夢の香りを追って:2
EPISODE 008 「夢の香りを追って:2」
同居人の世話があったため、立峰が帝國保安局の本部に辿り着いたのは結局10時半も近くになってからの事だ。
本部の扉を開け、いつものように受付を兼ねている祈祷師の女性から挨拶を受けるとその先のロビーに、通信用の魔術貝殻を片手に握ったままの池野が当然待ち構えていた。
「よう、今日も随分遅い出勤だな」
「同居人の世話があったからな」
すると池野は眉を吊り上げこう問いただす。
「おいお前……前の話だが、本気でネズミなんか飼ってるのか?」
「そうとも言えるが、ハムスターと呼んで欲しい」
立峰は至極真面目な表情で言った。
「……ネズミの仲間なんだろ? それを檻の中に入れて? ……やっぱお前変わってるよな」
「ただのネズミじゃない、ハムスターだ。イギリスでは既にペットにされてるらしい」
とは言う立峰ではあるものの、池野にとっては日本で聞き覚えの無いネズミの仲間を愛玩して飼育するなどという習慣については何度聞いてもやはり釈然としない。
「ネズミには違いないだろ? それに英国人は変わってる、奴らならネズミだって飼うだろ? 舌がおかしいから食うかもしれない」
「ネズミは食ったが不味い、腹も壊した。ハムスターは多分美味いぞ、まだ試してないが」
「試そうとは思わんね」
「美味いのは良い事だぞ?」
「もう一度中国戦線で食料が足りなくなったらお互い試してみようじゃないか」
池野は皮肉で答えた。
「じきに日本でも流行るぞ、あいつらが日本の家庭を支配し犬猫と取って代わる日が来る」
立峰は自信満々に言い放った。池野にとっては人々が犬猫の代わりにネズミを檻の中に閉じ込めて飼う未来が来るなどと、正気を逸しているようにしか思えなかった。
「まあ……お前が言うならそうなんだろ」
「それより、要件があると言ったな」
「ああ、こっちだ、ついてこい」
話を本題に戻し、二階オフィスにある池野こと工作員「
「とりあえずこいつを見ろ。この間くたばりやがった稲船だが、【赤の楔】のバッジを持ってた話まではしたな?」
「過激派の反政府組織か」
「そうだ。俺たち保安局のほかにもGHQも追ってるような連中だ。奴の家にあった日記を解読させたんだが、稲船がその一員であった事は間違いない。警察署や軍事施設の爆破を計画していたようだ。後見つかったのは電子部品とか、火薬とかだな、爆弾作ろうとしてたらしい」
「その為の闇市への買い出しか」
「まあそういうこったな。それで他にも面白い物を見つけた、例えばこれだ」
池野は遺留品から見つけたメモの複写を机の上に広げてみせる。「石中町カナタ、注文せよ二四六〇一号」……それは何かの予定を書いたメモのように見えるが暗号めいた言い回しになっているために一体どのような予定であるかまでは判らない。
「どうやら何らかの予定があったらしい。……まったくもって意味はわからんがな」
いつの間にか池野はYシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、煙を味わっていた。
このメモの意味する所を知るであろう書いた本人を拷問するのが早いはずだが、困った事に奴はもう死んでしまっている。やはり証人となる稲船を生け捕りにできなかったのが痛い、ニコチンと葉の香りがもたらしてくれるリラックスを打ち消す溜息が池野の口から煙と共に漏れ出した。
それから椅子に座ったまま首と背中後ろの方に逸らし、言葉を発しない立峰の方を見る。立峰は腕組みし何やら難しい難しい表情をして直立していた。
その表情を不思議に思った池野は一言、表情の理由を尋ねた。
「……どうした?」
「いや……」
「教えてくれよ相棒、何か思う所があるんだろう?」
「確証はないが……」
「言ってくれ」
すると立峰は卓上の謎のメモ「石中町カナタ、注文せよ二四六〇一号」の一点を指差してみせる。
「こっちのはアテがある」
「「石中町カナタ」か?」
「いいや、”こっちの話”だ」
立峰は否定し、指先をほんの数ミリ横に動かしなおす。
「「二四六〇一号」……? こりゃどういう意味だ」
池野が問うと、このように返って来た。
「パン泥棒さ」
「……はあ?」
★
メモの暗号の内「二四六〇一号」については立峰のお陰で目星がついた。「石中町カナタ」についての目星をつけるのには一日を要した。行動を起こしたのは更にもう一日後の事だ。
その日もいつものパトロール任務と称したドライブと同じように40年型のフォード・クーペを走らせたが、行き先はいつもより少し遠かった。
――――車を走らせている現在地は神奈川県横浜市、戦前は富岡や根岸の飛行場施設から皇国の鉄の
「横浜か……変わったな」
「ああ、今じゃ全部米軍に持っていかれちまった。元々は俺たちの場所だったのに……哀しいもんだよ」
運転席の池野こと「
記憶の中の景色に写る華やかな横浜の景色……路面電車が行き交い、日章旗より明るく鮮やかなオレンジとホワイトの建築物が立ち並んでいた。
道路の片隅には皇軍の軍服に身を包んだ青年が立ち、誇らしげに笑顔で敬礼を送っていた。それを婦人たちは日章旗と旭日旗を振って笑顔で見送った――――。
今はもうない。相次ぐ空襲と戦火、そして戦後急増した犯罪が呼んだ”きな臭い”風からは横浜でさえ逃れる事を許されなかった。
立峰の瞳が戦前ではなく今の景色を映したとき建築物はところどころが崩れ、鮮やかだったオレンジとホワイトは色褪せ、ひび割れ、その美しさを失っていた。
出征する若き皇軍の青年兵士と婦人の姿はもはやどこにもない。彼らがどうなったのかさえもわからないし、それを確かめる術もきっと戦火が全てを奪い去っていってしまった。あれだけの戦争だ、生きていないかもしれない。
皇軍兵士は全て消え失せ、代わりに今ではアメリカの兵隊が街をうろついている。痩せて汚れた子供達がジープの周りに腹を空かせた鯉のように集まって、兵士は苦笑いを浮かべながらそれらの餌やりをするのと同じような所作で飴玉とチョコレートを恵んでいる。帝国陸軍も帝国海軍も滅びてしまった今、彼らが日本人にとっての新たな軍隊であり、今の
霊銀は呑龍と違って、それらの景色を見た時、怒りや悲しみよりもただ無情を感じた。あの戦争が良かったとか悪かったとか色々言う輩が言うが、少なくとも霊銀にとっては戦前見たあの景色こそが「自分の知っていた横浜」の景色だった。
変わってしまった世界を前に、それら記憶の中の景色がもはやこの世のどこにも存在せず二度と還らぬことを確認し、その記憶さえも新しい記憶によって急速に塗り替えられ消えてゆこうとしているのを霊銀は実感した。
大日本帝國、大東亜共栄圏の夢、戦争。救国の英雄、生ける軍神と持て
――――ただひとつだけ、興奮冷めやらぬ夢から醒めた時の居心地悪さだけが「敗戦」という言葉で残り続けるのだ。
皇軍滅び、命からがら落ち延びて、それから幾夜を越え、幾つの朝日を目にしても、
俺たち兵士は末端の歩兵にあってさえ夢の責任を責められ続ける。
それは戦士にとって、呪いと呼ぶに十分すぎるものだった。
「赤レンガ倉庫も空襲で焼けたか?」
「いや、あれは無事だった」
「そうか」
「――だが、戦争が終わってあれも米軍に取られちまった。根岸と富岡の飛行場、港も持っていかれたな。……果てはあいつら軍隊の施設だけじゃ足りなくて、ついには横浜の税関まで持っていきやがった。一応は日比谷に本部を移したことになっているが、結局のところは今もあそこに進駐軍の基地を置きっぱなしのままだ。知ってたか?」
そして元兵士の日本人工作員は焼け野原のど真ん中に急造の建物を立てて仕事をせざるを得なくなった。コンクリート製だが鉄筋は細いし、雨漏りと配管からの水漏れが時折起こるから局長のアスタロト自身が修理に出ている始末。
ネズミは机の角をかじっていくし、超人的腕力で壁をちょっと小突けば穴が開いて始末書は増え、床にビー玉を置くと勝手に転がってゆく。
他の建物にはもっとひどいものもあるとはいえ、それは新帝國保安局の本部が欠陥建築でない事の証明には到底なり得ないのだ。
「ああ、赤レンガの話は初めて聞いたが、それ以外の事は多少、な」
「じゃあ……こっちの話は知ってるか? 対進駐課の工作員の報告を」
気分の重くなった呑龍は話題を変えた。ネズミの走り回る職場とネズミを飼育している相棒と行う仕事の日々……これ以上考えると胸やけがしそうだった。
「知らん」
「港と倉庫と基地全部かっぱらって、周辺から日本人を追い出したのを良い事に、をあいつら昼も夜も問わずあの辺で何かの工事をしてるらしい」
「工事?」
「ああ、それも重機だけじゃねえ、わざわざ本国から能力者を呼んでそいつにも掘削させてるらしい。怪しいと思わないか?」
「さあな、良い気分はしないが、俺には関係の無い事だからな」
確かに二人の管轄外の出来事とはいえ、霊銀の反応は少し冷ややかだった。
「そうかい。でもあいつら何か企んでるぜ、地下に新しい基地でも作るんじゃねえかな」
「既に厚木飛行場と横須賀、相武台(※)だってあるだろう。基地は足りている筈だ」
(※=21世紀で言う所の「キャンプ座間」にあたる場所に存在した日本軍の軍事施設。陸軍士官学校が存在した。戦後は米軍に接収され、兵站基地として整備・運用される。)
「知るかよそんな事」
呑龍は思わず毒づいた。そう、知らないのだ。あちら側の動員する多数の
日本の諜報機関に身を置いているにも関わらず、GHQが堂々と日本国内、それも横浜で行っている工事が何のためのものかさえ知ることができないのだ。
――――霊銀の言う通り、自分の仕事には直接の関係のないこととはいえ、歯がゆい事実である事に変わりはなかった。
「あとどれぐらいかかりそうだ」
車内の静寂を打ち破って霊銀が目的地までの所要時間を尋ねた。
「もう30分ぐらいだな」
と、呑龍はおおざっぱに返したのだが。それを長いと受け取ったのか
「そうか、着いたら起こしてくれ」
と、助手席の霊銀は地図を後部座席の存在しない車の後ろ側へと放り出し目を閉じてしまった。
「おい、お前が寝たら誰が地図を見るんだ」
「お前だ」
「おい冗談を言うな……おい」
呑龍は運転中にも関わらず助手席の方へと余所見し霊銀を呼び起こそうとした。思わず手を伸ばしたが、その瞬間に霊銀が自身の能力によって金属硬化させた鋭い貫手が襲って来たので、事故を起こさないように攻撃をいなすのが精一杯で、彼を掴み叩き起こすことはできそうになかった。
「しょうがねえなあ……」
観念した呑龍は舌打ちするに留め、せめて道を間違えないよう、土地勘の十分とはいえない道の上を傷だらけのクーペに走らせる。
――――途中、横浜の市街地を走る路面電車をフォード・クーペは追い越した。
横浜市は戦時中25回の空襲を受け、それらによって市の42%が被害を受けた。横浜市電も202両中の45両を喪失し、それらは致命的な被害ともいえた。
しかし戦後大復興による立ち直りが非常に早く、今年47年には大部分の路線が復旧、今この瞬間こそが路面電車の絶頂期であった。
「まだこいつは残ってるか……」
この街で唯一色褪せまい、まだ歴史の中に消えてなるまいと足掻いている路面電車の車両と、電車の窓に張り付いた子供の笑顔を見て、呑龍もまた微かな笑みを浮かべた。
EPISODE「健康優良児」へ続く。
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