31 ~啓蒙――ひかりあれ~
◎◎
「ならんよ、あってはならぬ。そうさせぬために――〝私〟が来たのだから」
濃密な闇に包まれた路地裏に、清涼な声がこだまする。
ハッと視線を向けると、そこにはひとりの――不思議な格好の人物が
映画のなかでしか見たことがないような、平安貴族なんかが着ている黒い文官束帯。
顔は見えない。
烏帽子から垂れる薄く黒い紗幕が、その顔を隠しているからだ。
普段なら、出会っただけで通報ものの、奇妙な格好の誰か。
奇妙奇天烈なコスプレイヤー。
だけれど、なぜか。
どうしてだか無性に、その声を聴くだけで、あたしは落ち着くことが出来て。
「――加茂忠保」
蘆屋道満と呼ばれた、あたしの同僚の姿をした何者かが、ギリリと奥歯を噛み締め、きしるようにその名を呼ぶ。
まるで怨敵を名指しするみたいに、仇敵と再会したときのように。
だけれど、黒衣の平安貴族は、ゆるりと首を振ってみせた。
「否――既に肉体は、忠保に返した。のちの時代、この時代のためにも、忠保には陰陽寮を率いてもらわねば困る。だから、これは〝私〟だ。道満、おまえが一番よく知っているものだ!」
「ッ! 彼奴か! ぬしは彼奴か! 儂を追うために、時を超えるために肉体を捨てて来たか、折角拾った命を、むざむざ捨てに来たか!」
「そうだ。おまえと同じだ道満。いや――」
そこで、彼はあたしを見た。
表情は紗幕で変らずに伺えない。
でも、その視線は。
紗幕の下から、それを貫通して届く視線は、言葉は、怖いぐらいの、慈愛に充ち溢れたもので。
「信田葛葉。すべてを剥奪され、齟齬によって記憶まで失った、不憫な娘よ。だが――君は、思いださなくてはならない」
「あなたは」
あなたは、いったい誰なんですか?
不思議と落ち着いた気持ちで、そう尋ねると、彼は小さく肩を揺らす。
「私にはもう、名乗る名はない。氏名はない。残っているのは、使命だけだ。だけれど君には、奪われてなお、残るものがある。思いだせ、取り戻せ、信田葛葉」
優しく。
とても優しく、彼は言った。
「君の胸の中にある想いはなんだ? そして……手の中にあるそれは、いったいなんだい?」
あたしの胸の中にあるもの。
あたしの、この手の中にあるもの。
そっと視線をおとす。
右手のなかを見る。
そこには。
そこには――
「
闇に迸る焔の罵声。
振り返れば、あの道満と呼ばれた人物が、その瞳を憎悪にも嫌悪にも似た感情に燃やしながら、左手を振り上げるところだった。
闇夜に刻まれる、九つの
それは、
「臨兵闘者・皆陣列前行! 九字――
闇よりも深い、暗黒の紋様が空間に描き出された瞬間、なにかが悍ましい咆哮を上げた。
『
路地裏の奥、その最奥の奈落から姿を現したのは、奇妙に肉体が膨張した巨人だった。
筋骨隆々と呼ぶには、それはあまりに
右腕は丸太どころか大岩の如く膨れ上がり、見に纏っている服――スーツだったであろうものは千切れ飛んで、わずかに残滓をまとわりつかせているのみ。
一方で左腕は枯れ木のように細く、しかし手の平だけが
下半身は上半身に比べて異様に貧弱で、だけれどそこも、芋虫のような変化を遂げて異形と化している。
路地裏のすべてを占めるほど巨大なその異形は。
だけれどその屈強で歪な上半身の上に乗る頭部に、苦痛と恐怖、そしてどうしようもない絶望の表情を、生じさせていた。
ひび割れた眼鏡。
その下の、
思わず悲鳴をあげてしまうほど、醜く爛れたその相貌。
だけれど、恐怖の先に、あたしは見覚えがあるものをふたつ見つけた。
ひとつは、その瞳の色。
その爛々とした瞳を、あたしは確かに、以前どこかで見たことがあって。
そしてもうひとつ。
「
反射的に叫んでいた。
その名を口にしていた。
尋ねていた。
そう、その怪物は。
消え去ったはずの、上司の顔をしていたのだ。
『たすけ……ころ、ころして、しのだ、くん――ぎ、ぎぎぎ――ああああああああああああああ!!!』
叫ぶ。
絶叫をあげる。
その化け物は――〝鬼〟は、涙を流して、あたしたちへと踊りかかった。
「信田葛葉!」
あたしを追い抜き、迫る鬼の前に立ちはだかりながら彼は――
その両手に、何枚もの札を掴み、黒衣の男性は言い放った。
「取り戻せ、思い出せ、君の手の中に――すべてがある!」
その言葉を皮切りにして、引き金にして
――あたしの視界が――
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