林檎の気持ち


EPISODE 023 「林檎の気持ち」




 呑龍はその日も保安局の影響下にある病院で治療を受けていた。医師と祈祷師による診察を受けた後、医学的、超常的、あるいはその両面からの治療を受けるのだ。


 別室で上半身の衣服を脱ぐと、筋骨隆々の肉体が露わになる。呑龍は再生能力を持ったサイキッカーではないが、超越者としての超身体能力持ちはそれだけで常人モータルとは比較にならないほど回復能力が高く、包帯も胸の矢傷と、背中に受けた深い裂傷以外を除いてほぼ取れていた。



「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ……」

 魔法陣の上に座す呑龍を白装束の祈祷師たちが取り囲みマントラを唱え祈りを捧げると、包帯の下で右胸の矢傷のあたりに刺青の如く刻まれた黒い模様が皮膚を突き破らんばかりにうねり、呑龍は不快感に思わず顔をしかめる。


「……今日はここまでにしましょう」

「どうですか先生方」


 30分ほどの治療を終えた後に呑龍が尋ねると、まず医者が答えた。

「肉体の回復は順調そのものですね、やはり普通の方と身体の造りが違うのか、治りの早さが違う」

「いえ……これでも回復速度が落ちています。やはり……敵の能力の影響ですか」


 次に答えたのは祈祷師だった。

「そうですね……、この胸に残った霊力の残滓はいわば呪い、それがあなたの霊的な力を吸い取っています」

「……治りそうですかねぇ」

「幸い、この二週間で呪いは確実に弱っています、我々で解呪は可能でしょう。しかし呪いの進行を進めないためには、引き続きご自身の霊力を使わないように、安静を続けてください」

「わかりました。先生方、ありがとうございます」




 治療を終えた呑龍は再び病室に戻る。社会に影響力を行使する秘密組織の工作員にあてがわれた病院の個室は静謐せいひつそのものの環境であるが、ストーブもない簡素な部屋は寒く、白い息が漏れそうなほどだ。

 そして退屈だ。医師と看護婦に隠れての軽い筋力トレーニング、読書、ラジオ……娯楽は少ない。一日も早く退院して柔道と剣術の鍛錬をする事と、腹一杯に飯を食う事が呑龍の今の望みである。



 ――――赤色テロ組織「赤のくさび」による松竹館襲撃事件から半月以上が経った。日々深まる寒さと食糧難に困窮する人々の叫びが強くなり、同時にクリスマスの話題がラジオからは頻繁に流れるようになった。

 赤の楔の活動は去年の今頃と比較して明らかに攻撃性が増している、先日も米軍関係者が襲撃を受け、重傷者が出たという知らせを保安局職員が持ってきた。ベッドで寝ている間に件の組織が無事壊滅、とは行くはずもなく、この問題がまだ長引くであろう事は明らかだった。


 窓側に立ち、代わり映えのしない病室の外の景色を眺めていた呑龍であったが、人の気配と扉をノックする音によってその意識が引き戻される。

「池野さーん、お見舞いの方がいらっしゃいましたよー」

「見舞い?」


 呑龍が身構えいぶかしむも、眼鏡をかけた中年の看護婦女性は確かにそう告げており、了解も得ずに戸を開けた。その彼女の後ろから面会許可証を持って出て来たのは、背の低い、いかにも気の弱そうな若い女性だった。


「お帰りの際はまた一言お申し出下さい」

「はい、ありがとうございます」

 看護婦は扉を閉めるとそそくさに立ち去ってしまい、病室には二人だけが残された。


「こんにちは池野さん、具合はいかがでしょうか」

「まあまあ、だな」

 体調について答えた後、呑龍は怪訝な表情で若い女性を見る。

「それよりお前、また来たのか」


 この女性がこの病室に来るのはこれが初めての事ではない、実をというと既に片手の指では足りないぐらいだ。

「え、あ、あの……はい……」

 すると女性は口ごもり、肩をこわばらせながらうつむいてしまった。見るからに気の弱そうな女性で自己主張が強くなく、霊銀とはまた違った意味で何を考えているのかわかりにくい人物だった。


「まあいいや……何も無いけど少し休んでけ」

 そう言って呑龍は病室の椅子を引っ張り出す。女性は「いえ、大丈夫です」だとか「すみません」だとか申し訳なさそうに遠慮をするが、その日も同じだ。前回と同じように女性を椅子に座らせ、荷物は机や床などその辺に置かせた。


 それからは沈黙が続き、呑龍はそれを破る為にラジオを頼る。寡黙な二人とは裏腹にニュースを読み上げるラジオは雄弁で、これがあるだけで殺風景な病室も心なしか賑わった気になれる。


「あの……」

「何だ」

「その、ご迷惑だった、でしょうか……」

 しばらくすると、女性は気まずそうに尋ねた。


「いや、別にそういうわけじゃねえんだが…………お陰でそこまでの怪我でもなかったし、よ」

 そういう訳ではない、そういう訳ではなかった。ただそんな毎日のように来なくても良いのに、というのが呑龍の意見であった。


「いえ……池野さんが大怪我をされたのは、私の手際が悪かったせいで……」

 女性の名を野中 イツ子というのだが、イツ子は松竹館で襲撃を受けた”あの晩”の通信担当の職員である。


 彼女は呑龍の大怪我を自分の通信対応の不手際と思い込み、その自責から呑龍の見舞いに足しげく通っているようなのだが……。確かにあの晩、不手際に怒ったような覚えも無いでは無い。だが第一、命のやり取りの最中の事であったため、非常時ともなれば言葉が荒くなるのも当然の事であるし、そもそも呑龍は自身の負傷をイツ子の責任だとも思っていない。


「またその話か……、もう何度も言っただろ、あれは俺の実力不足だ。もっと力があれば怪我をすることもなかった。決してお前の責任じゃあねえ」


 その件に関してイツ子を責めるなどという気持ちは呑龍の心には微塵も無く、軽く肩を落とすと以前話したのと同じ言葉を彼女に聞かせる。


「でも……」

「もう何度も話したろ? この話はもう終わりだ、いいな?」

 呑龍が言うと、イツ子は小鳥のさえずりのような小さな声で了承する。これでようやく賽の河原の石を積むような問答が終わったのだ。



 ここで会話が途切れたかと思われたが、気弱そうな少女は自分から口を開き

「あの……池野さん、差し入れを持ってきたのですが……いかがでしょうか……?」

 と、呑龍に申し出る。


「お? 本当か? 有り難い」

 渋い表情だった彼の顔が途端に明るくなった。それを見てイツ子の緊張もややほぐれ、軽い笑みを見せると穴の開いたボロのバスケットの布を取り、差し入れの食事を呑龍に差し出した。


 それは海苔さえ張っていない、具の一つさえない簡素極まる玄米混じりの塩むすびであり、貧相極まる食事であった。だというのに呑龍は嫌な顔一つせず、心の底から喜んでそれを頬張った。

 霊銀ほどの大食漢でないにしろ、それでも人並み以上には腹が減る。戦争が終わってから二年、未だに食糧危機が続くこの日本では豪勢な病院食など出せるはずもない。そんな中で食事を持ってきてくれる存在はこの上なく有り難い存在であり、それが呑龍が一方的に見舞いに来るイツ子を邪険に追い払う事の出来ない大きな理由でもあった。


 イツ子が赤子の手のひらほどしかない、大根ときゅうりの漬物の入った小さな容器を差し出すと呑龍はそれも一緒に食らった。

 あっという間に一つを食べ終えると、顔に米粒がついているのも忘れて無我夢中に二つ目の塩むすびを貪り食った。街のそこら中で見かける、飢えた野犬のようだった。



 その様子を見てイツ子はクスりと笑う。呑龍は飯を食らう事に夢中でそれを気にも留めない。イツ子はバスケットの中からリンゴと包丁を取り出すと、「りんごの唄」の鼻歌を歌いながら、包丁で皮を丁寧に剥き始める。


「おい、通信手のお前……野中、で良かったか? 戦闘中だったとはいえ、この間は怒鳴って悪かったな」

 松竹館での応援要請の一件の事を呑龍が詫びると、名前を呼ばれた事が気恥ずかしかったのか、イツ子は鼻歌を止めて目線を下に向ける。


「いえ……それよりも、お命に別状がなくて良かったです」

「あまりかしこまらなくていい、俺の周りはそんな連中ばっかだ、霊銀のやつとかな。それより……リンゴか、高くなかったか?」

 腹が満ちてくるに従い頭の回るようになってきた呑龍が、イツ子の手に持ったリンゴを見たとき、ふと彼女の財布が気にかかった。

 イツ子の手にもったリンゴは青さの影を残し、いびつな形をしていたが、残飯を煮込んだシチューですら食うのに金のかかるような世の中で、これほどまともな青果が高くつくのは想像に難くない。


「いえ、大丈夫です」

「お前はちゃんと食えてるのか」

「はい、幸い保安局でのお仕事は多くのお賃金を頂けるので……」

「そうか」

 イツ子は嘘を言っていないようだった。保安局の仕事は血なまぐさいが、その辺の仕事よりはずっと金が出る。薄汚い格好で一日中闇市を彷徨って、病気を移されて野垂れ死ぬまで米兵相手に売春セックス契約を売り込み続ける所謂いわゆる「パンパン女」に堕ちるような人生とは比較するべくもなく、マシだ。


「ウウーム……」

 されど呑龍は食いかけの塩むすびを片手に唸る。これらの行為はイツ子が呑龍に対して勝手に負い目を感じて行った事であるものの、何度も見舞いと食事を持ってきて貰っている今となっては呑龍の方が彼女に借りがあるように思える。


 どうしたものか。その時ふと、呑龍は以前の事を思い出す。

(それと礼は良い。――もししたいと言うのなら”彼女”にする事だ)

 よぎったのは翠嵐スイランに言われた一言だ。


「ムー……そうだな……」

 記憶の中の言葉に呑龍は一人納得し頷く。イツ子は不思議に思って小首を傾げたが、彼女の瞳を見て呑龍はこう申し出た。


「よし、お前には世話になったからな、退院したら今度は俺が飯を食わせてやろう」

 彼がそう口にすると、イツ子は

「えっ……」

 と小さな驚きの声をあげてから遠慮の様子を見せる。


「そ、そんな、申し訳ないです。私は好きでやってる事なので……」

「なら、俺も好きにやったって良いだろう?」

「えっと、あの……あのその……」

 呑龍が言葉を返すと、イツ子は一瞬目を丸くしたが、金魚のようにパクパクさせていた口元に人差し指を添え、悩ましげな表情へとすぐに戻ってしまう。


「それとも、俺と飯を食うのは困るか? それなら何か別の物にするが……」


「いえ、そういう訳ではないの、です、が……」

 イツ子は困ったように目を泳がせる。こういう時、どのような返答をすれば良いのか尋常学校では教わっていない。とでも言いたげな顔だった。

「えっと……その……」


「ああ、わかったわかった。今決めなくていい、決める気になったら言え、な?」

 どこまでも返答に迷っているイツ子を見て呑龍は苦笑すると、イツ子の手からリンゴを取り、それをかじる。


 その時イツ子はようやく、小さく頷いた。




 リンゴの気持ちがわからないのなら、リンゴが気持ちを伝えて来るまで放っておけば良い。



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