戦いの鐘が鳴る:1


EPISODE 014 「戦いの鐘が鳴る:1」




 転機は22時きっかりに訪れた。


 「松竹館」は空振りなのではないかと思い始めていた時、宿に置かれたラジオからとある音楽が流れ始めた。


 微かに聞こえた音楽を頼りに周波数を合わせても放送の電波は弱く、未だ雑音混じりであったが、発せられている音楽が彼の知っている曲である事に気が付くことにはそれ以上時間を要しなかった。


 ――知っている曲だ。だがそれを思い出すことが愉快な曲ではなかった。



 ソ連と戦争を通して関わった日本人にとってすれば元より不快な曲であった。が、ラジオから流されるノイズ交じりの曲はところどころ音程が飛んで不協和音めいており、掻き立てる不気味さと一層の不快が呑龍の心を昭和20年の闇の中に引きずり込もうとする。



 流されている曲は「赤軍に勝る者なし」、あの憎きソビエト連邦の軍歌だ。樺太から撤退する昭和20年8月の終わり、呑龍たちは挑発的に大音量で流されるあの曲を背中に聞きながら命からがら逃げ延びた。


 逃げきれなかった者の内”運の良かった者はその場で”銃殺された。運の悪かった者はソ連軍に連れ去られシベリアへ連れてゆかれた……その多くは未だ還らぬ、いや、今後も……。





 戦中の嫌な記憶が呑龍の心を支配しそうになったが、この状況下では思い出に浸り続けても居られない。

 いくら戦争の終結と共に日本共産党の存在違法化が解かれたとて、二年前までは共産主義は存在そのもの、思想そのものが違法、それらの歌を流す事も当然御法度、破れば特別高等警察に連れていかれ生きては戻って来ない、そのような禁忌的存在であったのだ。


 ではその類の曲を今こうして流している連中は? 呑龍はこの放送の発信者が到底まっとうな連中とは思えなかった。


「霊銀! 起きろ!」

 呑龍は声をあげて睡眠中の霊銀を呼ぶと、メモと筆記具を取り出しラジオの前で背筋を立てた。


「んー……?」

 布団からムクりと起き上がった霊銀は不機嫌そうながらも、その表情からは気が抜けており彼の意識が未だ五分ほど夢の中にある事を示している。


「妙な音楽が始まった。ソ連の軍歌だ、聞き覚えがある」

「あー……聞いたことがあるなあ……?」

「シッ……何か始まるぞ」


 その間もラジオから流れ続けていたソ連軍歌が終了すると呑龍は黙り、ラジオ放送の次の出方を疑う……。


『これよりまず362号電文をお送りし、101号電文はA-3地域で翌8時から、48号電文は予定を変更しB-4地域にて5日の20時からお送りします』


 すると、ラジオからは音楽に代わって女性の音声が流された。大根役者のように抑揚のなく、それいで無機質で、人の声というよりは機械の音のようだった。


『362号電文をお送りします。362号電文をお送りします。362号電文をお送りします。組数21組、組数21組、本文読み上げます。114 46 18 30 246 191……』


 女性の声は無機質な口調で何か呪文めいた言葉を口にし始めた。呑龍はそれらの数字を素早くメモする。


『……225 28 440 123 97 366。繰り返し読みあげます、 362号電文をお送りします。362号電文をお送りします。362号電文をお送りします。組数21組、組数21組、本文読み上げます。114 46 18 30……」


 不気味な放送は3分ほど続いた後ループに入った。呑龍はじっと黙って繰り返し伝えられる数字の羅列と実際にメモした内容に齟齬そごが無いかを念入りに確認する。


『――以上です』

 その一言と共にラジオ放送は不協和音の入り混じった不快な「インターナショナル」の冒頭30秒ほどを垂れ流し、怪しげな放送は終了した。


 怪放送が終わり全てが砂嵐の向こうに消えてしまった今では、すべては白昼夢のようにも感じられる。だが確かにそれを耳にした証拠として、呑龍の手元には放送内容を書き写したメモ書きが残った。



「これは――乱数放送か?」

「そのようだな」


「内容がわからん、とりあえず本部にメモを持っていって解読を依頼するか?」

「その必要はないと思うぞ」


 そう言うと霊銀は畳に置きっぱなしだった本を拾い上げ机の上に置いた。田中書店で手に入れた「嗚無情」である。


「ワンタイムパッド方式ならこいつが鍵だろう」

「ああ、そこでこれってわけか」


 それを聞いて呑龍は得心する。ソビエトは戦時中の頃より暗号通信手段として乱数放送を頻繁に用いた。

 放送自体は一般市民でも偶然聞く事も叶うようなものであったがそれだけでは意味不明な数字やアルファベットの羅列で内容を知る事は出来ず、暗号に対応した「鍵」を所持している事が必要だった。


 また、暗号解読の鍵は毎回が使い捨てで都度解読に使う代物が変わるため、アナログでありながら秘匿性が非常に高く、特殊な予知能力者や占い師を以て工作員の活動結果を先回りするなどの対策も取られたがどれも対処療法でしかなく、十分な対抗策とはいえなかった。


 ――――しかし幸運な事に今回はその鍵を入手している。無論、田中書店で入手した「嗚無情」のことだ。乱数鍵には辞典や、こうした普遍的な書物などが使い捨てで選ばれることがしばしばあった、現地工作員の入手性などを考慮しての事だ。



 こうした暗号数字は書物の行数やページなど、特殊な読み方との比較によって解読が可能だ。それから霊銀と呑龍はおよそ40分ほどの試行錯誤を繰り返し……ようやく暗号解読に成功した。



 解読した内容は以下の通りだった。



 ヨンマルマルゴウ ハ カクメイニ ミヲササグ。ジョウホウモレ ウタガイアレド ホウシ イチゴウ ヨテイドオリ ケッコウセヨ

 イヌ ノ タイサク ハ ヨンジュウハチゴウ ラ ガ オコナウ


 (400号は革命に身を捧ぐ。情報漏れの疑いあれど蓬矢ほうし一号作戦は予定通り決行せよ。イヌの対策は48号らが行う。)



 解読が終わった瞬間、二人の表情が険しくなった。そこまで馬鹿ではない、この暗号の内の「イヌ」というのが即ち自分達の事を意味することは容易に想像できた。


「おい、これは……」

「うーん? まあ、俺らの事を言ってるんじゃあねえかな?」

 霊銀は気の抜けた同意でこそ答えたが、その目つきは寝起きであった先ほどとは違って猛禽類もうきんるいの瞳のように鋭く油断がなく、口元には微かな笑みが浮かんでいる。まるで今にも迫り来ようとしている危険がやってくるのを心待ちにしているかのようだった。


「妙に静かだ……」

「このビリビリとした感じ……仕掛けて来るぜ」

「油断するな」


 二人はその会話を最後に旅館の部屋の中で息を殺した。呑龍と霊銀は音を立てぬようにして部屋の出口側に寄ると、出入り口となる引き戸の前に霊銀を立たせ、呑龍はその2メートルほど後ろで膝立ちとなり、己が能力を以て右腕を上下二連式の散弾銃へと変形させた。



 室内では既に乱数放送を終えたラジオの砂嵐の音のみが小さく響く。耳を研ぎ澄ませると、未だ外で降り続ける雨の音が次第に大きく聴こえ始めた……。



 静かだ。不気味なほどに静かだった。


 微かに、常人では聞き逃す程度の音が聞こえた。木の微かに軋む音だった。



 ――足音。自然な歩き方ではない、足音を殺し、気配を殺そうとしている。階段を上がって来るのは一人、訓練は受けているようだがエキスパートとは言えない。もっと気配を隠すのが上手い奴は中国のゲリラ兵の中に何人も居た。


 気配は近づいてくる。


 霊銀はまだ能力を発動させない。至近距離で自身の能力発動の気配を察知される事を警戒している。ただ呼吸を完全に止め、右二指貫手の構えを作り、静かに構えた……。



 刺客はすぐ傍にまで迫っている。超越者か? 能力者か? あるいはその両方の資質を備えた戦闘用能力者か? 武器は? 規模は? 二人だけで対処可能か?


 ……呑龍の脳裏を様々な思案が過ぎり、同時にそれを押し殺していく。最早この地は既に血と硝煙を約束されし戦場、考えているような時間は、ないのだ。




 ――――そして、時は突如として訪れた。


 畳の上に針が落ちたかというほどの小さな音だった。床の軋む微かな音と気配を頼りに、霊銀は戸に向かって超高速の二指貫手を放ったのだ。


 能力発動から硬化完了までの速度を重視し、硬化させる身体部位は右手人差し指と中指の第二関節までに絞った。


 弾のように素早く、砲弾のように硬く、日本刀の切っ先のように研がれた貫手だった。霊銀の放った貫手の前では引き戸などは濡れた障子紙ほどの障害物にさえなり得なかった。



 貫手は戸を越えて廊下まで届き、挟んで向かい側に立っていた男の首を貫通した。

「ァァ……!」

 声にもならない小さな悲鳴、あるいは喉を貫き潰された音が戸の向こうから聴こえた。戸の向こうの男は戸に向かって拳銃の引き金を引いた。


 暗闇の廊下が刹那、マズルフラッシュによって地獄の死神の太い腕を照らした。


 闇雲に撃った銃弾は霊銀にも、呑龍にも当たらなかった。代わりに銃弾は部屋の後ろの花瓶を砕いた。陶器の破片と水が飛び散り、ひとしずくの水が呑龍の首筋についた。呑龍は微動だにすることなく、それは眉一つ、顔の筋肉の一つとして例外ではなかった。


 霊銀は硬質化させた二本の指を横に引き抜いた。同時、サイドキックで引き戸ごと向かい側の男の腹を蹴り飛ばした。


 引き戻した銀の指は血に染まり、戸は吹き飛び、男も向かい側の部屋まで飛ばされると、窓ガラスを突き破って転落していった。向かいの部屋、一矢も纏わず闇の中で抱き合い眠っていた中年の男女が、大きな音に驚いた。女性が反射的に甲高い悲鳴をあげた。



「うるせえ黙れ。さもなくばお前の血で日章旗を描くぞ」

 霊銀は構え直すと舌打ちし、奥の部屋に向かって悪態と殺気を放った。





 松竹館から距離およそ1キロメートル、雨降りしきる闇夜にも関わらず、民家の屋根上で身を低くする四人の姿があった。


「――すみません、奇襲失敗です。敵は待ち構えてました」

 最初に口を開いたのはこの時勢にしてはやや栄養の行き届いた中年男性だった。識別名コードネーム【テルヤマモミジ】、能力者である。


 次に深紅に染めた雨衣レインコートを羽織った男が口を開き、こう言った。

「まだまだ甘いな。精進せよ」

「ハイ、スミマセン」


「奴等は所詮は闘争心を失った家畜の集まりです、運が良かっただけですよ!」

 雨の中、まだ幼さの残る十代半ばほどの青年がテルヤマモミジを励ました。


「油断しないように、前に見た連中ならば恐らく敵は能力者。相手を侮って戦争をする愚か者は帝國崇拝の敗北主義者だけですよ」

 丁寧な口調で口を挟み青年をいさめたのは、和弓を手に持ち、腰にはボウガンを下げた能力者【リコー】である。


「……同志リコーの言う通りだ。だが案ずるな、我々には団結の力があるのだ。最後には必ず闘争に勝利する」

「ハイ! 同志フォーティーエイト」

「同志フォーティーエイト、革命にこの命捧げます。どうかご命令を」

「同志、私もです」

「同じく、革命と平和のために殉じる覚悟です」

 リコーがこうべを垂れて赤マントの男に指示を仰いだ。青年も、テルヤマモミジも同様に頭を下げた。



 赤マントの男は立ち上がる。顔の左半分が醜悪なほどに焼けただれた男で、左目と左耳の無い男だった。【フォーティーエイト】と呼ばれた醜悪な男は腰に帯刀したサーベルを引き抜くと、松竹館を指し、高らかなる宣言を雨の降りしきる闇夜へと響かせた。




「冬の雨にも勝りし諸君らの熱き革命への決意、確かに受け取った。【リコー】、【テルヤマモミジ】、【クロガネ】――――やるぞ、堕落した惨めなイヌにしつけを与えてやる時だ」




EPISODE「戦いの鐘が鳴る:2」へ続く。

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