第39話
冷たく湿った空気が、溜まっていた。陽の当たらない場所。冷たく暗い色合いの石の床と壁。外壁の白さとは正反対の暗さが、この場所には澱んでいる。
「ミール、ごめん。結局、こんな所に放り込まれてしまって」
「いいえ。大丈夫ですよ。それよりも、リリヴェルさんとフェブリスくんが心配です」
「……うん……」
鈍く頷く。苦い思いが、胸の中に渦巻き始める。
結局、オーヴスとミールは牢へと放り込まれていた。教会内にそんな設備があったことは驚きだが、反省を促すためにあるのかもしれない。
リリヴェルはヨリドという少年に、フェブリスは教団員に連れていかれた。リリヴェルはヨリドの様子からしても、手荒な真似はされないだろう。どちらかと言えば、フェブリスが心配だった。
反逆者のようなものだ。暴力に訴える事がない事を祈りたいが、不安は払拭できない。
「……逃げなきゃ」
「オーヴス様……」
「安全が保障されてるわけじゃない。ミールやフェブリスだけでも、僕は逃がすよ」
「リリヴェルさんは、良いのですか?」
「リリヴェルは……」
彼女は時が来れば、解放されるのだろう。
理屈は分からない。そして信じたくない想いは燻る。それでも、一つだけ確かな事はある。
「……リリヴェルは、かつての勇者の、血族なんだ。たぶん、あのヨリドって子も。仲間が、仲間を傷つけたりはしないよ。だから、リリヴェルは、大丈夫」
ぐっと手を握りしめ、オーヴスは自身にも戒めるように言葉を吐く。
「それは、どうでしょうか」
「え?」
小首を傾げたミール。思わぬ返しに戸惑うオーヴスに、ミールは不思議そうに眉根を寄せていた。
「……オーヴス様にとって、リリヴェルさんは仲間ではないのですか?」
「それは」
「私も、詳しくは分かりません。リリヴェルさんは自分の事をあまり語らなかったですから。それでも……リリヴェルさんは、私にとっては大切な、仲間です」
「ミール……」
ミールは笑みを見せた。揺るがない思いを、胸に秘めているに違いない。
不意に、オーヴスは自分の弱さに自嘲する。
「馬鹿だなぁ、僕は。リリヴェルは、リリヴェルで……そこは絶対に揺らがないのに。そう、思ってたはずなのに。いざ蓋を開けたら、僕は全速力で逃げようとしてるんだ。現実から」
「……どうなさいます?」
「答え、ミールは分かってるんだろう?」
「期待する答えは、ありますよ」
にこりと柔らかく笑ったミールに、オーヴスは苦笑する。そして立ち上がった。
座って時を待っている場合ではない。
「……さて、どうしようかな」
鉄格子に歩み寄って、軽くゆする。びくともしない。冷たい金属の感覚だけが指先から伝わるだけだった。オーヴスの唯一の武器である円月輪は、取り上げられ手元にはない。
もちろん逃げ出す隙間などこの狭い空間には存在しなかった。
「アイロニアや、シルフィードの力を借りられたら何とかなるのかな」
ぽつりと零す。精霊の力さえあれば、不可能などないに違いない。
だが、未だにオーヴスは力の行使に抵抗があった。いわば精霊を強制労働させるようなものだ。それは自ら求めた世界とは真逆の行動。
それでも、このままここでじっとしている選択は出来そうにない。ぐっと奥歯を噛み締めて、顔を上げる。
「……アイロニア、聞こえていたら、力を貸してほしい。僕は……仲間を助けに行きたい」
声は返らない。嫌悪されているのならば、それも仕方なかった。
だが、精霊はどこにでもいる。きっと、声は届いている。ここで声をあげなければ、オーヴスは精霊と向き合うタイミングを逸してしまう。
だからこそ、言葉を止めない。鉄格子を握る手に、力がこもる。
「何も知らなかった。精霊が力を貸してくれるのが僕は当たり前だと思ってた。だけど、そうじゃなかったんだ。無理に力を使わせてた事を、きっと今でも怒ってるんだと思う。逆の立場なら、僕はそう思う。……だけど、僕はリリヴェルとフェブリスを助けに行きたい。ミールをここから逃がしてあげたい。だから、力を貸してくれないかな」
今のオーヴスには精霊術は使えない。円月輪に刻まれた陣がなければ、強制的に精霊を操ることは叶わない。無力だ。
「……僕は、人間も魔族も、海の人々も精霊も、手を取り合って暮らせる世界を取り戻したいんだ」
「オーヴス様……」
人間によって虐げられている魔族。自分たちを助けるために命をおとしたエジェット。ひっそりと生きる事を選んだアクシアの人々。ミールの妹を守るために、魔族と一人で戦い続けたクロード。
彼らは人として、迷いなく生きていた。そこに人種は関係がなく。彼らに約束した未来のために、ここで立ち止まっている事は出来ないのだ。
不意に、微かな気配を感じ、顔を上げる。
正面には何もない、空っぽの暗い牢があるだけだった。
刹那、鉄格子に触れていた手に、振動が伝わる。思わぬ感覚に手を離すと、瞬間ばらばらと鉄格子がつなぎ目を切断されたように崩れ落ちる。思わぬ騒音に、ミールが小さく悲鳴をあげるがそれすら掻き消される。
――カラン、と最後の一本が転がる。
オーヴスは茫然と転がった鉄格子を見つめていた。何が起きたのか皆目見当もつかない。
見事な断面が見える元格子。経年による腐食ではなかった。
「もしか、して。……アイロニア?」
「オーヴス様、精霊が見えるようになったんですか?」
「いや……声も、聞こえない。……だけど……」
ふわりとどこからともなく風が吹く。背中を押すように、先を促す様に。
「……ありがとう」
何一つ、その存在を認識できないままだった。だが、現実に起きた事象は、勇気と希望を掘り起こす。ミールを振り返って、オーヴスは手を差し出した。
「行こう、ミール。リリヴェルとフェブリスを助けに!」
「はい」
ミールの手を取り、オーヴスは牢を飛び出した。
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