第30話

「へぇ、良かったじゃない。一つ安心ね」


 ディーネとの約束を伝えて一番に安堵を見せたのは、リリヴェルだった。


「最悪、ノクトの村に送ってもらえるようにもお願いしたよ。ピピアおばあなら、安心だし」


 そうね、と笑顔を見せたリリヴェルに、オーヴスも笑みをこぼす。

 生憎とテントが足りないとのことで、優先的に子ども達を受け入れてもらったせいもあり、今日は結局野営状態に近い。それでも暖と食事が提供されただけでも在り難かった。


「そう言えば、ミール。その服はどうしたんだい? 綺麗だね」


「村の方が譲ってくださった服を、リリヴェルさんが私に合うように変えてくれたんだそうです。見えないのは残念ですけれど、ぴったりに繕ってくださって、嬉しいです」


「なるほど。流石リリヴェルだね」


 当然でしょ、とリリヴェルは得意げに笑う。本職なのだ。当然ではある。襤褸だった服から一転、柔らかそうな薄いドレスに身を纏ったミールは丘に上がった人魚そのものだ。


「……で、他にはなんか収穫はあったのかよ、兄貴?」


「うん……かつての魔王が倒された事を納得したのと、まず僕自身が変わらなければいけないんだって事が分かったかな」


「今と逆転していた世界があった、って話でしょう。……納得してどうするのよ」


「僕は今までそんな事も知らなかったんだから、進歩だと思うなぁ。そうはなりたくない、って思うわけだしね。だから……前には進んでると思う」


 そしてその先に、きっと精霊と本当の意味で関係性を修復する必要があるのだから。

 かつて、祖先が犯した罪を清算する。それがオーヴスのなすべき事で、それなしでは恐らく世界は変われない。変わるためには、もう一度、やり直すしかないのだ。

 ぱちりと爆ぜた炎に視線を向けつつ、ぽつりとオーヴスは零す。


「……きっとまだ、犠牲は払う。それでも、僕は立ち止まらない。精霊に償う事も、こんな残酷なことばかりの世界を変える事も、僕は……諦めちゃいけないって、決めたんだ」


「兄貴……」


「……ごめん。僕の一族は本当ならば長として立つべきじゃないのかもしれない。だけど、もう一度だけ、チャンスが欲しいんだ」


 それまでは、精霊に力を借りてはならないと、胸の奥で誓いつつ。

 彼らの赦しを得て初めて、オーヴスは自分を魔族の長として認められる。その日が来るかどうかも、分からないが。ただ、それなくしては魔王たる資格はないと強く思うのだ。


「精霊の赦しがなくたって貴方が魔王の血を引き、その能力を揮う事には変わりないのよ」


「それじゃ意味がないんだよ、リリヴェル」


「意味? それは貴方のエゴじゃないの? 貴方が一番にすべきはそれだったかしら。魔族の尊厳を取り戻す。そうじゃなかっ……――」


「違う。リリヴェルがそうやって僕を連れ出しただけで、僕はずっと流されてきただけだった。だから、リリヴェルにとってはエゴかもしれないけれど、僕にとってはやっと意味が見つかったんだ」


「ふざけないでよ。時間がないって、貴方も知ってるでしょ! 早くしないと、それこそ魔族はどんどん虐げられていく一方なのよ!」


 声を荒げ立ち上がったリリヴェルの表情には、抑えきれない憤りが浮かんでいた。


「君には感謝してるよ。ここまで来て、僕はやっと自覚を持てる理由を見つけた。だけど」


 リリヴェルを真っ直ぐに見据える。ここまで自分を引っ張ってきてくれた、人間の少女を。同郷の娘を。


「僕はもう、何も知らなかった頃とは違う。だから、リリヴェル。君が何を考えてるのか、僕はまだ分からない。ただもう、君に合わせて無理に一緒に行くことは、出来ない」


「オーヴス……」


「幸いと、村に戻るにはまだ近いと思うよ」


 だから、リリヴェルは村に戻るべきだと思うのだ。これからどれだけ血が流れるか分からない。確かに剣術の腕前は確かな少女で、頼りにはなる。それでも今後は本格的に人間と争うかもしれないのだ。魔族である自分であるならまだしも、人間と刃を交えるなど、させたくはなかった。リリヴェルは口を引き結び、軽く目を伏せる。


「……あっ」


 小さく声を上げたミールを残し、リリヴェルはばっと身を翻して湖の方へとあっという間に姿を消した。紫の宝石の輝く剣を残したまま、言いようのない空気だけを残して。


「……良いのか、オーヴスの兄貴。怒ってるぞ、あれ」


「君もだよ、フェブリス。君だって僕に付き合う必要なんてないんだ」


「ばっか。言っただろ。俺は兄貴に期待してるし、戻れる場所だってないし」


「それでも」


「俺は兄貴が思ってる以上に戻る場所なんてないんだよ!」


 叩き付けるように叫んだフェブリスに、オーヴスは視線をスライドさせる。左に座ったフェブリスは、膝を強く抱えて、顔を伏せていた。


「……ミール姉ちゃん。悪いけど、リリヴェルの姉ちゃんの様子見てきて、くんね?」


「……ええ」


 ミールはそっと答えて、見えていないとは思えないしっかりとした足取りでリリヴェルの消えた方へ向かっていった。ひゅ、と冷たい風が吹き、炎が揺らぐ。


「……俺はもう、帰れない。今俺が戻ればそれこそ村が危ない。ゴート教に楯突くってそういうことだ」


「フェブリス?」


「リリィの事は、俺の両親も知らない。だって、リリィが俺の中に出来たのは、ゴート教会に入ってからだ。出稼ぎみたいなもん。今頃、俺は死んだモノ扱いだと思うけど。でも、それでも俺は、食っていかなきゃいけなかったから。だから、どんなに辛くたって我慢するしかなかった」


「……フェブリスは、魔族だからって、酷い仕打ちを受けてたのかい?」


「どうなんだろーな。知らない。俺、いつの間にかリリィに甘えてたから。全部、嫌なことはリリィが代わってくれた。俺が気付いた時には、全部、終わってるから」


「え?」


 ふっと小さく息を吐き出して、フェブリスがオーヴスに視線を向ける。

 その両の瞳は、緑。キフェルリリィだった。


「ごめんね、陛下。フェブリスには限界だから、変わるね」


「リリィ……君は」


「まぁ、簡単に言うとね、日中の殴る蹴るなんかは、まだ我慢できたんだと思うよ。だって、それって力のない、平社員みたいなゴート教の職員だから。たまにやり返してたんだよ、フェブリスも」


 だけど、と言葉をいったん置いて、ひらりとキフェルリリィは立ち上がる。その所作はどこか危うく、そのまま消えてしまいそうだ。


「……夜になるとね、違うの。司教クラスの……逆らったら、それこそ明日の命が危ういような、実権を握った連中に変わるの。とても人に教えを説くような人間が見せるべきじゃない、泥酔したり、激怒したり、そんな状態で、抑えきれない自分を全部フェブリスにぶつけてた。だからぼくが代わってあげた。フェブリスが抱えきれないものは、ぼくが全部引き取る。そういう風に、ぼくは出来たんだよね」


「……だから……あの時も」


「殴られるとか、罵られるくらいなら、耐えられたのかもしれないけどね。……体を穢されるのは、流石にきついもんだよ、陛下」


「リリィ……」


 アルコールの匂いに、フェブリスは敏感だった。そこに起因する記憶が、自分を潰しかねないからこそ、キフェルリリィが現れざるを得なかったに違いない。キフェルリリィも平気そうな顔をしているが、その心は必死に保っているのかもしれない。


「……だからね、陛下」


 触れた手の感覚に、はっと我に返る。一回りほど小さいその手をたどれば、オーヴスの前にしゃがみ込むキフェルリリィ。


「ぼく達を、置いて行かないで。今のぼく達は、帰ったところで、きっと家族が受け止めきれない。何より、ぼく達は陛下の力になりたいなって、本当に思ってるんだよ。だから、どんなに時間が掛かろうと構わないから。だから、簡単に捨てないで」


「捨て、るなんて。僕は、そういうつもりじゃ」


「陛下はやりたい事を見つけたから、走ろうとしてるんだけど。それが見つけきれないフェブリスは、怖いんだよ。走って置いていかれてしまうんじゃないかって。ふふ、こう見えても、フェブリスは一番上の子だったから、甘えていい年上ができて嬉しかったんだよ、陛下」


 諭すように語るキフェルリリィは淡く微笑んでいた。

 だがその内側では、フェブリスが不安で震えているのかもしれない。オーヴスが意図しない所で、傷つけてしまった可能性はある。


「ごめん、リリィ。僕は……」


「気負いすぎ、だね。陛下は。大丈夫。フェブリスには、ぼくがちゃんと言っておくから。お姉ちゃんと仲直りしてきて。あ、その前に」


 ずい、とキフェルリリィの手が眼前に突き付けられる。小指を立てた手に瞬きを一つ。


「最後まで一緒に行くから、陛下も一人で気負いすぎないって約束して。そりゃあ、ぼくもフェブリスも、陛下よりは年下だけど。でも、助けてほしいから、助けたいんだよ。ぼくとフェブリスはね。だから、陛下の事も助けさせて」


 純粋ゆえに、重い言葉だった。拒否は出来ない。だが、その言葉は。


「……ありがとう、リリィ」


 一番、欲しかった言葉だ。一人が怖いのは、オーヴスも同じだったのだから。小さな仲間をぎゅっと胸に抱きしめて、オーヴスは感謝を口にする。


「んー……違うんだけど、まあいいか。……ほら、陛下。ぼくらは大丈夫だから。おねーちゃん達、待ってるよ」


「うん。話してくるよ」


「行ってらっしゃい」


 頷いて、オーヴスはようやく立ち上がる。リリヴェルの置いて行った剣を拾い上げ、一つの決意を胸に畔へと向かった。

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