灯台下暗し:2
EPISODE 013 「灯台下暗し:2」
47年の最後の月の最初の日、その日は驚くほど冷え込む一日だった。窓は風によってカタカタと揺れ、激しい雨音が夕暮れの居眠りを女将に許さない。
一階の階段付近の隅にはバケツが置かれ、天井から漏った雨の
雨風の音を破って車の音が耳に聞こえたのは夕刻も終わりに近づいてきた頃合いの時だ。雨の強い日であったために空は雨雲で覆われ昼間から日は射さず、暗く冷たい一日だった。
他の女性従業員と共に女将がモップと雑巾で床の水滴を拭いていると、吹き込んだ冷たい風と共に二人の男が宿に姿を現した。一人は頬に傷のある男で、もう一人は170センチの半ばはあろうかという外国人のように大きな強面の男。
どちらも只ならぬ雰囲気をまとっており、
「いらっしゃいませ」
しかし相手が何者であれ、女将は来客の存在を認めるといつものように、誰が相手であってもそうするように掃除の手を一旦止め、客人二人に対して深々と頭を下げた。
「宿泊の予約を入れていた者だ」
「お名前を伺っても宜しいでしょうか?」
「伊藤
呑龍は名乗った。田中書店で店主を尋問した際に教わった偽名だ。
「はい、承っております。伊藤さまで二名、ご一泊。二階の部屋でございますね。宜しければこちらをお使いください」
そう言うと女将は掃除用とは別の乾いた白いタオルを二つ、雨に濡れた客人へと差し出した。二人は素直にこれを受け取り、頭髪や肩についた雨粒を払う。
「では伊藤さま、お部屋にご案内いたします。お荷物を」
「いや結構だ、自分で持つ」
「俺もだ。問題ない」
二人は鞄を抱えていたが、どちらも荷物を女将や従業員に渡さなかった。
「失礼いたしました。ではお部屋まで」
そうした客も一般的ではないが月に何人かはやってくる。女将は気にする事もなく再び頭を下げると二人の客人を部屋へと案内した。
「こちらでございます。朝食は7時、お夕食は19時からとなっております。大浴場は一階にございます。他にも何か必要なものがあれば何なりと御申しつけ下さいませ」
「こちらお茶になります」
二人の後ろをついてきた女性授業員が盆に茶を載せ部屋に入ると、客人のためにそれを卓上に置いた。
「それでは、またお夕食の際にお伺いさせていただきます」
「わかった、ありがとう」
呑龍が礼を述べた後、女将もまた一礼し部屋を後にした。
田中書店での一件から数日後、二人がやってきたのは空襲による完全焼失を免れ、立ち直る事を許された都内の小さな旅館、それが「松竹館」の正体だった。
通されたのは二階の一室、横浜にあるニューグランドホテルに比べればそれこそ月とスッポンのように貧しく小さな宿であるが、畳の敷かれた和風の室内は宿を求める人々に落ち着きと安らぎを与え、強く冷たい冬の雨から客人を十分に遠ざけてくれる。
「さて……」
荷物を畳の上に降ろすと呑龍は部屋を見渡した。霊銀は既に座布団つきの椅子や壁に掛けられた小さな絵画の裏を覗き、部屋内を不審に物色している。
「どうだ?」
「盗聴器の類はないな」
霊銀はかぶりを振って答える。銀の爪を畳の間に差し込んで、畳の裏までも覗いてみたが何も無かった。盗聴・盗撮のための器具や罠類、祈祷師の用意するような魔術結界の神札なども見つからない。
「こっちもだ。特に仕掛けはなさそうだな」
呑龍は花瓶から花を引き抜き、底を懐中電灯で照らしたがやはり何も見つけることはなかった。花瓶に戻した花をまた元の場所に置くと、彼は窓際の障子戸を開き、旅館の外の景色を眺めた。
「「松竹館」が思ったより早く見つかったのは良いが……”
呑龍の視線の先には雨に濡れる東京大学の姿があり、この天候と時間帯でもその姿をぼんやりとではあるものの認める事が出来る。
古くより東京都文京区本郷に存在する、かの有名な東京大学とこの旅館は目と鼻の距離にある。
本件とは直接の関係のない建物とはいえ、国の頭脳とも言える国立大学と、赤色テロ組織の調査に関連性を持つ本旅館とが目と鼻の先の距離であることは非常に剣呑な事実であることのように呑龍には感じられた。
口封じに遭った稲船の残した手がかりを追ってここに来たが、ここに来る事にどのような意味があるのかは依然として判明しないまま、時間だけが過ぎた。
気づけば夕食の時間である19時をとうに過ぎ、呑龍が腕時計を見ると時刻は21時50分を指していた。最初は熱心に田中書店で手に入れた「嗚無情」を読みふけって手がかりを追おうとしていた霊銀は、やがて飽きて事件と何の関係もないフェアバーンの軍隊格闘本を読み始め、食事を終えると腕立て伏せを行い、風呂に入り、ついには呑龍に後を任せて布団に入ってしまった。
「俺の天使……俺をくそったれな世の中から解き放ってくれ……」
「こいつの頭はどうなってるんだか」
意味不明な寝言を呟く霊銀を一瞥した呑龍は舌打ちすると、彼は一人室内に置かれたラジオを弄り始めた。
46年製造、トム11型 国民型2号受信機の初期型ラジオ。同時期に大量に生産された国民受信機の中では頭一つ抜けたデザインの木製ラジオで、当時の「音が聞こえる箱」といった風貌の簡素なラジオと違い、こちらは家電製品としての美しさを備えていた。
ただあくまでそれは外見だけのもので、中身は出力管として二級品の真空管を使っており上等なものとは言い難い。
当然のように蓋を外し、中に盗聴器などが仕込まれていないか確認もしたが、やはり何も特別なものは見当たらない。
呑龍は一人スイッチを入れたラジオの周波数つまみを動かす。周波数を変えると雑音の中に日本の歌謡曲や英語のジャズミュージックが混じり……そして消えてゆく。
『ザリザリ……尋ね人の時間です』
「今日はこんな時間にやってんのか」
呑龍の周波数を弄る手が止まった。このラジオ番組を知っている、第二次世界大戦で連絡の取れなくなった人々の情報を交換する放送だ。「尋ね人の時間」は基本的には夕方からの放送のはずだが実際のところ放送時間帯は不定の傾向があり、時々こうした妙な時間帯に放送を行うのである。
「復員だより」は南方からの復員が落ち着いた今年の頭ごろに放送が終了したものの、「引揚者の時間」と「尋ね人」の残り二番組は戦争から二年の経過した今も依然として放送が続けられている。
『南樺太の第八十八師団に所属していた亀井 喜三郎という方の消息をご存じの方は「尋ね人」の係へご連絡下さい』
「知らねえな……八十八師団も大勢いたからな」
陸軍八十八師団は玉音放送後も樺太でソ連の侵攻を食い止めるべく戦った部隊で霊銀も呑龍も一時期身を置いたが、全員の顔や名前など憶えてはいない。
『朝鮮出身、関東軍所属で満州での任についておられたヤン・キョンジョンさま、当時の階級は一等兵、新宿区百人町にお住まいの星影様がお探しです』
「俺は37年から戦争やってたが知らねえなあ……満州に居たならソ連に連れてかれたんじゃねえか……?」
こうしてラジオに語りかけていた呑龍であったが、男性アナウンサーが次の捜索情報を読み上げた時その表情が固まった。
『――――海軍の霧島隊に所属していたという男性で「神風」と名乗られた方、福井県の斎藤様がお探しです』
「……そいつは特攻したよ。空母と道連れだ。……あいつの事は陸軍でも皆知ってる」
名を聞くと、呑龍はラジオに向かって呟いた。「神風」にはいくつかの意味がある。その名の通りの超常気象を示す言葉でもあるし、特攻行為を指す言葉でもある。
そして……大東亜戦争で最も有名になった超能力者の識別名でもある。時には翼のように、時には刃のように、超常の風を自在に扱う鳥のような男で、真珠湾攻撃における戦功によって瞬く間に時の人となった。
――――そして終戦一年前の10月25日、彼は永遠の人となった。
初の特攻、組織的な自爆攻撃を敢行した人物であると同時、初の特攻を行った皇軍の能力者でもあった。彼はレイテ沖で多数の戦闘機と能力者、そして空母を道連れにして華と散ったのだ。
彼は海軍の能力者で、呑龍は陸軍の能力者だったが、あの戦争に参加した能力者なら例え帝國軍人でなくとも、世界中のあらゆる能力者が彼の名を知っている。
能力者「神風」を第一号とした帝國軍能力者による相討ち自爆戦術は多くの敵を死に至らしめ、同時に軍の英雄というかけがえない財産を使い潰した。
敵も味方も、国家の英雄を一回限りの消耗品として使い切る恐るべき戦術を誰もが恐れた。……色んな意味で、だ。
「責任感が強くて、潔癖で高潔……真面目過ぎる奴だったよ。だから、俺たちみたいに生き残れなかった」
呑龍にも、いいや、霊銀にも戦争の末期には玉砕命令が下った事があった。二人はその度要請を跳ねのけて、そのために出世の道を閉ざす事になってもしぶとく、図太く戦い続けた。
軍の命令だから死んでくれと頼まれると、責任感の強く、愛想の良い奴から率先して死んでいってしまう。みっともなくとも徹底的に生き延びて戦った方が多くの敵を倒せるかもしれないのに、多くの味方を救えるかもしれないのに、なのに、真面目すぎる奴はそんな事も考えられなくなってしまって――――全てを背負って逝ってしまうのだ。
『旧満州国、
そこまで聞いた所で呑龍は小さく溜息をつき、ラジオの周波数を変えてしまった。ラジオからは再び空虚な雑音だけが響いた。
「どんだけ立派でも、死んだら終わりなんだよ……」
例えどんなに真面目で責任感が強く、聖人君子に近い人物で、おまけに半神が如き力を持った英雄でも、死んでしまったらそれまでだ。特に「神風」は子を残さなかった。本当はああいう奴こそ後の世のために血を残さなければならかったというのに、ひどい世の中だ。
気分を害した呑龍はラジオから雑音を垂れ流したまま、
誰も彼も戦争は終わった、終わったと言い続けるのだが、呑龍はいつまで経っても戦争が終わった気がしない。いつまでも昭和20年が続いているような気持ちになるのだ。
多くの人間が逝って、残ったのは僅か一握り。居て嬉しい奴より、憎たらしい奴の方が多く生き残った。
――――異変が起きたのは、虚ろな眼差しの呑龍が「フウ」と溜息と共に吐いた煙の中に。戦争の光景と、戦前のノスタルジーを見ていた時の事だった。
時刻は22時、結局手掛かりは空振りで一日何も起こらないのでは、そんな考えが脳裏を過ぎり始めていた頃、呑龍は雑音だらけのラジオに異変を感じ取った。
微かであるものの、聞いた憶えのあるメロディーが雑音の中に聞こえると呑龍のこめかみの血管が浮き上がった。
呑龍は慌てて吸いかけの煙草を灰皿に押し込みラジオのチューニングを調整した。極めて聞き取りづらかった雑音だらけの音楽も多少マシにはなり、依然として雑音混ざりであるものの、ラジオに流れる曲をきちんと判別できる状態となった。
「クソ野郎……ようやく来やがったな」
知っている曲だった。そしてその音を忘れるはずはなかった。この特徴的がメロディーはソビエト連邦の軍歌「赤軍に勝る者なし」である事を呑龍が見抜くのことに苦労は要らなかった。
あの戦争は、本当の意味ではまだ終わってはいないのだ。
EPISODE「戦いの鐘が鳴る」へ続く。
===
☘TIPS・人物情報
・関
能力:超常風
日本海軍に所属した伝説の超能力者。超常の風を操る能力者で天性の才能を持ち、真珠湾攻撃で戦功を立て時の人となった彼は、歴史上(※本作歴史上)初めての特攻を行った人物となる。
1944年 10月24日、能力者「神風」はレイテ沖海戦で多数の米軍機、米軍の超能力者、そして複数の空母を道連れに永遠の人となった。
その活躍によって彼は死後も軍神、英雄として称えられたが戦時中の名声が敗戦の後は却って仇となってしまう。戦後という時代は蓋をするが如く彼の存在と彼の苦悩を無かった事にし、忘却の彼方に追いやったのだ。
得意技は「螺旋・神風拳」および「神風脚」、「旋回・竜巻独楽」「風ノ剣」「急降下爆撃蹴り」など、多数の技を有していたとされている。
彼の特攻は多大な戦果をあげたものの、彼の死後、追い詰められた軍上層部は第二の戦果を頼って多数の能力者を特攻に駆り出し始める……。
「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀な能力者を使い捨てるなんて。僕なら自爆せずとも、敵空母を横転沈没させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない、最愛の妻を護る為に行くんだ」
――――能力者「神風」、出撃前日の報道班員への会話。
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