銀の贖台:2


EPISODE 011 「銀の贖台:2」





「今から質問するから正直に答えろ。嘘をつけば一本ずつ指を引き抜く、黙っていても引き抜く。二十一回目にはお前の生殖器を引き抜く、いいな」

 霊銀は低い声で恐るべき言葉を口にした。店主は息を荒くしたまま何度も頷いた。


「では一回目からスタートだ」

 そう呟いた直後、霊銀は店主の左手小指を掴んだ。それが惨劇の始まりだった。


「ああああああああああああ!!!!!!」

 絶叫が響いた。



 なんということか! 霊銀はまだ詐称も黙秘もしていない店主の男の左手の小指を超人的怪力によって骨ごと強引に引きちぎったのだ!


 飛び散った血が床の小便に混ざり、書店内のカビと小便の匂いには血生臭い嫌な臭いが混ざると二人の元兵士の脳裏を苛烈な戦争の光景が過ぎってゆく。

 霊銀から「嗚無情」を受け取った呑龍は表情を消し、冷酷な眼差しで店主を一瞥した後小部屋の外に出ると、ラジオの音量ツマミを捻った。


 りんごの唄は既に終わり、新たに流れ始めた楠木 繁夫の歌謡曲「緑の地平線」の哀愁漂うメロディーの音量が上がり店主の叫びを掻き消す。


 我が身の一部の喪失の痛みと、その証左たる根元から噴き出る鮮血を目にした店主は息を一層荒くした。両の瞳に溜まった涙が許しを請うように霊銀を見たが、店主は霊銀の暗い瞳のどこにも人間の情というものや同情心の類のものを見出すことが叶わなかった。



 この時の霊銀は笑ってもいなかったし怒ってもいなかった。人形のように無表情だった。普段は表情豊かな呑龍もそうだった。本屋の店主を拷問することを嫌がっても躊躇ってもいなかったが、愉しんでもいなかった。

 兵士として、また超常の能力を持つ特殊工作員として戦前からの訓練を受けていた二人の戦士は感情を挟まず淡々と任務をこなすだけで、まるで工業機械のようだった。


 自動車を作っている工場作業員に「自動車を作っている時の気持ち」を尋ねる事は有意義な問いといえるだろう。

 では、ただ黙々と自動車部品を作るための工業機械に「どんな気持ちで日々自動車を作っておいでですか? 仕事は楽しいですか?」と新聞記者のように問いかけてみる行為はどうだろう? 


 ――そんな事を本気でやってる奴は狂人か、どうしようもない愚か者だろう。



「では最初の質問だ。お前は【赤の楔】の工作員か」

「ち、違う!」

「嘘をつけば次を引き抜く」

「違う! 本当に違うんだ! やめてくれ!!!」


 霊銀の黒い瞳が店主の瞳の動きを鋭く観察する。

 ――真実だ。ゆえに霊銀はこう囁いた。


「嘘だな」

「やめろ! やめてくれ! 俺は本当に違うんだ!! 全部話す!!!」

「よし、言え。奴等との繋がりは何だ」


「……か、金が無かったんだ。戦争で借金が出来て……満州鉄道の株を買ってた……でも戦争に負けたから紙屑になっちまって……それで金が無くて、ヤクザから金を借りてた」


 店主の言葉を聞くと呑龍はラジオから離れ、店主のもとまで歩くと苦々しい表情を浮かべた。

「この辺りのヤクザは半島や台湾から流れて来たヤクザ者が無茶やらかすせいで近頃かなり凶暴化してる。お前ろくでもない時期にろくでもない奴等から金を借りちまったもんだな」


 呑龍が持参の金鵄きんし煙草に火を起こし、薄暗い本屋裏の小部屋にだいだいの微かな明かりをもたらす。


「ろくでもない戦争にろくでもない時代だ、他には無かったんだ!」

「黙りな」

 話が逸れそうになったのを感じ取った呑龍は店主の顔に白煙を吹きかけると、彼の頬に煙草の火を軽く押し当てた。


 店主の唸り声のような叫びが響き渡った。霊銀はやはり眉一つ動かさなかった。


「……まあ、その点のみはわからんでもないがな」

 呑龍の微かな呟きは、拷問の叫びとラジオの垂れ流す歌謡曲の中にかき消されてしまい、霊銀や店主の耳には届かなかった。



「良いから続きを話せ。死にたくなければな」

 霊銀が脅すと、店主はよだれを垂らし歯をガチガチと鳴らしながらも必死に頷く。


「わ、わかった……! 本屋は焼けなかったからこれで稼いで借金を返そうとしてたんだが、十日で一割の利子をつけられるから日に日に借金が膨らんで……どんどん取り立ては厳しくなってた。それでいよいよ海に沈められるか、その前に首を吊るかっていう時に……あの人が現れたんだ」


「赤の楔か?」

 問うと、店主は肯定する。それから何度か大きく息を吸うと、話を続けた。


「……わからない、大宅おおやと名乗っていたが本当の名前かも……火傷のある男だった。ある日来たその客は、その時店にやってきたヤクザもん三人を一瞬でのしちまった、それも拳だけで、だ。強いなんてもんじゃなかった。借金の話をすると金も出ないのにまた助けてやるって用心棒を申し出てくれた。オマケに金払いが良くて、いつも沢山の本を買ってくれた」


「どんな本を買っていった?」

「たしか……「嗚無情ああむじょう」もそうだったし、あとは……マルクスやエンゲルスの本、ほかにも夏目漱石やシェイクスピア、ドエフスキーなんかは毎週のように買っていった……「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」とか、その辺だ」


「霊銀、知ってるか?」

 どれも呑龍には縁の無い書物だ。しかし霊銀はどうだろうか? 奴は顔に似合わず生まれが良く教養が高い。


「ああ、題名と概要ぐらいはな。アカの活動家が好きそうな本が多いな」

 期待通り霊銀は肯定の意志を見せた。全てではないが、その内いくつかは読んだ事もあった。実に意識の高い共産主義者……それも国家犯罪的な域にまで高めた連中が手に取り読んでいる姿が容易に想像できるようなラインナップだった。


「それで? 「嗚無情」を預かっていた経緯は?」


「ある日のことだ……「頼みがあるから預かっていて欲しい」と何冊か本を渡されたんだ。彼は警察さえ助けてくれなかった店を助けてくれた……。恩人の頼みをどうして断れる」


「買っていく本を見れば共産主義者アカだってことは判っていたんじゃないか?」

「う、薄々気づいてはいた! 確かに彼は共産主義者アカだ……だが共産主義アカだからって犯罪者とは限らない」


 店主は涙ながら懸命に人の道理を訴えかけるが赤いテロリストの行方を追う二人の猟犬にそれらの理屈は届かない。


 店主に対し、呑龍は冷たく無情に言い放った。

「だが、追ってる奴は犯罪者で共産主義者アカ、そして俺がお前を拷問しているのはこれが赤色テロを計画している反政府組織絡みの案件だからだ。理解したか?」

「……」

「――まあ、残念だったな」

 言葉を無くしうなだれる店主の頭を呑龍はポン、ポンと軽く叩いてやったが、それは彼にとって何の慰めにもなりそうにもない。


 質問はまだあった。霊銀は淡々と拷問を続ける。

「この本を奴らは何に使う?」

「知らない……」

 霊銀は男の瞳を見た。本当のことのようだったが、まだ何か隠しているように思えた。ゆえに、店主の左手薬指を逆方向に圧し折った。


「あああああああああ!!!!!」


 超能力であることに加えて【超越者】としての超人的身体能力を兼ね備える霊銀の圧倒的腕力の前には、常人モータルの指の骨など爪楊枝ほどの耐久性さえも有さなかった。


「指が無くなるぞ」

 霊銀は確実にやる男だ。ゆえに呑龍は店主に警告を行うものの、絶叫する彼の耳にその言葉が届いているかどうか定かではない。


「言え」

 霊銀に胸倉を何度も揺さぶられた店主は、やがて叫ぶことを止めると嗚咽し、すすり泣いた。

「本をどう使うかなんて、本当に知らないんだ……」

 店主は鼻水を垂らし、大粒の涙を流しながら訴えた。

「聞かされて……聞かされてないんだ……信じてくれ……うっ、うっ……」



「……信じよう、使い道は本当に知らないようだな。だが、他に何か情報があるはずだ」

「たのむ……殺さないでくれ……」

 店主は涙ながらに救命を求める。霊銀は後ろを振り返り、無言で相棒に問いかけると呑龍はこう述べる。

「お前の貢献次第だ」

「だそうだ」


 それを承諾の意志と理解した、あるいはそう願うしかなかった店主はおもむろに口を開き、何度かパクパクとさせてから、こう告げた。


「……本を受け取りに来る客が来たら伝えて欲しいと言われた事がある」

「何と言われた?」

「「伊藤静雄の名で松竹館に泊まれ」と……」

松竹館しょうちくかん? それはどこだ?」

「わからない……本当だ」

 嘘は言っていないようだった。今では店主は指の痛みにうめきながらも疲れのせいか、失血のせいか意気消沈の状態にある。


「次に行く場所が決まったな」

「ああ」

 霊銀はようやく手を離し、小便まみれの床の上に店主を放り捨て立ち上がる。それから今ではボロ雑巾のように惨めな男を指差し、背中の呑龍にこう問う。


「それで、こいつはどうするんだ。始末すればいいのか?」

「いや、後でまた聞きそびれを思い出すかもしれねえからな。ツイてるぜ店主、情報提供者としてお前は生かしても良い事になっている」


 呑龍は店主に言った。

「でなきゃ霊銀コイツは簡単に殺しちまうんでな……指は不幸だったが、命がありゃ何とかなる。ウチの上司に感謝してくれ」


 店主にはもはや返事する気力もなかった。二人はそのまま田中書店を後にしようとする。夕日は更に沈み、終わりなき夜の闇が空から降り注ごうとしていた。



 出口に向かおうとした呑龍は足を止め、店主の方を振り返るとこう言いつける。


「後で監視のために仲間を一人ここに送る。間違っても逃げようなんて思うなよ。例えお前がナチスの生き残りと一緒に南米まで逃げたって、俺たちは必ずお前を見つけて始末する。いいな?」

 彼はやはり何も言わなかった。言おうとしてもその気力が残っていなかったのであるが、肯定の意志を示すべく、男は暗闇の中で小さく頷いた。

「よし」

 と呑龍が頷き返し、店から出ていった。



 霊銀もそれに続いたが、去り際、冗談交じりにわざとらしくこう言った。


「私しがうしてお前さんの魂を買い取るのだから、ねえ兄弟、今から心を入れ替て、共産主義くらいかんがえ拷問室じごくるような思案を起こして居てはけぬ、民主的あかるい、正直な人に成って進駐軍かみさますがらねば、好いかえ、分かったかえ?」


 「嗚無情」からの引用を用いて即興で思い浮かべたそれは、痛烈な皮肉だった。日常の中でさえ死を纏って暮らす男の冗談はあまりに黒く、常人の感性では笑い所を見出せぬ。



 しかし、笑い所はわからなくとも確実わかる事はある。いいや、

 ――これが分らずに居られる者か。

 

 要するに逆らう事は出来ないという話、実に単純だ……言葉だけならば。




 力を持たぬ民衆は時代に流されるだけで、民主主義であるとか共産主義であるとか、主義主張を自ら選べる立場にはなかった。

 右の道を歩けば左に流され、左の道を歩けば右に流される。そしてその度多くの代償を理不尽に支払わされる。


 そして降りかかる理不尽はいつも、それを嫌だという事を許容ゆるしてくれないのだ。





EPISODE「灯台下暗し」へ続く。

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