第40話
リリヴェルは、出された紅茶のカップを手にして口をつける。角のない風味は、茶葉の良さを窺わせる。流石は、ゴート教会の中でも上層部御用達といったところか。応接室だと言っていた室内も華美な装飾は一切ないが、一つ一つの調度品に丁寧な細工が施されている。決して安くはないはずだ。
「手荒な出迎えでごめんなさいねぇ、アンネヴェルト」
「リリヴェル」
ぴしゃりと断言する。緩くウェーブのかかった長い橙色の髪を指に巻き付けていたカルディナが、緑の瞳を細めて、笑う。到底ヴィントの総領主とは思えないような、無邪気な笑みだ。
「そう怒らないで頂戴な。私だって、久しぶりに貴方と話してみたかったのよぉ?」
「安心なさい。貴方の所には後で行く予定だから」
「ほ、本気なんですかアンネヴェルトさん!」
がたりと席を立って身を乗り出したヨリドは顔面蒼白だ。リリヴェルはカップをソーサーの上に戻す。
「まぁまぁ、座りなさいな、ヨリド。どうせこの子一人じゃ、来やしないわ」
「で、でも」
「それにね、聞きたいことが一つあるのよ、アンネヴェルト」
「……何かしら」
矯正する気力も萎え、ため息交じりに先を促す。カルディナは笑みを収め、真顔で問う。
「貴方、私達を裏切るの?」
「裏切る? 人聞きが悪いわね。言葉を返すようだけど、貴方だって同じじゃないかしら」
「一緒にしてほしくないわぁ。全て押し付けて逃げたような貴方には」
刺すような言葉に、リリヴェルは思わずカルディナを睨む。カップに添えた手に、軽く力がこもる。カルディナは優雅に笑って、見えない煙を払うように、手を軽く振った。
「そう怒らなくてもいいんじゃない? 事実でしょう?」
「ええ、そうね」
「だから、先に裏切ったのは貴方が先。でもねぇ、アンネヴェルト。それでも私達は貴方を仲間だと思っていたのよ? 今度はその信頼を切り捨てるつもりかしら?」
「……そうかもしれないわね。カタリナが受けた託宣が実現するならば、ヴィント領は変わるでしょう。それはカルディナ、貴方の失脚も、有り得る話だわ」
「そんな事に加担するのを、私やヨリドが黙っていると思っているのかしらぁ?」
沈黙を守ったまま、リリヴェルはカルディナとヨリドを順に見やる。カルディナは好奇を、ヨリドは不安をその表情に映している。そしてリリヴェルはどこかで納得する。
変わったのは、恐らく自分なのだと。彼らは、約束を守り続けている。平和を守り続けているのは、自分ではなくカルディナやヨリドだ。
それでも、リリヴェルが思い出すのは黒衣のオーヴスで、平和ボケした魔族の長。
今となってはリリヴェルにとって唯一の希望。
「……私は、今度は間違えられないの」
「そう。……でもねぇ、私にも立場があるの」
かたりと、カルディナが席を立つ。サイドテーブルの上に置いていた黒の三角帽子を手にして歩きながら頭に載せる。
「世界がそんなに簡単に変わらないって、貴方も知ってるわよねぇ?」
「……カルディナ」
「だから、待っているわ。決着はそこでつけましょう。最も、あの魔王様が来られるのなら、だけど」
くすっと妖艶な笑みを零し、カルディナはひらりと手を振って出て行った。
「アンネヴェルトさん」
「分かってるわ。……手を貸すな、ってことでしょう?」
「明日には故郷へ送り届ける馬車を手配します。だから、それまで待っててください」
「そう。振り出しに戻れってわけね」
「いいえ。帰るのは貴方だけです。申し訳ありませんが、野放しにしておくことはもう、出来ません」
「なるほどね。……まぁいいわ」
再び紅茶のカップに手を伸ばす。少し冷え始めた紅茶で喉を潤し、口元に笑みを浮かべる。
「……オーヴスが大人しくその時を待つとは、思えないわね」
「精霊術が媒体なしで使えない魔王など、ただの魔族よりも無力ですよ」
ヨリドの言う事は正しい。それでも顔が強張っているのは、その脅威を誰よりも理解しているからだろう。良くも悪くも、ヨリドは変わらない。
託宣の巫女たる双子の妹、カタリナの為に心血を注いでいる。それしか見えていないと言っても良い。
「まぁ……動いたとして、私の事は放っておく可能性は、あるけれど」
「それはそれで、僕やカタリナは嬉しいです」
「……そうね」
鈍い痛みが胸を刺す。長く沈黙を守り続けてきたことを、今更ながら少しだけリリヴェルは悔いる。
不意に、乱暴なノックが響く。ヨリドは眉を顰めた。予期せぬ来訪だったようだ。軽く頭を下げてから、ヨリドは応対に踵を返す。
リリヴェルは空っぽになった紅茶のカップに、注ぎ足すべくポットに手を伸ばした。持ち上げたポットは思いのほか軽い。どうやらほとんど入っていないようだった。仕方なくポットを元に戻し、ヨリドに視線を向けた。頭半分背の高い教団員が、切羽詰まった表情でヨリドの耳元で何かを告げていた。生憎と、会話は聞き取れない。
「……分かりました。すぐ行きます」
一礼して、教団員は再び慌ただしく駆けて行った。扉を丁寧に締めると、ヨリドはため息を一つ。
「厄介事かしら?」
「……アンネヴェルトさんはここに居てください」
「だから言ったじゃない。オーヴスは案外落ち着きがないのよ」
ヨリドは答えなかった。壁に立てかけていた槍を手に、無言で部屋を出ていく。ぱたりとしまった扉を見つめ、リリヴェルは気付く。
「あ。せめてお茶の追加をお願いしてから見送った方が良かったかしら」
◇◇◇
怒鳴る声が追いかけて来る。壁に身を隠しつつ先を急ぐが、建物内の構造がさっぱり分からないオーヴスはミールの手を引いてひたすら逃亡していた。壁に身を預け呼吸を整えながら、先の様子を窺う。
「どう、しよ。出てきたは……良いけど、リリヴェルとフェブリスがどこにいるか、さっぱり分からない」
「人が、増えているように感じます。急がないと……捕まるのも時間の問題じゃ、ないでしょうか」
「参ったな。今度捕まったら、それこそ殺される気がする……」
死の恐怖がすり寄ってくる。震えに対抗するべく頭を振って、頭を切り替える。
「……頼りにしてばっかりで悪いんだけど。いつか必ず、恩を返すから。だからリリヴェルとフェブリスの所に案内してくれないかな」
恩を返すというのも、傲慢だ。自覚はある。精霊は世界を支える根幹なのだから。だが。
――ひらり、と青白い蝶が視界を横切る。
「ありがとう、ルクシード」
先導する蝶を追いかけ、再びオーヴスはミールの手を引き、床を蹴る。
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