銀の贖台:1


EPISODE 010 「銀の贖台:1」




「――起きろ、健康優良児」

 生まれて初めての友人との馴れ初めに心をときめかせた思い出の夢から立峰を引き起こさせたのは今の仕事の相方である池野こと呑龍どんりゅうの声だった。


「着いたのか?」

「近くまではな。ここからは降りるぞ」

 呑龍がそう言うと立峰こと「霊銀」は片目を閉じたままの渋い表情で車外の景色に目をやる。見知らぬ街の路地裏に停めたフォード・クーベの車内に夕日が差し込んでいた。


「ま、本当に着いたかどうかは、これからが答え合わせだがな」

 車外へ出ると呑龍が呟いた。


「どれくらい寝てた?」

「40分ぐらいだな」

「予定より少し遅いな」

 霊銀が言葉を口にすると、呑龍はむっと不機嫌そうに言葉を返した。

「地図を見るべき人間が寝たからな」


「この街で合ってるといいんだがなあ」

 二人が車を走らせ辿り着いた場所は神奈川県横浜市の保土谷区、この地域は後に分区に伴い「旭区」と地名を改める事になるが、約20年ほど先の出来事である。


「横浜市保土谷区 石中町、合致するのはこの地域なんだろ」

 霊銀はそう言うものの呑龍の表情は顔を歪めて微妙そうにしている。

「まあそうだが、「カナタ」っていうのがアレかどうかまではな」

「いや、多分そうだろう」



 横浜といっても広いもので、居眠りの前に霊銀が見たようなGHQ旧本部の置かれていた現馬車道、元町や新港みなとみらいなどを包括する東側もあれば、彼らの現在地である西側のように犯罪者が略奪するものさえろくにないような比較的静かな場所も存在する。

 特にこのあたりは戦前には駅さえなく、近ごろになってようやく駅の建設工事が始まったぐらいだ。

二人は「希望ヶ丘駅、建設予定地域」の看板と工事の音を横にして道を歩く。


 霊銀は気も留めなかったが、呑龍はその建設予定の駅名を見て鼻を鳴らすと不服を呟いた。

「皮肉だな」

「何がだ?」

「希望ヶ丘って名前がだよ。こんな何もない所だが、この辺りは戦争中、大量の爆弾が落ちて来て大勢のやつが死んだ場所のはずだ。……それを希望と呼びたいらしいぜ」

「絶望が丘にでも名前を変えるとかどうだ」


「そりゃだめだ」

 呑龍は陰気な瞳でこうこぼした。

「そんな名前の似合う場所は、今の日本には多すぎる」



 ★




 車を降りて数分歩き、希望ヶ丘駅建設予定地から歩いて2分ほどの所までやってくると空襲を免れたのであろう、古い木造の小さな建物を見つけた。


 「店書カナタ」。でかでかと店の前に看板が張り付けてあった。田中書店、とるに足らない地元の小さな書店……確かに、左から読めば「カナタ」と読むこともできる。


「田中書店……ここだな。……いや、本当にここか?」

 店を前にして腕組みする呑龍は未だに半信半疑だった。確かに逆から読めば「カナタ」だが、田中の店というだけならこの町にさえ4軒ほどある、「田中理髪店」とか「田中畳店」、いや「田中質店」という故買こばい商の店があるらしい、そこの方がよほど胡散臭い。だが霊銀の表情の方には確信が宿っていた。


「間違いない」

「何故そう言い切れる」

 呑龍が根拠を聞くと、霊銀は一言こう述べた。

「この近辺で「二四六〇一号」を注文できるのは恐らくここだけだ」

「ふうん、俺にはよくわからんからな、お前に任せるわ」


「いらっしゃい」

 いかにも立て付けの悪そうな田中書店の空きっぱなしの戸を潜ると初老の店主が卓上に置かれた雑誌を見たまま、二人の客を顔さえ見ずにぶっきらぼうに迎えた。


「読みたい本がある」

「なんでしょう、大体のものはあると思います」

「ユゴーの「嗚無情ああむじょう」が欲しい」

 霊銀が本の題を口にすると、ようやく店主が雑誌から目を離し、霊銀の瞳を見た。だが、ほんの一瞬だけだった。


「ううん? すいませんね、うちにはありません」

 無愛想に返した店主はまた雑誌に目を落としてしまった。カビ臭い誇り舞う小さな書店の棚には多くの本が並べられており、店主が煙草をふかすと開けっ放しの店だというのにやけに息苦しく感じる。

 カウンターの後ろにはラジオが置かれ、そこからは並木路子の「りんごの唄」が流れて続けている。戦後を代表する曲の一つだ。リンゴの気持ちなど霊銀にはわからないが、眼前の店主の目線の逸らし方、煙草を吸いなおす際の挙動のぎこちなさから、彼が嘘をついている事はわかった。


 話を打ちきろうという態度のよく見え透いた店主に対し霊銀は構わず話を続ける。

「子供の頃に児童書で「銀の燭台」の話を読んだんだが、続きがあるって聞いたんだ」

「へえ、そうなんですか」


 店主は尚も目を合わせなかった。暴力に訴えかける事は容易いが呑龍はまだそれを行使せず、霊銀もまた同様であった。


 冷たい態度の店主向け、霊銀はふいに次の言葉を口にした。

「コレ戒瓦戒(ジャン・バルジャン)、コレ兄弟、お前さんはう悪に従っては成らぬよ、善の人だよ」

 それは「レ・ミゼラブル」の邦訳版「嗚無情」における一説で、有名なシーンにおける台詞であった。その一説を聞くなり夕暮れの薄暗い店の中に中にあっても店主の顔色がみるみる変わってゆくのが見て取れた。



 店主は慌てたようにまだ先の長い煙草を灰皿に押し付けると、立ち上がって言った。

「思い出しました。「銀の皿、銀の燭台」における彌里耳(ミリイル)僧正の言葉ですね」


「そうだ、続きを読みたい。何とか注文できないか」

「いえ、思い出しました、この店の奥にあったはずです。すぐに出しますんで少々お待ちを」

 先ほどと言ってることを急に変えた店主は店の奥の小部屋の鍵を開け、そそくさとその中に入っていった。

 店主は小部屋に入ると引き出しを開け、そこから一冊の本を取り出した。レ・ミゼラブルの初期の邦訳版として知られる「嗚無情ああむじょう」、黒岩翻訳版の第二版そのものだった。


「ありましたよお客さん。まったくわかりませんでしたよ。次からはきちんと合言葉も教わって来て……」

 背後の足音に気付いた店主が困ったような笑顔を浮かべ「くださいね」と言葉を続けようとしながら振り返った瞬間、彼の思考は停止した。



 ――――彼の眼前には大男の大きな拳があった。気がおかしくなったのか、その拳は銀色の光沢を帯びているようにも見えたが本当の所はどうだったかわからない。

 一つだけ確かだった事は、ぼさぼさ髪の大男は笑っていた事、そして店主の眼前が暗くなる瞬間、小部屋へと勢いよく飛びこんで来た男は冗談めかした言葉を吐いた事だった。



 霊銀は

「アア、立ち去るなら昨日遣った燭台を食らってくがい」

 と云いつつ、急ぎて次のに行き、彼の二個一拳をもって来て

「サアこれもお前さんのだから」

 といって拳を叩きこんだ。


 店主は頭の先から足の先まで震ひつつ銀の燭台ならぬ銀の拳を受け取った。


 壁に打ち付けられた店主は銀の腕に胸倉を持たれたままそのこうべを垂れたまま、身動きも得さぬ。あるいは気絶しそうである、既に気絶して居るのでは有るまいか


 呑龍は尻を載せていたカウンターより降りて彼の前に立った。

「あー……こういう時は何て言えば面白いんだ?」


 振られて霊銀はこう述べた。

「「お前さん決して忘れてはいけないよ、この銀の拳や銀の手刀を経験にし屹度きっと資本主義者ぜんにんに立返ると私しに約束した事を」……こうだ」


「はあん、読んだのか?」

「まあな、ガキの頃に」

 霊銀が「銀の燭台」の話しか読んだことがないなどというのは嘘だ。嗚無情なら子供の頃屋敷に置いてあったから全文読んだし、大人になってから英訳版までも全文読破した。


 まあ、現在の彼の風貌からは推測もつかないような彼の生い立ちと士官学校入学以前の少年時代の暮らしを知っていればそれほど驚く事でもないのだが、それでも呑龍にとっては霊銀の思いがけない教養の深さには度々関心させられることがある。


「はあ~、俺にはわけわかんねえや、教育勅諭きょういくちょくゆならまだ憶えてるがなあ。「進んで公益を広め世務せいむを開き、常に国憲を重んじ……」ってよ。やっぱ育ちの良いお坊ちゃんは違うねえ」


「よせ、とっくに没落した。それに俺は教育勅諭を覚えてない」

 霊銀は嫌そうな顔で答えた。初代マコトのあの愛くるしい瞳は今も思い出すが、両親の顔はもう忘れた、いや、思い出すのも不愉快なのだ。


 祖父は病没し、両親は戦後ソ連軍が南下してくる際に逃げ遅れどちらも哀れな死を迎えた。

 この件に関しては唯一ソビエトに感謝している、なぜなら一時は巨額の富を築いた夫婦も関連事業に手を出した際に失敗、その際に莫大な負債を背負わされたしく、借金のカタとして自分を売ろうとした事さえあったのだ。皮肉なもので戦争に勝っても負けても駄目になる運命の二人だったと云える。


「うう……ああ……」

 超能力によって変質した銀の腕で殴られ、掴まれ、それから霊銀の両の瞳に宿った旭日のようにあかい超常の光を目にした時、店主は恐怖によってよだれを垂らしながらガクガクと震え、床を生暖かい水で濡らし始める。


「常人相手にあまり能力を使うな。普通の人間はエテルに耐性がないから、浴び過ぎると気が違っちまう事になる」

 中国で何度民間人のこうした反応を見てきたかわからない呑龍が霊銀を軽く注意した。



 ――――超能力者が神々の力の如き現実の世界法則を侵すような力を行使する際、第五元素「エーテル」若しくは「エテル」と呼ばれる神界の粒子を発しているとされている。


 同じ超能力者や超越者、”祈り手”と呼ばれる祈祷師たちはこれらの物質に耐性を持つため問題ないものの、それら神々の才能に縁のない大多数の凡人にとっては悪質なものとなる。


 超能力者が戦争に投入され前線で大活躍――――それは多くの現実改変と超常現象、そしてエーテルの爪痕を残していった事を意味する。


 超能力者が戦いによって大量に撒き散らしたエーテルが、敵軍はおろか味方兵士の精神にも悪影響を与え多数の発狂者・自殺者を生み出したことから、超能力者がしばしば起こすエーテル発光を揶揄やゆして「ピカっと光る気狂い粒子、肺に吸い込みゃ気が狂う♪」と前線の兵士たちに歌われた。


 超能力者は敵にとっては勿論、味方にとってさえも畏怖の対象であった。本土でこそ英雄だの軍神だの担ぎ上げられたものの、実態はそんな生易しいものではなかったのだ。



「チ、わかったよ」

 腹水ふくすいぼうに還らず。とはよく言ったもので、一度床に垂れ流してしまった生暖かい店主のそれを元の場所に戻してやる事は不可能だったが、呑龍の注意に従って霊銀がその肉体変化能力を解除すると、店主のめまぐるしく動く眼球の揺れ動きは徐々にではあるが収まり始める。


「今から質問するから正直に答えろ。嘘をつけば一本ずつ指を引き抜く、黙っていても引き抜く。二十一回目にはお前の生殖器を引き抜く、いいな」

 霊銀は低い声で恐るべき言葉を口にした。店主は息を荒くしたまま何度も頷いた。


「では一回目からスタートだ」

 そう呟いた直後、霊銀は店主の左手小指を掴んだ。それが惨劇の始まりだった。





EPISODE「銀の贖台:2」へ続く。


===


☘TIPS・世界観


 フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーの代表作「レ・ミゼラブル」は戦前にも「嗚無情」の題で翻訳されました。日本人が親しみやすいようにと訳者によってユニークな翻訳がされており、大正四年版に出版されたものは主人公のジャン・バルジャンは「戒瓦戒」と当て字を、ミリエル司教は「彌里耳(ミリイル)僧正」と肩書きまで仏教徒風に、ヒロインのコゼットも「小雪」と名を改められています。


 また、児童向けに作中の「銀の燭台」のエピソードのみを抜粋した版のものも存在したようです。

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