて視線を伏せた。エンデルの大きな手が、オーヴスの肩を軽く叩く。のろのろと視線を上げると、にっとエンデルが歯を見せて笑う。
「なら、胸を張れ。やりたいことを貫こうとするやつには、自ずと人はついて来る。よっぽど間違ってない限りはな」
「エンデル……」
「ったく。ウチの手間のかかるクソガキどもを見てるようだ。頼むぞ、陛下」
「頑張るよ。ありがとう」
「さて、作戦は考えたか? 一世一代の大勝負だ。どーんと行こうじゃねぇか」
「……苦しい戦いになるかもしれないけど、よろしく、エンデル」
エンデルが、差し出したオーヴスの手をぐっと強く握り締める。オーヴスにとって、頼りになる手であり、守るべき手だった。
◇◇◇
「全員で三百ちょっと、と。突然大所帯になって、疲れるわね、ミール」
「ちょっとした軍隊みたいですね」
「だったら野営用テントとかあってもいいんじゃない? 作戦会議と言ったら、仰々しくなりそうなものだけど」
「期待するとこ間違えてんぞ、リリヴェルねーちゃん」
「そうね」
四人で囲む火。いつもと変わらぬ光景だ。少しだけ距離を置いて、終結した魔族たちも暖をとっている。あちこちで火の灯りが揺れ、不謹慎だが幻想的にすら見える。
最後かもしれない光景だ。思った瞬間、不安が首をもたげ、恐怖が見えない手を伸ばす。
「……しっかりなさいよ、オーヴス。明日が本番で、明日からが貴方が本当の意味で頑張らなければならないんだからね」
「リリヴェルは……不安じゃ、なかった? その、昔のことだけど」
叱咤するかつての勇者に、オーヴスは恐る恐る問いかける。リリヴェルは呆気にとられ、次いでくすっと小さく笑った。
「さいっこーに怖かったわよ」
「や、やっぱり」
「でも、貴方は違うわよ、オーヴス」
首を傾げる。リリヴェルは膝を抱え、赤いリボンを揺らして首を傾ける。
「貴方には、ついてきてくれる仲間が、こんなにいるんだもの。私たちなんて、五人しかいなかった。五人だけで、世界を変えられるんだって思ってた」
「実際に世界を変えたじゃないか」
「たった五人しか立ち上がらず、世界が変わったなんて。私は今でも思ってないわよ、オーヴス」
「僕もそうなるはずだったんじゃないかな」
「過去の貴方の頑張りが今に続いて、これからの糧になる。現実はそれだけじゃないかしら」
口を噤む。信頼していないわけではない。ただ、怖いだけだ。変わることが。変えてしまう事が。
後戻りのできない明日が、控えている。背負うべきものが大きすぎると、今でも思う。
「だーかーらー。兄貴は背負い過ぎ。一人で抱え過ぎ」
「でもフェブリス……」
「そうですよ。オーヴス様は、気負いすぎです。……明日で世界が変わろうとも、私達はそれでお別れではないんです」
「ミール……」
「どれだけ力を持とうとも、一人で出来る事なんてたかが知れてるのよ、オーヴス。これ、人生の先輩からの有難い助言。だから」
すっと、リリヴェルが手を差し出す。思わずその手を凝視すると、リリヴェルは苦笑した。
「均衡を、取り戻しに行きましょう。……かつての敵の、魔王様」
「……尊厳を、取り戻すために」
幼馴染の裁縫屋の娘で、かつて世界を変えた勇者の一人と握手を交わす。頼りになる仲間を見回して、オーヴスは何度目かの言葉を、口にする。
「ついてきてくれて、ありがとう。……これからも、頼りにしてるよ」
ミールが穏やかに微笑み、フェブリスが気恥ずかしそうに笑った。空を見上げれば、星が見える。明日の夜に見える空が、今日よりも美しく見える事をオーヴスは心の中で祈った。
夜が、更ける。
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