旅立ち
第1話
干し草のまとう、陽だまりの匂いは心地よい。一仕事終えて、その干し草に凭れて乳牛たちの様子を見守るのは、実に優雅なひと時だと、つくづくオーヴスは思っていた。
見上げれば空は明日も良く晴れそうなほど澄み渡り、ゆったりと雲が流れていく。
平和な空間は、実に居心地がいい。
「……あっ!」
不意に思い出した用件に、オーヴスは持たれていた体を起き上がらせる。
「まずい、リリヴェルが呼んでたんだった!」
怒らせると不味い相手の存在に、慌てて立ち上がって駆け出す。温暖な空気が頬を掠める中、オーヴスは牧場の策を飛び越え、村の商店街へと急ぐ。商店が三つと、小さな礼拝堂、使う人のほとんどいない宿。鍛冶屋も村はずれにはあったか。
ほとんどが酪農家のノクト村を、オーヴスは気に入っている。通りすぎる村人に軽い挨拶を交わしながら、オーヴスが辿り着いたのは、裁縫屋。
村唯一の裁縫屋だ。オーヴスもたまに世話になっている。
「失礼します」
あいさつを添えて扉を押し開けると、いきなり飛んできたのは漆黒の布だった。
避けることも叶わず、顔面で受け止めたそれは、肌触りのいい、オーヴスが触れたことのない生地だった。高級品だろう。
「遅い」
「ああ、ごめんリリヴェル」
知った少女の声に、布を丁寧に顔からどける。明らかにオーヴスには不釣り合いな高級な生地に、傷をつけるわけにはいかなかった。床につかないように軽く畳んで、オーヴスは笑顔を少女へ向ける。
色とりどりの生地が並んだ棚の並ぶ店内。カウンターの向こうで腕を組み、半眼で睨む茶髪の少女はこの裁縫屋の一人娘のリリヴェル。
オーヴスを呼びつけていたのも、リリヴェルだった。二十五になるオーヴスより七つ下のリリヴェルは、妹のような存在でもある。今はどうやら憤慨しているようだが。
「そこまで怒らなくても。思い出しただけ許してくれないかなぁ」
へらりと笑ったオーヴスに、リリヴェルは肩眉を跳ね上げ、大きくため息を吐く。
「っとに、貴方って人は! 自覚の欠片がぜんっぜんないわね!」
「自覚って言われてもね」
「ほんっと、あったま来た。とにかくこっち来なさい。それ持ったまま」
「えっと」
いまいち良くわからないオーヴスが曖昧な笑みで誤魔化していると、リリヴェルはキッと強く睨み付け、言い放った。
「魔族としての誇りと、魔王としての自覚を取り戻させてあげるわ!」
リリヴェルから飛び出した言葉に、オーヴスは目を見張ったまま、固まった。
奥へと消えたリリヴェルの催促する声に、慌てて足を踏み出す。
心拍数は激増して、思考はぐるぐると乳牛たちへの不安でいっぱいだった。
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