第3話

◇◇◇


 旅の荷物リストなるものをリリヴェルから渡されたオーヴスは一旦自宅へ戻っていた。

 やることはそれ以外にもたくさんある。飼育している乳牛たちの事もしかりだ。

 流石に帰宅時には普段着に戻りたかったのだが、リリヴェルは笑顔で拒否した。後戻りは絶対に許さないという意味かもしれない。リリヴェルの方が余程決意が固いものだとしみじみ思いつつ、黒の衣装のまま、隣家の扉をノックする。


「はいはい」


 ゆったりとした声に続き、扉がゆっくりと開く。重力に逆らえなくなった顔のしわが優しい畜産同業者のピピアが顔を出す。


「こんにちは、ピピアおばあ」


「おや、オーヴスじゃないかい。珍しい恰好をして」


「うん、色々あってね。ちょっと留守にするから……うちの乳牛の事を頼んでいいかな」


「おや、そうなのかい。それは構わないよ。……それにしても」


 ふ、とピピアが微笑む。どこか、嬉しそうに。


「良く似合っているねぇ。まるで初代グリードフェルク様のようだ」


「そうかな? 僕は、語り継がれているような立派な魔王じゃないよ。そもそも、魔王ですらない」


 軽く肩を竦めたオーヴスに、そっとピピアが手を伸ばす。かさついた、それでもしっかりと生きてきた両手が、オーヴスの右手を握りしめた。


「最初から立派な王様が、いるものですか。……オーヴス・グリードフェルク。貴方の存在は、魔族にとってそれだけで希望なのよ。誇りなさい」


「誇り……」


「荷が重いかもしれないけれどね。私は貴方が魔族の王として立つことを、夢物語だなんて、思っていませんよ」


 先代は残念だったけれど、と笑ったピピアは、感付いたのだろう。

 これから自分が歩こうとしている道を。まだ、迷っている自分を。


「……ありがとう、ピピアおばあ」


「だけど、命は大事にね。私たちは、いつだって貴方の帰りを待っているよ。オーヴス。貴方の大事な、乳牛と共にね」


◇◇◇


 ザック一つとありったけのお金。と言っても、裕福な暮らしなどもちろんしていないオーヴスにとってはなけなしの貯蓄だ。

 夕刻が、迫る。リリヴェルと約束した、村の入口へ急ぐ。

 ざぁ、と風が鳴った。

 村の入口で立っていたリリヴェルは見たことのないような立派な鎧を身に着け、凛と立っていた。その腰には、柄に紫の水晶のついた剣。

 思わず、見惚れてしまいそうなほどに、迷いのない佇まいだった。

 そして、逆光の中で、彼女は笑顔を見せる。


「準備はオッケーかしら? 未来の魔王様」


「何とかね。……リリヴェルは、親御さんには反対されなかったのかい?」


「そんな心配は無用よ。これはね、いずれ来るべくして訪れた時間だったんだから」


「来るべくして……?」


「貴方が心配する必要はないって話ね」


 くすりと笑って、リリヴェルはくるりと背を向けた。緑を基調とした鎧に、頭は少女らしさの残るリボンで飾ってある。

 だがその背中からは、不思議と慣れを感じた。


「さて、行先だけど」


「ああそうだね」


「ヴィントを目指すわ。一番簡単なのはアイラン湖を渡る事だけど、あそこ水棲魔物が凶暴だし、船旅はリスクが大きいから陸路で行きましょう」


「ちょ、ええっ、なんでそんな大都市?!」


「最終目的地の話よ。とりあえず、リール川を越えた先の、貿易港を目指しましょう」


「えーっと……」


 地図を頭の中に広げるも、明確に思い出せるのは、自分の暮らすヴィント・リール地区だけだった。


「サラーズラドっていう港町があるの。まずは隣のヴィント・アイル地区の大都市を見にいきましょう」


 知らない地名に、オーヴスは再び不安を覚える。

 決めたのは自分なのだが、このままリリヴェルに頼り続けることになりそうだ。いや、頼り続けるだけならいいのだが、リリヴェルの言う通りに動くこと。

それはつまり、自分という存在は操られているに過ぎないのでは。


「……リリヴェル」


「なに?」


「サラーズラドに着くまで、僕に地図を貸してくれないかな。覚えるよ」


「もちろん、そうでなくちゃ」


「……しばらくは、迷惑かけるけど」


 苦笑したオーヴスに、リリヴェルは首を振った。


「別に恥じる必要なんて、どこにもないわ。立ち上がるのは、勇気よ。それに」


 くすっと笑って、リリヴェルはオーヴスを指さす。


「絶対嫌がって、着て来ないと思ったその魔王様用の衣装着てきた時点で、オーヴスはもう、魔族の王としての誇りを、取り戻そうとしてるんだって私にはわかったわ」


 視線を落とす。確かに、それは一理あった。

 帰宅すればもちろん着慣れた衣服はあったわけで。

 それでもリリヴェルの用意してくれたこの衣装で、魔王と名乗って遜色ない酪農家の自分には不釣り合いなこの服でここに来た時点で。

 オーヴスは小さく笑う。


「行こうか、リリヴェル」


「酪農家が魔王になるなんて、どんな伝説にも勝るわよ、きっとね」


 頷いて、オーヴスは慣れ親しんだ村へ別れを告げる。

 唐突な始まりには間違いなかった。

 悩む暇さえほとんどなく。たった数時間、いや、たった数分で決まってしまった旅の始まり。

 それでも、不思議と戸惑いは、少ない。

――案外、外を知りたかったのは自分かもしれないな。

 リリヴェルのほんの少し後ろを歩きながら、オーヴスは苦笑を零す。

 平坦な道では、決してないだろう。そしてその選択の正しさを知るのは、もっと後だと覚悟しながら。

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