健康優良児


EPISODE 009 「健康優良児」




 霊銀こと立峰は血も涙もない男である。戦いを好み、血を好み、敵を斬り、敵を撃つ。時には拷問も行う。それが仕事で、使命だった。

 彼に冷酷な殺人鬼としての資質があったことは間違いないが弁護は叶う。時代が、国が彼に求めた必要なことだったのだ。立峰はそれを行い、任務のためであれば道徳心を捨て置き、自らの感情を抑制することが他の兵士よりも少し上手だっただけだ。


 兵士とはそういう使命を課せられた存在であり、大日本帝國の皇軍兵士が特別な存在ではない。そうした使命はどの国、どの時代においても普遍的なものだ。ゆえに戦争は無くならない。と教訓のようにこの話を締めくくれるだろう。




 ――――しかし少し待って欲しい。話をここで終わらせることも出来るが、ちょっとばかり面白い話がここにはある。


 今ではにわかに信じがたい事であるが、彼にも血を嫌い、草木を愛で、ピアノを弾きながら小鳥たちと共に歌を歌うような時期はあった。


 立峰たつみね しるべは大正10年(1921年)、とある上流家庭の夫婦の間に生まれたただ一人の子供としてこの世に生を受けた。


 貴族の生まれでこそ無かったが、両親はかの南満州鉄道株式会社の役員であったことから事業の成功によって多額の財を成し、そのお陰によってしるべは庭付き二階建ての屋敷で物質的には恵まれた少年時代を過ごした。


 その少年は背丈だけなら既に当時の成人男性並みであったが体の線はまだ細い。歩幅が広いから走るのは早い方だったが運動経験には乏しい。他の子供達よりも背丈が高く、表面上の教師への受け答えがよく、学校の教師を唸らせるだけの愛国心とそれを表現する教養、すなわち語彙力があり、家庭教師を雇える身分であったがため頭は良く人一倍勉強は出来た。


 ――そうそう、それと金持ちの家の子供ということ。これは大変重要だ。



 付け加えて運の良いことに、同学年の男女には超能力サイキッカー超越者オーバーマンの才能を持つものが一人もいなかった。


 11歳のときに学年に一つしか手に入らない健康優良児メダルが貰えた理由はそれが全て。要は標少年が最高だったのではなく、”メダルを渡すのに最も無難”だったのだ。


 身体は大きいが気の弱く他人と打ち解けにくい少年であったために、屋敷の外を一歩出ればいつもこっぴどくやられて帰ってきた。



 まだどこか拙くも美しさの片鱗を覗かせる旋律が流れる。喧嘩と呼ぶには一方的すぎる暴力によって擦りむいた指先が弾くピアノの鍵盤が奏でる曲はドビュッシーの「夢」だ。あどけなくもこの年でこれだけの曲を弾けるのは特技である。何をやらせても人並み以上には才能のある天才肌の子供であった。


 ピアノの旋律を奏で終えると少年は溜息を吐いて静かにうつむく。


 屋敷に戻れば様々なモノに溢れている。庶民には決して手の届かないピアノや、卓上の黒電話。壁に掛けられた贋作がんさくであるゴッホの「ひまわり」。

 和室に行けば日本初の自動温度調節器つきの「ナショナル電気コタツ」だってあるし、父母の付き合いで営業マンに貰ったポスターもこの部屋に飾ってある。


 本棚には田山 花袋 著「日本一周」、連横(リャン・ヘン) 著「台湾通史」、ユゴー 著「嗚無情ああむじょう」、さかえ ひかる 著「知恵の実」、ダシール・ハメット 著「The Maltese Falcom(マルタの鷹)」、中にはカール・マルクス 著の「資本論」英訳版や出口 王仁三郎おにさぶろう 著「霊界物語」のように社会的に際どい書物もあるが、これだって庶民は手に取らぬどころか書物の概要さえ知らずに生涯を終えるかもしれない。


 少なくともしるべと同年代の子供達は今この瞬間も外で青っ鼻を垂らしながら鬼ごっこや野球に興じているはずで、標は彼らとは格の違う家庭の子供なのだが……これだけモノに囲まれていてもその心中は幸福とはなれなかった。


「上手だな、しるべ


 標が声に気付き顔をあげると、部屋の入口に老人が立っていた。杖をつき、はかま姿に山高帽を被っているその人は高槻 甚衛門じんえもんという名で、しるべの母方の祖父にあたる人物だ。もう片手には布で包んだ箱状のものを手にげていた。


「おじいちゃん? おかえり」

「ああ、ただいま。昨日はお父さんとお母さんに会って来たぞ」

「日本に戻ってきてるの?」

「ああ」

「お家に帰って来る?」

 標が尋ねると甚衛門は口をへの字に曲げてこう答えた。

「いいや、帰って来んだろう。また仕事で明日には帝都、その次には満州に向かうそうだ」

「そっか」

 今日も両親は帰って来ない、そうと知っても標の反応は素っ気ない。よくわかっていることだからだ。二人とも仕事と金のためにあちこちを飛び回っており、名古屋の自宅はおろか内地にいない時の方が近頃は多いのではないだろうか。


正男まさお佳苗かなえに会いたいか?」

 甚衛門が聞いたが、標は首を大きく横に振ると

「ううん、会いたくない。父さんは僕を殴るし、母さんは東大に入れ、ピアノは辞めろってうるさい。それに大東流の武田先生をお呼びしたいのに、呼ばせてくれないんだ」

 と、口から不満を吐いた。


「そうか」


 標の両親は金持ちだが、標にとってはそれ以外の何かを持ったような人物ではなかった。出来れば会いたくはない。


 彼らは「枕元に現れた精霊のお告げ」とやらによって作る事を決めた一人息子のことよりも満州にどれだけの鉄の線を引く事が出来て、人を運ぶ”鉄の鶏”がどれだけの金の卵を自分達のために産んでくれるかの事の方が大事な人間だからだ。


 そして困った事に一人息子の見解と、彼らの父親の見解には使う言葉さえ違えど見解の方向性は基本的に同じである。



「ところで、武田先生とは誰ぞや?」

「柔術の先生だよ。大東流合気柔術の師範で物凄く強いんだ」



 標は笑顔で答えた。後世に伝わる武術であるいわゆる「合気道」の創始者が師と仰いだ男こそが「大東流合気柔術」の創始者である武田 惣角そうかくであり、魔術名「小天狗」として知られた剣術および柔術の達人である。


 彼は身長たったの150センチの小男であるにも関わらず、戦時中の1943年にアメリカの超能力者との戦いによって命を落とすまでは無敵の存在とうたわれた存在である。


 生涯自らの道場を持たず、西から東へ野死合を行いながら旅を行い、教えを請うものには身分や年齢の差別なく何人であっても自らの技を惜しげもなく伝えた人物とも知られ、それらの振る舞いによって武田惣角の名は存在は実在する伝説と呼ぶに値する所にまでこの時期高まっていた。


 ――しかし、孫から武田なる柔術家の話を聞かされた甚衛門の表情は浮かない。

「……標」

「なに?」

 標が小首をかしげると、甚衛門は突如こう言った。

「服を脱ぎなさい」

「……やだよ」

「上だけで良い。見せなさい」


 標はそれを拒みたかったが、甚衛門の鋭く険しい眼差しが少年に拒否を許さなかった。標が渋々衣服を脱ぎ上半身裸になると、紫色に変色したアザだらけの少年の肌が露わとなった。

 それが同年代の少年たちに殴打されての傷である事は目に見て明らかだった。甚衛門はそれらの痛ましい傷を見て、こう呟いた。


「……今日も随分やられたなあ」

「負けてない」

 標は頑なな表情で言った。


「やられただろう」

「負けるのは死んだ時かそれを認めた時だけ」

 標は尚も抗弁する。それは確かに孫を励ますためにいつかに言った言葉であるが、それをこのような形で返されるのは甚衛門にとっても頭と胸が痛む。


「確かにそれを言ったのは私だが……」


「大東流を学べばつよくなれる。つよくなればやり返してやれる」

「強くなりたいのか?」

「うん、つよくなりたい」

 即答する標の眼差しはとても純粋で曇りなく、磨き上げられ光を当てられたガラス玉のようだった。


「参ったなあ……」

 甚衛門は近くの椅子に腰を降ろし、小机に布で包んだ箱を置き、それから杖を立て掛ける。それから甚衛門は山高帽を脱いで禿げ頭を軽く掻いた。


「しょうがない……佳苗には怒られるが何か考えるとするか……。武田先生とやらは判らんが」

 老人は深い深いため息をついた。標の母である佳苗は、勉学の邪魔であるからと息子が武道を学ぶ事を禁じている。

 しかしこのままで良いとも甚衛門は思えない。自身がもう少し若ければ直接剣術を教えてやれたのだが……友達もいないこの子には理解し合える友人と自信が必要なのだ。


「もう服を着て良い」

 甚衛門がどこか投げやりに言うと、標はようやく服を着る。甚衛門が浮かない表情で沈思黙考に浸っていると、小机の上に置かれた箱が微かに揺れ、カタカタと小さな音を立て始めた。


「この事はまた後で話し合おう。……それよりもだ、標、お前に土産があるぞ。ほどいてみなさい」

 それを見た甚衛門はふいに持ち帰った手土産の事を思い出し、箱を包んでいる緑の風呂敷の結び目を解くように指示する。


 標は不思議に思いながらも箱に近づき、風呂敷の結び目を解き、音の主を明らかにする。


 動物図鑑は軽く目を通したはずの標であるが、このような生き物を見たのは生まれて初めての事だった。

 それはネズミのようでもあるが手のひらに収まるほどの大きさしかなく、毛色は茶色がかった灰色と白で毛並みもふんわりとしており、耳もネズミのそれと比べてかなり小さい。


「わ、なにこれ?」

 孫は尋ねたが、甚衛門は首を横に振る。甚衛門もそれを知らないからだ。


「私もよく知らん。正男が言うには満州に行った時、中国人から買って来た生き物らしい。図鑑に無い生き物だから、中国の奥地にしかいない新種の生き物かもしれんとか言っとった」



 摩訶不思議な未発見の小動物、としか言いようがなかった。


 一応見てくれだけならネズミの仲間に見えないこともないのだが――――

 その正体ははっきりとしないし、はっきりとするまでに後50年ほどの歳月が人類に必要などという事さえ知る由もない。


 中国北西部ジュンガル盆地から偶然日本に渡ってきた、人類には早すぎたこの珍妙な生き物はその生息地に”ちなんで”後に「ジャンガリアンハムスター」と名付けられる動物であるが、まだペットにされる事はおろか生物学者にすらろくに認知されていない幻の動物で入手も目撃も困難極まる。


 ただし、偶然現地住民に捕獲されたものがブラックマーケットを通してごくごく少数「正体不明の生き物」のまま、ジュンガルネズミだとかジャンガリアンネズミだとか適当な仮称をつけられて各所を経由し、たとえば満州に用事のあった裕福な日本人が物珍しさで持ち帰って来る可能性は超能力者の仕業でなくとも考えられることだった。




 あらゆる人類に先んじてハムニケーション・アーリーアクセスの権利を獲得した標はその幸運と向き合った。ハムスターもまた少年の存在に気づき、彼の瞳を見た。


 小動物の小さな二つの黒くつぶらな瞳が、少年の冷たい心を捉えた。


 友達を持たず、両親の精神的な愛にも恵まれず、異性にも関心を抱かず過ごしてきた少年は自分以外の生命に対して生まれて初めての関心を抱いた事に気づいた。


 少年は生まれて初めて「運命」という単語を認識した。――――あるいはこの先生涯を通じてその単語を認識することはなかったかもしれない。


「わー、かわいい……」

 孫の口から初めて聞いた言葉を耳にして甚衛門は驚きに目を丸くした。何より標、本人がその気持ちに初めて驚いた。幼くしてこの世のあらゆる生命への関心を失いかけていた少年は友達や恋人を持ちたいとも、持てるとも思えなかったのに、この愛くるしい小動物とは友人になれそうな気がした。それほどまでにこの出会いは衝撃的で、運命的なものだった。


 孫の嬉しそうな表情を見て甚衛門は満足げに頷いた。

「正男は調べて貰うために軍が新設するらしい防疫ぼうえき給水部に送るつもりだったようだが、めんこい見た目だったからその内の一匹を貰って来たんだ。……どうだ? 面白いから飼ってみるか?」

「うん!」

「そうか。仲良くしなさい」


「これは何を食べるのかな?」

「さあなあ? 野菜でも何でも食うんじゃないか? 昨日は大根の葉をやったら喜んで食ってたぞ」

「そっか、じゃあキャベイジとかでも平気かな?」

「どうだろうな、でも食うかもしれん」



 何せ学者も知らないような新種の生き物であったから全ては手探りだった。毎日飼育記録をつけ、独学で彼女の事を勉強した。性愛を知ることが無かった代わりに、これは恐らく人生でもっとも愛と情熱に満ちた時間だった。


 そのときは雄か雌かもわからなかったから、最初は雄と思い込んでマコトと名付けた小さな友人の命が燃え尽きてしまうまでと、少年の数少ない味方であった祖父が急逝してしまうまでの非常に短い期間は自身が人間らしい感情を持って過ごせた唯一の時間だったかもしれない、と立峰は時に思い返すことがある。



 結局この淡く儚く短い思い出の中にあった感情は戦争の炎に焼かれ夢の中に消えてしまったが、その記憶だけは残り続けた。そして眠りに落ちると、今も時々この夢が現れて、夢の中の真と祖父は何かを思い出させようとしてくれるのだ。


 ――だからだろうか、最初の真と死別して以来今も同じ種類の生き物を探して、タイの闇市などで雌の個体を見つける度に同じ名前を付けるのは。


 自分自身、自分の事などわかりきってはいないが、あるいはそうなのかもしれないと夢の中で嗤い続けている。



 ★



「――起きろ、健康優良児」

 生まれて初めての友人との馴れ初めに心をときめかせた思い出の夢から立峰を引き起こさせたのは今の仕事の相方である池野こと呑龍どんりゅうの声だった。


「……着いたのか?」

「近くまではな。ここからは降りるぞ」

 呑龍がそう言うと立峰こと「霊銀」は片目を閉じたままの渋い表情で車外の景色に目をやる。見知らぬ街の路地裏に停めたフォード・クーベの車内に夕日が差し込んでいた。





EPISODE「銀の贖台」へ続く。

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