三節 - 鐘が鳴れば -
灯台下暗し:1
第三節【鐘が鳴れば】
EPISODE 012 「灯台下暗し:1」
田中書店と希望ヶ丘駅建設予定地を後にした二人の超能力工作員はフォード・クーペを東へと走らせる。
日は沈み、僅かばかりの橙色の線が地平線に在るだけで道は既に暗く、星の淡い輝きだけでは道を照らすには足りぬ。かといって道を照らす街灯の明かりも無い、これでも以前はこの辺りに街灯があったのだ。戦争の炎と、戦後の治安の混乱がこの国から光を奪ってしまったその瞬間までは――――。
二人の乗る40年型フォードに備えられたヘッドライトが
刹那、フォードのヘッドライトが金網フェンスに張られた看板を照らした。
THIS IS A U.S FORCES INSTALLATION UNAUTHORIZED
EMPTY IS PROHIBITED AND IS PUNISHABLE UNDER JAPANESE LAW
立入禁止区域
此処ハ米進駐軍ノ施設ニツキ 関係者以外ノ立入を禁ズ
違反スル者ハ 日本ノ法律ニ依テ処罰サレル
――――ご丁寧に日本語まで併記されてあったが、二人ともいちいち車を止めて読んだりなどはしない。読まなくても己が身を以てその看板と金網の意味する所を知らされているからだ。
三メートルほどの高さのある金網フェンスはどこまでも続いているように感じられた。フェンスのこちら側に明かりはなく、その向こう側には光が視えた。
これは戦勝国と敗戦国を区切る国境だ。この周辺地域に住む人間は米兵から聞かされた「オフリミット(立入禁止)」という英語だけを覚え、この国境そのものがそう呼ばれるようになった。
「帝都に帰る前に、少し寄り道する」
「どこに行く気だ」
「ちょっと近くのホテルにな」
「泊まる気か?」
霊銀は尋ねたが、ハムスターの世話が気になっての事だった。もっとも、仕事の時は餌を多めに入れているので一日二日は大丈夫だが、それでも極力面倒は見てやりたい。
「いいや、そういうわけじゃない。……今日は疲れたな」
「眠い」
「今日は泊まらんが、本当ならこんな日はニューグランドで一泊羽根を伸ばしたいもんさ……」
「マッカーサーと寝たいのか?」
霊銀が怪訝な表情で冗談を口にすると、呑龍の口から黒い失笑が漏れた。霊銀も一緒になって笑った。
「クックック……ハハハハハハ……。よせよ、奴等が住んでなきゃの話だ」
この時代、アメリカ陸軍第八軍の気分一つで横浜の全てが手に入った。敗戦国に拒否権は無い、ただ占領され、ただ奪われる、土地も、基地も、兵士の誇りも。
ただ、自分達皇軍の兵士も戦時中には何かを奪って来た。呑龍も皇軍の兵士であったから、横浜がこうなってしまう事に苛つきを感じはするが、負けてしまったのだから仕方がないのだと思える節も何分かはある。
だがフェンスの向こうの光を一瞥すれば、笑みだって消えてしまう。呑龍は苦々しい表情で言葉を吐いた。
「あいつらは何もわかっちゃいねえのさ……」
その言葉の意味する所を霊銀は理解せず、ただ聞き流した。
霊銀は名古屋の出身であるし年も違う、だから判らないだろう。だが、呑龍には別の感情があり、別の記憶がある。
「呑龍」こと池野 潤一はあの日の事を覚えている。
あれが起こったのは五歳の時の事だ、まだ幼かったが、よく覚えている。
大正12年(1923年)、9月最初の日の正午近くのことだった。ネズミが集団で人目に現れ遠くへと逃げ去っていった。
はじめはカタカタと小刻みな音が聴こえ……直後、軍艦の砲撃のような轟音が鳴り響いた。
世界が真っ暗になった。
――――大正関東地震、戦争で地獄は山ほど見たし、今もきっと地獄の中にいるのだろう。でも、あの日ほどじゃないと、呑龍はいつも自分に言い聞かせて来た。戦争を生き抜く事ができたのも、そういう気の持ちようがあったからなのかもしれない。
きっとアメリカ人は、これを一回ぐらいの焼け野原だと思っている。
――違う、東京と横浜が焼け野原になるのは、これで二度目なのだ。
この未曽有の大震災に対して、山下公園の向かいには復興の誓いとして一つの
だがその復興の誓いも当然のように奪われ、今では進駐軍、もっといえばマッカーサーのベッドとして使われている。そして日本人の立ち入りは禁止、本来そうあるべきだとでも言いたげに。
少なくとも呑龍にとっては、彼らが戦争で日本人から奪っていったものの中で最も許しがたい戦利品がそれだった。
考えても考えても、考えるほどに今の自分たちが惨めになるだけなので、兵士であった男はそれ以上考える事をやめた。
寄り道先はとても近かった。それから二分ほども車を走らせれば目的地へと辿り着いた。
立ち寄ったのはオフリミットのフェンスから1キロも離れていない場所に建てられた洋風ホテルだ。戦前と比べて白壁のヒビが増えたようにも思えるが、それでも幸運な事に空襲の難を逃れた大正ロマン建築の洋館はまだその輝きを完全には失わずにいる。
「いらっしゃいませ」
ホテルに入ると男性の支配人が頭を下げた。呑龍は挨拶代わりに懐から手帳を取り出しこう名乗った。
「警察だ」
嘘である。だが印籠の如く突き出した黒革の手帳は確かに本物の警察手帳で、六角形日章も確かに刻印されていた。呑龍は警察官ではないものの、これは表向きの身分として名乗る事を許されているものの一つで、手帳も組織から支給されたものだった。
「あの……どのようなご用件で……」
桜田門の威光に当てられてか支配人は目に見えて表情をこわばらせた。国民のほとんどが闇市に手を染めて生きるような時代に、警察に対してやましい所のない国民など一人も居りはしないのだ。
そうでなくとも誰にだってやましい事の一つや二つはあるものだ。呑龍はニカっと白い歯を剥き、笑みをみせると親指でフロア壁際を指差しこう告げた。
「そう固くなるなよ、なぁに、ちょっとアレを借りに来ただけさ」
呑龍の向けた親指の先、ホテルロビーの壁際には電話機が置いてあった。別にここには何かをしに来たわけではない、単に電話を借りたかっただけだ。
「ああ、そういう事でしたら、どうぞご自由に」
「助かる」
呑龍は軽く頭を下げると壁際の電話機に向かった。この時勢、電話線がきちんと通っている場所を探すより闇市で盗人を探す方が簡単だ。
壁掛けの電話は真新しく新品のようで「電話を大切にしましょう。1回50銭」と張り紙がしてある。まあそのぐらいは払ってやっても良いだろう。
呑龍は現金を入れる場所を探したが、電話機のどこにも見つからない。ホテルの支配人に使い方を聞こうか迷った所で、ようやく電話機の真下についた金属の箱こそがコイツの”賽銭箱”である事に気が付いた。
戦争によって公衆電話のインフラは破壊され、硬化不足などの理由も付きまとって横浜市電ほどには復旧が進んではいなかった。
戦後この時期に登場した最新式”紙幣式”公衆電話であるが、機械自体に現金投入口がなければ投入の有無を判別する手段もなく、通話料金はなんと自己申告制という代物だった。最新式が聞いて呆れるものだ。
国民の良心に委ねたこの代物は当初は高い現金回収率だったが、料金を払わなくても通話ができてしまうことから回収率が低下。最終的には回収率15%まで落ち込み、赤い硬化式公衆電話の登場によって50年代の頭には歴史から姿を消してしまう。
『こちらは来々亭です』
電話が繋がった。女性の受付の声だ。
「シュウマイを三つ」
と、呑龍は言った。秘密の暗号のようなものだ。毎月この符丁は変わるが、暗号は決まっていつも中華料理屋のメニューだ。
受付はすぐに返答した。
『こちら新帝國保安局です』
「俺だ、呑龍だ。至急、調べて欲しい場所がある。松竹館という宿屋だ」
呑龍が靖国神社の描かれた50銭紙幣を箱に収めて通話をかけた先は、東京都の帝國保安局本部だった。通信用の魔術貝殻は持ち歩いているが、ここから本部ではギリギリ通信範囲外であるため、別の通信手段が必要なのだ。
『松竹館でございますね? 調べるので少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか』
「どれくらいだ? あまり時間がかかるなら本部に戻ってから報告を――」
呑龍が言って電話を切ろうかとした時、
「すみません、今代わります」
と、慌てた様子の女性の声が耳に届くと、すぐに声の主が男の声に変わった。
『その必要はない。その旅館なら判る』
「アスタロト局長? ご存じなのですか」
それは上官のアスタロト局長だった。呑龍が聞くと彼は電話越しにこう答えた。
『存じるも何も、東京にあるし行ったこともある。文京区――本郷の所だよ」
「本郷? って言うとまさか……」
『察しの通りだ。で? 何を知りたい?』
「住所と電話番号だけで結構です」
『わかった』
呑龍はメモ帳を取り出し伝えられた電話番号と住所を記録した。
「ありがとうございます」
『がんばりたまえ。では、追っての報告を期待している』
アスタロトがそう言った後、電話は切れた。
後ろをチラりと見る。支配人が霊銀に伺いを立て、何か飲み物を出そうかと尋ねている。霊銀は水があれば良い、とぶっきらぼうに答えていた。
呑龍はまだ受話器を置かなかった。彼はメモを片手に電話をかけた。通話先は――わかりきった事だった。
『こちら松竹館でございます』
「宿泊の予約をしているものだが、日時を再確認したいんだ」
『はい、お名前は』
「伊藤
呑龍はタナカ書店で聞かされた名を名乗った。
『はい、伊藤様でございますね。ただいまお調べ致します。……二人部屋で12月の1日にご一泊の予定です』
「ああ、そうだった。思い出したよ。こんな夜分にすみませんね」
『いいえ、御来客を心よりお待ちしております』
「ええ、今から待ちきれません。それでは失礼致します」
呑龍はそう言うと、ようやく受話器を戻した。
楽しくなってきそうだ。霊銀は支配人から軽食として貰ったドーナツを水で流し込んでいた。呑龍の分もある。せっかく貰ったものなら、食い意地の張った相棒に奪われる前に回収せねば。
「――おおっと」
急いで受話器から離れようとした呑龍だが、ふいに思い立って足を止めた。
「こいつを忘れてた」
呑龍は思い出したように財布からもう一枚、靖国神社の描かれた50銭紙幣を信用式公衆電話の料金箱にねじ込み今度こそ背を向けた。
教育勅諭十二徳目第十一「
たとえ大局的に意味のない行為でも、戦前ばかりを懐かしむ世の中にしないためには臣民の道徳向上に投資が必要だ。
EPISODE「灯台下暗し:2」へ続く。
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