第27話
「はい、これでもう大丈夫ですよ」
「わー! 凄い、痛いのなくなったぁ」
「はいはい。それ終わったら、こっちにいらっしゃいね」
リリヴェルの声に、まだ幼い少女はミールの前から身を翻し、とてとてと駆け寄る。
夜も更けた彼らの寝床は、昼間の様な明るさに包まれていた。光源の有無ではなく、空気そのものが足を踏み入れた瞬間とは、まるで違うものになっている。
どこに仕舞っていたのか、リリヴェルは裁縫屋の腕前でもって解れた衣服を修繕。ミールは治癒術で彼らの怪我の面倒を見ている。フェブリスは何故か数名の子どもに囲まれて、ゴート教の聖典について解説をせがまれていた。
手持ち無沙汰になったのは、オーヴスだけだった。
「この街の魔族は、これで全部……じゃないんだよね?」
「ああ、逆に今働きに行ってる奴もいる。アンタが理解できるかは分からないけど、水商売ってやつな」
「なるほど。話だけは聞いたことがあるよ。もちろん詳しくはないけど。この住処で一番年長は、エジェットでいいのかな?」
「一応な。ああ、歳はきくなよ。日を数えるのを辞めて長いから、自分の年齢も忘れた。最初に覚えるのは、そうやってヒトらしく生きてる感覚を排除するってことだからな」
寂しげに笑ったエジェットに、オーヴスは小さく頷いて還す。
壁に体重を預けながら、天井を仰いでも、漆黒が存在するだけだった。人口の光すら見えない。もちろん星空もない。
彼らは、そんな世界でも懸命に命だけは繋いできたのだ。オーヴスが干し草の香りに心安らげていたときも、ずっと。
「……精霊の祝福ってのは、本当にあるんだな」
「え?」
「俺の一族の精霊は、水の精霊アクエリアなんだ。だから、海に近いこの街はアクエリアの声が一番聞こえやすい」
左膝を抱え、エジェットは汚れた石造りの床に視線を落とす。薄くなった表面がすでに剥がれ、土が覗いている箇所さえある。それでもここが彼らの唯一の休憩の場所だ。
現実に、オーヴスの胸が詰まる。
「きっといいことがある、ってアクエリアが言ったんだ」
「いいこと……?」
「そしたら、ケフェルがあんたらを連れて来たってわけだ。まだ、良い事は何も起きちゃいないけどな」
くすりと、意地悪く笑ったエジェットの意図に、オーヴスは苦笑を返す。
精一杯の、期待の言葉だ。
「……頼むぜ、未来の魔王さん。俺たちは、地下であんたらの成功を祈るしか出来ないけど」
「頼まれたよ」
「とりあえず、アンタくらい休んどけよ。他はちょっとそうもいかなさそうだけどな。休めるときに休むってのも、大事だ。生きるためにはな」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
マントで身を包み、オーヴスは瞳を閉じる。柔らかな喧噪に、心が緩み、ゆっくりと意識が沈んでいく。
一日で、多くの事が起きた。市長が人魚のミールを救うために、市長へ対峙した。嫌悪と現実を目の当たりにした。
そして、この場所で暮らす同じ魔族のエジェット達に出会って、また一つ闇を知った。
何が出来るだろう。果たして、歩いていく先に希望は見えるのだろうか。
自分に希望となるだけの、能力はあるのだろうか。
緩やかに意識が落ちる中、いくつもの疑問が浮かんでは消えて行った。
◇◇◇
目を覚ましたのは、頭頂部を襲った衝撃だった。
「さっさと立ちなさい!」
続いてリリヴェルの怒声にまだ半分しか開いていない瞳で顔を上げる。
ぼやけた視界に、リリヴェルの背中が見える。
「う、え?」
「いつまで寝ぼけてるの! 早く!」
「なんか、焦げ臭い?」
よろよろと立ち上がりながら視線を走らせる。薄っすらと煙と焦げ臭い香りが漂う。
「何が起きてるんだい、リリヴェル」
「どうやら、ここの市長様はよほど血を見るのが好きみたいね」
吐き捨てたリリヴェルに、質問を重ねようとした刹那、頭上から音が降る。それは透明な鈴を鳴らすような、繊細な音。ほぼ地下部屋の中央に、破片が落ちる。悲鳴を上げて飛びのく子ども達。天井に嵌っていたはずの、地上を覗く小さなガラスが割れたのだ。
「頼む、アクエリアッ!」
鋭くエジェットが叫ぶ。見る間に大気と地中からかき集められた水の膜が頭上にぴんと張り詰める。
ぼしゃぼしゃと何かが落ちる音。落ちてきたそれは、炎を纏ったいくつもの樽。
「な……!」
オーヴスは思わず目を見開いた。明確な殺意が、降り注いでいる。この場所に。生きる事で精一杯の、彼らの頭上に。
「ケフェルッ!」
唖然としたまま動けないオーヴスの鼓膜を、エジェットの声が揺らす。
数人と体を寄せ合っていたケフェルがびくりと身を震わせたのが、見えた。
地下室のほぼ中央。天窓の在った真下に立ったエジェットは、手を天に掲げたまま、頭上を睨んでいた。意識を集中して精霊とコンタクトしているに違いない。
「あの道を使って逃げろ! ここは俺が何とかする!」
「え、エジェット兄ちゃんは!」
「チビ達がいたんじゃ、全力で迎え撃てねぇんだよ! 良いから行け!」
「でも」
「行きなさい」
リリヴェルがぴしゃりとケフェルを叱咤する。びくりと背筋を伸ばしたケフェルに、リリヴェルはずかずかと歩み寄って、その腕を引いた。
「私達じゃ道が分からない。迎え撃つにも、貴方達が居たんじゃ全力が出せい。逆に足手まといだわ」
「う」
「安心して。いいわね、フェブリス」
「おっけおっけ。俺が先頭切ってやるから、心配しないで道だけ案内しろ。ミール姉ちゃん、悪いけど最後尾でチビがはぐれないように頼んだ」
「ええ、分かりました」
話が素早く固められる。ケフェルはようやく決意した様子で一つ頷いて、小走りで最初に入ってきた場所とは反対へ。そしてそのまま床を探ると、古びた木の蓋を開けた。
「この先だな?」
「うん。梯子を少し下ると道があるんだ」
「分かった。行くぞ!」
斧を手にして、フェブリスは迷わず中へと飛び込んでいった。ケフェルはそれを見届け、仲間たちに続くよう促してすぐに後を追いかける。ミールは怯える子どもたちを宥めつつ、次々に送り込んでいく。
「……アンタらもあいつらに続いて逃げろ、魔王さん」
「エジェット」
「アンタはお人好しだけど、馬鹿じゃないのは分かる。この状況がどういう状況かも、叩き起こされてから把握しただろ」
「それは……」
口を濁す。エジェットが展開した水の膜の上では、炎が踊っている。油が混じっているのだろう。その炎が収まる気配は、見えない。そして閉ざされている鉄の扉の向こうも、きっと同じに違いない。熱が、この狭い空間を徐々に支配しようとしていた。
間違いなく、人為的なものだ。確実に悪意を持った行為。
その殺意をここへ招き入れてしまった元凶は、自分だ。
「っ……」
「精霊を呼ぶな!」
咄嗟に金属の精霊アイロニアを呼ぼうとしたオーヴスを、エジェットが鋭く制止する。
「でも」
「ここにアンタが居るって示すようなもんだ。あいつらもそこまで馬鹿じゃない。労力を根こそぎ潰すつもりはない。ここを見せしめにするつもりなんだろうよ」
「だったら、エジェットも逃げないと!」
「俺はアンタほど精霊と離れてその力を行使は出来ない。それに、アンタにしかできない頼みがある」
「頼みって……」
エジェットがにっと笑って、オーヴスを見やった。
「チビ達の未来を頼む」
そこに迷いは一片もなく。思わず、目を見開く。
「その為に、その逃げ道は封鎖してくれ。秘密の道は他のこの街の魔族にとっての、最後の逃げ道だからな。絶対に、人間に悪用されるようなことはしちゃいけないんだ」
「エジェット……」
「頼まれてくれるだろ」
エジェットの笑みに、オーヴスは首を横には振れなかった。拒否できるはずがなかった。代わりに強く手を握りしめ、深く息を吸いこむ。
「……ありがとう、エジェット」
「気にすんなよ。……チビ達と、出来たばっかのダチの為だ」
「精霊の御加護が、あらんことを」
「お互いにな。……頼りない魔王さんを頼むぜ、剣士で裁縫上手な嬢ちゃん」
「……ええ」
短く答え、リリヴェルは一足早く秘密の抜け道へと走る。オーヴスも深く一礼し、なけなしの荷物を放り込んだザックを担いで、すぐさま後を追いかける。
覗きこんだ先は、漆黒の闇。古びた、今にでも折れそうな梯子に手と足をかける。
エジェットを再度見やった。その背に掛ける言葉は、もうない。
そして自分がすべきことは、言葉をかける事ではないのだ。友と呼んでくれた、エジェットの為に。
「……ごめん」
それでも零れた小さな謝罪と共に、梯子を下る。十段もない梯子を下りると、数歩下がって、腰に吊った円月輪を手にして、軽く目を閉じた。
「約束は、守るよ。……頼むよ、大地の精霊ティターニア」
轟音と砂埃が、舞う。梯子ごと大地が飲み込み、行き止まりが瞬く間に形成された。
「……オーヴス」
「大丈夫。……僕は約束を果たすまでは、泣かない」
「ええ。……行きましょう。フェブリスたちに追いつかなくちゃ」
「うん。……急ごう」
リリヴェルと共に、オーヴスは走り出した。遠くで、何かが崩れる音が響いた気がした。
◇◇◇
新緑の香りが、満ちていた。朝もやに包まれた世界の中を、風を切った小鳥がフェブリスの肩に舞い降りた。緑の羽根と虹色の尾を持つ、小鳥。ウィンディアと呼んでいた召喚獣だ。
「……とりあえずは、他の被害はないってさ、オーヴスの兄貴」
「ありがとう、フェブリス」
「ついでに、ここがどの辺かってのもウィンディアに調べてもらった。もう少し南に行くと、前に通った十字路だ」
「先を急ぎたいところではあるけど、あの子たちを放っても置けない。……ノクトの村に送れたらいいんだけど」
「んー……人数が多すぎるぞ、兄貴」
「……だね」
軽くため息を吐く。今でこそ体を寄せ合って寝息を立てているが、十数人の大所帯。フェブリスとさして年齢の変わらなそうな子ども達。
だが、抜け道を抜け終わった直後からエジェットの姿が見えないことに不安を覚えたか幼い子どもは泣き、状況を察した年長者は涙を堪え、あるいは静かに涙を流していた。
ミールとリリヴェルが落ち着かせて寝かせていなければ、今の静寂はないだろう。子守唄を歌うミールの声は、流石人魚のそれで、オーヴス達までも睡魔に飲み込まれそうなほどだった。
「……アイラン湖の方に、魔族の集落があった気がしたんだけど」
「可能性としちゃーないわけじゃないな。……大丈夫、か? 兄貴」
心配そうに見上げたフェブリスに、オーヴスは笑みを返す。
「約束したんだ。だから、大丈夫」
「無理は……多少は必要だけど、弱音吐くくらいなら、俺でも聞くからな」
「ありがとう、フェブリス。……動けるようになったら、アイラン湖へ向かおう。二人にも伝えて来る」
「俺が伝えて来るよ。兄貴は、この先の動きもうちょい考えといて」
くるりと背を向けて、フェブリスはミールとリリヴェルの元へと走って行った。一人残されたオーヴスは落ちかけた視線を意識的に上げる。今は、俯けない。
振り返る道は、二度と戻れない道だ。
「……世界を、変えなきゃ」
例え犠牲を払おうとも。こんな残酷で歪な世界は、終わらせなければ。
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