第36話
――全ては、唐突に始まりました。何十年も前の話です。
海に居た私は、人間達に捕まえられて、この地に連れてこられました。元々この場所は水難が多かったそうです。アイラン湖、というんでしたっけ。その湖から流れる河で下流が氾濫したり、酷い時には嵐で橋が壊れたり。とにかく、水にまつわる事故で、大変苦労したといいます。
私はそんな災いが少しでもなくなるようにと、この地の精霊に生贄として捧げられることになりました。海の悪魔であれば、水害も跳ねのけると思ったのかもしれませんね。
そうやって、私はこの池に住処を移すことになったんです。
ご存知の通り、私は海の生まれですから。淡水は体に合わなくてあっという間に衰弱してしまった。人魚と言えど、肉体的な死は免れる事は出来ません。
結局、生命としての死を迎えた私の肉体はそれでも生贄としてこの池に沈められています。あの真ん中の小さな祠は、その棺の上に建てられた、いわば私のお墓の目印みたいなものかもしれませんね。
「それから、私はこの池で……ある意味での守りの精として魂だけがここにあります」
そう静かに【カレン】は締めくくった。苛烈な境遇に晒されていたとは思えない、実に晴れ晴れとした笑顔で。ミールはじっと、耳を傾けていた。
恐らくは、姉として妹の最後を受け止めているのだろう。オーヴスには、かける言葉が浮かばない。
「その人は、何者なの?」
問いかけたのは、リリヴェルだった。つい、とミールからリリヴェルへと視線をスライドさせ、【カレン】は一つ頷く。
「クロードは、私が死んでしまう前からのお友達」
「友達?」
「そう。ずっと私を守ってくれたお友達」
「守ってくれた? 何から?」
「魔族から」
ひゅ、と意図せずオーヴスの喉が鳴る。
「何故……魔族が……君を?」
張り付きそうな喉を振り絞って、オーヴスは疑問を口にする。【カレン】は首を傾げた。
「うーん……実は私も、良くわからないんですよね」
「……魔族は、自然に手を加える事を極端に嫌う。だから異物になりかねないカレンを、ここから引きずり出そうとしていた」
「クロード」
驚いた様子で名を呼んだ【カレン】の脇に、男が立つ。ぐいっと袖で目元を擦り、クロードはオーヴスを射抜くような瞳で睨み付ける。
「カレンは静かに暮らしたいだけだったのに。魔族はそれを許そうとしなかった。逆に自然を穢すのだと、頑なに」
「だから……ここに近づかせないようにしていた?」
「そうだ。人間も魔族も、誰一人。カレンの眠りを妨げる者は誰一人として許さない」
「……そっか……」
クロードはただ、一人の少女を守り続けてきたにすぎないのだ。それこそ、何十年もの間。たった一人の「友達」として。
「君には、カレンの声はずっと聞こえていたんだね」
「ここ数年は聞こえなくなっていたけどな」
「それはクロードが良くないんだよ。私は本当なら目に見えなくて、干渉しちゃいけない存在なんだから。それでも、クロードが純粋な心で居てくれた。だから話が出来た。お陰で、私はずっと寂しくなかったんだ」
「カレン……」
にこりと笑顔を向けた【カレン】にクロードは渋い表情を浮かべる。どこか納得できないでいるに違いない。守り続けた意思は変わらずにあったというのに、その心の中に少しずつ闇を募らせていたことを。
「ここはもう、誰にも思い出されない場所だよ、クロード」
「だがこいつらは!」
「この人たちは私のお姉ちゃんと、そのお友達だよ。それにね、そうやってクロードが全てを敵として認識すればするほど、私は遠くなるんだ。それは、寂しいよ」
「っ……」
怯んだクロードは何か言いかけ、それを飲み込む。悔し気に眉間に皺を刻んで、唇を噛み締めると視線を逸らす。それこそ子供が叱られた時のような反応だった。
あるいは、それが真実かもしれない。
「……貴方は、ずっとここで生きるのね、カレン」
「消える日まではきっとね、お姉ちゃん」
「そう……」
ミールは静かに顔を伏せた。胸中で募る想いに、折り合いをつけるのだろう。
そして再び顔を上げ、今度はクロードへと頭を下げる。クロードはミールの行動に、目を見張った。
「妹を、カレンをお願いします。……我が儘ばかり言う子ですけど、貴方をとても信頼しているようなので、どうか」
「お姉ちゃんは相変わらずだね。私だってもう、子どもじゃないのに」
「変わってないよ。カレンは、あの頃と同じ」
「そうかなぁ……」
「ええ。……元気でね、カレン」
「うん。お姉ちゃんも、元気でね。あと……貴方は」
【カレン】の瞳がオーヴスを捉える。思わず息を呑んだオーヴスに、彼女は優雅に笑って見せた。
「頑張ってね。……私もここから貴方を見ているから」
「……ありがとう」
「この子にも、お礼を言っておいてね。体を貸してくれてありがとうって。結構、負担だったと思うから。少し休ませてあげてね。……それから」
再び彼女は、クロードへと向き直る。クロードは表情を曇らせていた。別れを予見しているのだろう。だが【カレン】の言う事が嘘偽りでないのならば、これは別れではないはずで。だからこそ、彼女は笑っていた。
「また明日ね、クロード。明日は、久しぶりにたくさん話をしたいな」
「カレン!」
ぱしゃん、と池の上に揺蕩っていた水の彫像が弾ける。やや遅れて、フェブリスの体が傾ぐ。慌てて手を伸ばそうとしたオーヴスより早く、その小さな体をクロードが受け止める。
「あ……」
「……久しぶりに、カレンと話すことが出来た」
「あの子は、とても貴方を慕っているようです。……どうか話し相手になってあげてください。貴方が良ければ、ですけれど」
「今更だ」
素っ気なく言い放ち、クロードはフェブリスを改めて抱き上げて、オーヴスへと押し付ける。慌ててその体重を預かり、クロードを見やる。だが僅かに遅れて、背を向けられていた。
「あ、あの」
「今更、離れられるわけがないだろう。こんな年まで、一人で過ごしてきたのに」
「それは……違うんじゃないかな」
「何?」
不機嫌そうに、クロードが振り返る。オーヴスは苦笑を返した。
「貴方は、ずっとミールの妹と……カレンと一緒だったんだから。ずっと、二人で過ごしてきたんじゃないかなって」
「……そうだな」
背を向けたままのクロードだったが、声に明るさが滲んでいた。
「ありがとうございます。カレンと一緒に居てくれて。これからもどうか、お願いします」
「……ああ」
それだけ残して、クロードは振り返ることなく、去って行った。静かな池が残されただけのこの場所を、風が吹き抜ける。
「人間でも、魔族でも、同じだね」
「どうしたの、オーヴス?」
怪訝そうに、リリヴェルが首を傾げた。オーヴスは空を仰いで、ぽつりと零す。
「大切なもののために、戦うんだ。……誰かを守るためなら、刃を手に取るんだね」
「……そうね」
「種族が世界を分けるんじゃない。だから……一つにだって、きっとなれる。僕は、そういう世界を作りたいな」
「オーヴス様なら、きっと出来ますよ」
ミールの肯定に、オーヴスは気恥ずかしくなる。思想だけは立派な自覚があった。それに伴う実力と見識を伴っているかは、別問題だ。
「ミールは」
「今更、どうするか、なんて聞かないでください。貴方の役に立つことが、今私に出来る、生き方です。それに、その方が……私もいつか、海へ戻れるかもしれませんから」
「……ありがとう、ミール」
後半は、気を使っての言葉だろう。それでも、居てくれるだけでも有り難いもので。ミールの目的は達成されたのだ。それを終えてなおこの苛酷な旅路に付き合ってくれるのだから感謝しか沸いて来ない。
「……行こうか」
「ええ。フェブリスくんも、休ませてあげなければ、いけないですからね」
「そ、そう言えば大丈夫なのかな、リリヴェル」
「大丈夫なんじゃない? 信じてあげなさいよ、可愛い弟分を」
言葉に窮した。
「さて、そろそろ温かい食事とベッドで眠りたいわね」
「この先へ進めば、小さいながらも村があるって、カレンが教えてくれましたよ」
「それは助かるわね。カレンに感謝しなくっちゃ」
リリヴェルとミールが笑い合って歩き出す。オーヴスはそんな二人を慌てて追いかけた。
再び木々の間に足を踏み込ませる前に、振り返る。
静かな池があるだけだった。透明な水の下で見守ってくれているというカレン。
「……ミールの事は、ちゃんと守るよ」
当然ながら、返答はない。ふわりと吹いた風に後押しをされながら、オーヴスは池を後にする。クロードは、再びカレンの声が聞こえるのだろう。
そんな日々がこれからも続くことを祈らずには、居られなかった。
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