酒瓶が呼んだパラドックス
EPISODE 028 「酒瓶が呼んだパラドックス」
煙草を吸うために甲板上にまで出た翠嵐であったが、夜の冬の日本海の空気は凍てつくような寒さで、呼吸のたびに白い息が漏れる。
「鷺沼主任」
そのような凍てつく甲板上に関わらず、場所の無い保安局技術者はテントにブルーシート、そしてライトを用意し、寒空の下で持ちこみ機器類のメンテナンスを行っていた。
「大島君、酒を飲んだかね」
ブルーシート上に座り込み、コンテナから出した黒い籠手とヘルメットを弄り倒している鷺沼主任は、後ろの
「わかりますか」
「君はよく飲んでるからな、声でわかるよ。しかし、試験運用者が飲んでいては困るね……」
「飲まなければやってやれません」
翠嵐は言葉を返す。彼の表情はこの夜と同じように暗かった。
「それに……」
「それに?」
「――霊銀に酒を飲ませました」
「それが何だというんだ」
鷺沼が不機嫌そうに聞くと、翠嵐は。
「酒を飲ませることで、人間は通常と異なる行動を取る事があります。結果、未来に些細な変化が起こる場合があります」
と答える。遠回しな言い方は、鷺沼にとって苛立たしいものであったが――――
「それで? 何か未来とやらが変わったとでも?」
「大筋は変わりませんでしたが、少々気になる光景を見ました。調べに行こうと思うのですが、問題が……」
「要点を言いなさい」
「若干、戦う事になるかと」
「戦闘を問題と思っているのはチーム内で君だけだ。籠手だけでも着けていきなさい」
「いえ、内部で戦うと問題が多いので、甲板上で戦おうと思います。鷺沼主任は準備の方だけお願いします」
「良いだろう。調査を」
「一本吸ってから行きます」
この間も鷺沼は一度も大島と目を合わせる事はおろか、振り向く事さえしなかった。彼は部下の技術者と共に機械の整備を続けた。翠嵐は煙草を取り出すと、闇のような海に向かってマッチの火を起こした。
★
煙草を吸い終えた翠嵐は船内に戻ると、迷子か夢遊病者のような足取りで船内奥向けて歩き始めた。
「この道じゃない、こっちか……」
時折道を間違えながら船内を歩く翠嵐は瞳の向こうに白昼夢の景色を見ていた。それは酒に酔った霊銀が好奇心でか、この軍艦ノースカロライナの奥深くにあるエリアの一つに迷い込む光景だ。
今この瞬間、霊銀は恐らくゲスト用船室の海軍ベッドでいびきを立てている筈。故に翠嵐が見ているこの光景は現実の光景ではない。
――――「将来起こり得る可能性」、と呼称するのが適切かと翠嵐は考える。
本名を大島
彼が今見ている白昼夢の景色も「これから起こるかもしれない未来」の光景だ。勿論お約束事のように「予知能力」と呼称しても良いのかもしれないが、霊銀に話したように翠嵐本人は”未来”そのものの不安定さも理由にあり、万能の能力と思われる事を嫌がっての事もあり、そうは呼びたがらない。
船の中を進むと途中、通路内で何人かの米兵とすれ違いになり、その度に怪訝な表情で見られた。白昼夢の光景を追いかけて目的の場所に近づくと米兵がグリースガンを持って立哨しており、その先に部外者が足を踏み入れる事を拒んでいた。
「止まれ」
奥に繋がる通路の扉前で立哨した兵士が立ちはだかると、強烈な警戒心と敵意を露骨に顔に浮かべ、翠嵐をその場に制止させる。
「なぜだ」
「この先は部外者の立ち入り禁止だ。ジャップが船内をウロウロするんじゃあない」
米兵が睨みつけて言うと、翠嵐はこう言った。
「許可は得ている」
「許可だと? 一体誰の――――」
既に翠嵐は動き出していた。彼の瞳には現実の景色と、白昼夢めいた予知の光景とが入り混じって映し出される。酒に酔った霊銀が、徒手で瞬時に二名の兵士を制圧する光景。それに続いて翠嵐も一歩踏み込み、米兵の首筋に表手刀を打ちこみ昏倒させる。
予知の光景では残ったもう一人が銃を撃つより早く、霊銀が飛び膝蹴りを相手の腹部に見舞っていた。その幻影の背中を通過するようにして翠嵐は右の縦拳を放ち、深く鳩尾に食い込むと米兵は悶絶し倒れた。
肉体強化の恩恵を受けた戦闘向きの能力者の身体能力をもってすれば、この程度は朝飯前、障害にはなり得ない。
「鷺沼主任の、だがな」
翠嵐は扉の先を見る。通路の扉を開け、足取りのおぼつかない霊銀がその先へと迷い込んでいく未来の光景が彼には視える。
「悪いな、通らせて貰うぞ」
一瞬の内に打ちのめされ、返事さえ出来ない米兵を乗り越えて翠嵐は立ち入り禁止区域の奥へと足を踏み入れる。
「ここか……」
白く塗装された鋼鉄扉の前で翠嵐は足を止めた。異様な空間で、頑丈な扉の奥からはまるでボイラー室のような機械の唸り声が聴こえて来る。この区画だけ壁の塗装も違う、後付けで作られた部屋であることが推察できる。
ここだ、”将来”、霊銀はここに迷い込む事になっていた。それはまだ現実として起こっていない出来事であるが、その予知をもとに翠嵐はこの場所に辿り着き、結果、現実は更に変わったのだ。
「……未来が変わり始めたか」
予知が不安定になったのだ。翠嵐は舌打ちするが、原因はわかりきった事だった。翠嵐自身が”起こり得る未来”よりも先にこの場所に辿り着いてしまった事が問題なのだろう。翠嵐がこの場所に辿り着いた事で更に未来が書き換わって、その結果霊銀はここには来なくなる。――そういうパラドックスを今、翠嵐は起こしている最中なのだ。
翠嵐は扉に手を触れる。当然ロックがかかっている、霊銀ならば馬鹿力でこれをこじ開けられるだろうが、翠嵐にそこまでの自信はない。
鍵穴は見当たらない。しかし、その代わりに銀行の金庫さながらの丸ダイアル錠が取り付けられているではないか。
「成程な」
流体金属で指先を変形させられる霊銀が扉をピッキング出来ず、力に頼った理由が判明した。
だが翠嵐にとっては僥倖である。翠嵐は一歩扉から離れ、ダイアル錠に意識を集中させる…………来た。眉間を針が突くような感覚と共に未来と可能性のビジョンが飛びこんでくる。
……大慌てで扉へと駆け寄って来る米軍将校の姿、彼は緊張した表情で扉のダイアルを回す……。翠嵐は、ビジョンの中で米軍将校が行う未来の開錠手段をなぞって、ダイアルを右に、左に動かす……。
開錠音が微かに聴こえた、幻覚ではない。確かに開錠された鋼鉄扉のノブに手をかけ、開く。
パラドックスによって既に未来は変わりきっており、霊銀がこの地に足を踏み入れるビジョンはもう視る事が出来なかった。代わりに、翠嵐は自身のその眼で、その光景を確認することとなった。
軍艦の貴重なスペースを大幅に占有する部屋の中央には鉄のカーテンに覆われた巨大カプセルが置かれ、その下からはふやけたパスタのように黒い大小のケーブルが床中無尽蔵に伸びきっている。
壁にはよくわからぬ巨大な機械がモノリスの如く並べられ、それらの機械音と冷たい風を運ぶ空調の音がボイラー室のような音を室外にまで響かせていたのだ。
カプセルの手前には更に得体の知れない、それでいて一際目を引く物体がある。金属デスクの上に固定されたそれはブラウン管テレビに似ている……だが違う。
この白い箱のモニターにはモノクロの映像の代わりに緑の文字列が映し出されており、モニターの下にはよくわからない横長の穴がついた装置や、アルファベットが書かれたタイプライターのような装置……こんなものは未だかつて見たことがない。
「それは、我々が「マークII」と呼んでいる機械だ」
部屋の入口から、翠嵐に声をかける存在があった。
翠嵐が振り向く。……彼の予想していた人物が現れた。西部劇のカウボーイのような衣装に身を包んだ身長2メートルをも超える巨漢、魔術結社ハンムラビの能力者【アンシンカブル】であった。
翠嵐がこの厳重立ち入り禁止区域に力尽くの不法侵入を行ったことは誰の目に見ても明らかであった、にも関わらずアンシンカブルはそれを怒鳴り建てる事もせず、ただただ低く小さな声で呟いた。
「それは将来、世界の在り方を変える事になる機械だ。しかし早すぎた、生まれて来るのが、あまりにも早すぎた……」
EPISODE「誰がリンゴを食べたのか」へ続く。
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